映画「タネは誰のもの」が投げかける問い わたしたちは本当にこのままで良いのか

By 高野 慎太郎

映画「タネは誰のもの」DVDに解説を書かせて頂きました。紙幅の都合から縮約した部分やその後の授業の展開などを盛り込んだ「全長版」をこちらに掲載いたします。「タネは誰のもの」は目から鱗の名作ですので、ぜひご覧ください。

https://kiroku-bito.com/tanedare/

本作が投げかける問い

・映画『タネは誰のもの』には「問いの構造」が織り込まれている。「種苗法改正とはなにか?」という政策論を「子問題」として、「そもそもタネは誰のものなのか?」という公共性に関する「親問題」へと観客を誘うつくりになっているのだ。

・「子問題」から「親問題」へと問いを深めていく構造に学びの可能性を見出したのは哲学者の鶴見俊輔氏だ。氏は、容易に答えの出る「子問題」から、より本質的で永続的な「親問題」へと問いが切り替わるときに、新たな学びの地平が切り拓かれるとした。

・この意味で本作は極めて教育的だ。「公共性」に関心を寄せるはずの教育現場は、本作の問いに応答できているか。本稿では「農業」と「教育」という観点からの視点を提案することによって、本作の「問い」に対する教育現場からの応答を試みたい。

「文化」と「文明」の視点から

・議論に先立って、「教育」「農業」という言葉について簡単な注釈を入れておきたい。というのも、「農業」や「教育」という言葉の含意に無自覚なままに議論することで陥りがちな「文明病」の症状に注意が必要だからである。

・経済学者の宇沢弘文氏は「農業」に代えて「農の営み」という言葉を推奨した。「農の営み」の起源は人類史と共にあり、以降の人類と自然の関係を描写している。対して、「農業」という概念は資本主義的な市場経済の段階に入って成立したごく最近のもの。

・「農の営み」は「地域性」「伝統性」を含意し、「農業」は「普遍性」「合理性」を含意する。無自覚に「農業」の語を用いれば、本来であれば当然に想定されるべき「伝統への想像力」が失われ「合理性」の枠組みの内側に思考が閉ざされてしまう。

・一方、「教育」はどうか。“education”の翻訳として明治期に発明された「教育」概念だが、教育学者の田中萬年氏によればこの翻訳はデタラメだ。“education”が「引き出す」方向のベクトルを持つのに対して、「教育」は「教え込む」ベクトルを持つ。

・「教え込み」のベクトルは近代学校教育制度以後の発想だ。特に先述の「育」に対する「教」の優越は、エリート養成が急務だった「後発近代化国」に見出される特徴であって、“education”の持つ本来的な価値観とはまったく無関係のものである。

・現代では、「農業」「教育」の持つ本来の意味が語り落とされてしまっていると言って良いだろう。いまここで試みに「農業」「教育」に代えて「農の営み」「育の営み」といった言葉を用いたときに、どのような思考が可能になるだろうか。

・“education”に含まれていた「引き出す」という意味は、「子どもがもともと持っている良さを引き出す」という意味である。この場合の「良さ」は子どものうちにすでに内在しており、それを引き出してくるのが「育」の役割だと考えられている。

・ラテン語の故事に「酸っぱい野苺」の話がある。野生の野苺は酸っぱいが、周囲の土壌を耕し続けることによって徐々に甘みが増してくる。もともと野苺に含まれていた「甘み」が、土壌の変化によって「引き出された」という意味の小噺である。

・このとき、野苺が甘くなったことをラテン語で「文化を持った」と表現する。「文化」は英語で“culture”だが、語源にあたる“colere”はラテン語で「耕作」の意味。つまり「耕す」という所作を通して「良さを引き出す」ことが「文化」なのである。

・土が違えば引き出される「良さ」も異なる。「良さ」は固有の「滋味」となって「文化」の多様性をかたち作る。「練馬大根」が練馬に根差すように、「ほうとう」が山梨に根差すように、「あきたこまち」が秋田に根差すように、「文化」は入れ替え不能なもの。

・街を見渡せば「魚屋」「八百屋」「定食屋」といった「商店街の風景」も文化だった。過去形で書いたのは、いまや「商店街の風景」は失われたからだ。1990年以降、「商店街」は「スーパー」に取って代わり、「定食屋」は「マクドナルド」へと代わった。

・いま駅前には「デニーズ」「サイゼリヤ」「コストコ」「ケンタッキー」「スターバックス」が広がっているが、これは日本だけではない。世界中の駅前に同じ光景が広がることに驚きを持たない時代に我々は暮らしている。世界的な「文明化」の時代だ。

・「文化」が土に根差すがゆえに入れ替え不可能であるのに対して、「文明」は(マニュアルさえあれば)どこにおいても再現可能であることを特徴とする。「固有性」「多様性」を体現する「文化」に対して、「文明」は「普遍性」「均一性」を体現している。

・「文化」が「記憶」の蓄積を軸とした「垂直方向」の時間的繋がりを持つのに対し、「文明」は「合理性」の追求を軸とした「水平方向」の空間的広がりを持つ。「文化」が農耕民的であるのに対し、「文明」は都会人的な性質を持つ。

・都会人(civitas)に成るということ(lization)を文明(civilization)という。グローバル化という世界的な「文明化」の進行のなかで、「合理化」は無批判に良いこととされ、世界はいずこも「都会」となり、すべてが入れ替え可能な場所となりつつある。

・「育」の分野における文明化は「伝統校」の凋落に顕著だ。伝統には「不合理」が伴う。「形式的な不合理が機能的な合理をもたらす」という種類の逆説の記憶を共有しない新世代が「合理化」を繰り返す。そして伝統校は「よくある学校化」する。

・一方、「農の入れ替え可能化」は「タネの民営化」の形で進行している。1994年の北米自由貿易協定(NAFTA)以降、多国籍アグリ企業が進出したメキシコでは数千種類あったトウモロコシの伝統固有種はわずか数種類の普遍種に集約された。

・コロンビア・グアテマラでは、種子・種苗の自家増殖禁止と民間企業からの購入義務付けを規定した法律(通称モンサント法案)が可決・施行。ただ、土壌が違えば育つタネも違う。集約された普遍種の栽培に向かない土地があることが難点だった。

・そこで始められたのが、農薬・化学肥料とのセット販売だ。化学肥料と農薬によって自然を化学的に「調教」することで、どの地域でも普遍種の栽培を可能とした。まさに我々は「文明」が「文化」を駆逐する過程を目の当たりにしているのである。

・ただ、私は楽観視したい。文明依存が蓄積すれば不健康を招くことは明らかだからだ。映画「スーパーサイズ・ミー」を見よう。人はファストフードだけでは生きていけないではないか。「文化」の保守が不可欠だと気付くときは、そう遠くはないはずだ。

・「文明」の限界が露呈したその時に巻き返しを図るために、あえてする「アナクロニズム」(時代錯誤)を推奨したい。「時代錯誤」は百も承知の上で、土に根差した「文化」を擁護し「伝統」や「不合理」を称揚する「大地主義」の立場をとるのである。

「農」と「育」の歴史から

・「大地主義」の議論は古くて新しい。歴史の一端を「農」と「育」の共通点に見てみよう。「農」と「育」の賜物は「農作物」と「子ども」である。いずれも「飼育する」や「教える」といった対象ではなく「育てる」という領域に属するものだ。

・農作物や子どもを「育てる」という場合に、育てる「主体」は誰だと考えるだろうか。いまでこそ農作物を育てるのは「農家」であって、子どもを育てるのは「親」や「教師」と相場が決まっているが、実はこうした発想はごく最近のものにすぎない。

・民俗学・人類学の知見によれば「農作物」や「子ども」は「神から与えられるもの」と捉えられてきた。神話の世界では農作物の収穫にまつわる神(豊穣神)が知られる。ギリシャ神話では「デメテル」「ペルセポネ」、日本神話では「トヨウケビメ」が豊穣神にあたり、伝統社会では「農作物」はそうした神の「贈り物」とされてきたのである。

・「子ども」についても同様である。「七つ前は神のうち」「子宝を授かる」という古くからの言葉が知られる。幼い子どもも「神」の領域に属するものであって、妊娠・出産という所作を通して神から「授かる」という認識があった。

・「子ども」や「農作物」は「神聖なもの」だからこそ「全員で育んでいく」「みんなのものとして育む」という対応がとられてきた。世界中の「農」と「育」の営みに共通して「全員参加」の風習が見られるのはそのためだ。古代中国の例から説明する。

・中国で「農家」と呼ばれた思想家(諸子百家の一家)は、位階に関係なく農業に全員参加する規範(神農の元での君民並耕)を唱えており、古代中国の「農」の様子を伝える書物(農書)には、実際に身分に関係なく誰もが農業に従事する姿が描かれている。

・日本においても「農」は年齢や性別に関係なく村の総出で行われた。それゆえに田畑は若い人々の「社交場」としての機能をも果たしていた。例えば「早乙女(五月女)」という言葉は、五月の田植えが若い男女の出会いの場であった事情を伝えている。

・農村におけるこうした「全員参加」という文化によって準備されたのが、「公共」という概念である。「我田引水」という熟語を例に説明する。「我田引水」とは、水資源が少ないなかで自分の水田にだけ水を引くような振る舞いを戒める言葉である。

・誰かが「我田引水」をすれば、水が不足した水田の土壌は荒んで村全体の土壌悪化を招く。このことは「公益」を毀損する。「村の公益を毀損する」という理路によって、「我田引水」の振る舞いは戒めを受けることになるのである。

・もしもこの忠告が聞き入れられない場合には、「村八分」の対応がなされる。暗黒面ばかりが喧伝されがちな「村八分」の風習だが、本来は「公益」の棄損に対する村全体による意思表示を指す。「村八分」の背景にあるのは「公共」の意識なのである。

・ちなみに、私の母方の実家は埼玉県狭山市で長く続いている農家で、私は幼いころからよく実家の田畑で遊んでいた。思えば、近隣の農家のあいだで「今年は虫害が多い」とか「そろそろ畑に手を入れないといけない」などの声を掛け合う姿が思い出される。

・そこで見られたのは、互いに仕事について声を掛け合うことで村全体の農業の進捗(カレンダー)を統一する風習であった。そのことが虫害や栄養素の偏りを予防していた。「村全体」という考え方に、農村における「公共」概念が認められるのである。

・一方で、「子育て」における全員参加とはどのようなものだったのだろうか。実は現在のような「学校教育」が開始するまえには、「児やらひ」という子育て方法が一般的であった。「児やらひ」とは、一定の年齢に達した時点で子どもをあえて「厄介払い」することによって、様々な人と関わりを持たせながら一人前に育てる方法である。

・当然、子どもに対する関わり方は人によって異なるため、子どもからしてみれば「あの人とこの人では言っていることが違う」という事態が起こる。それでも、こうした「板挟み」状態の経験が「公共」の育成に極めて重要な意味を持っているのである。

・言語の習得に年齢の壁があるように情操の習得にも年齢の壁がある。幼いうちに人々の多様な価値観に触れることを通して、子どもは自分自身の内面に「みんな」という感覚を育む。この場合の「みんな」は、相手の顔が想起できる範囲の関係性を基盤とする。

・相手の「顔」を想像することができるような範囲で、実感的なかたちで「みんな」という感覚が育まれることに「児やらひ」という方法の意義がある。こうして形成された顔の見える「みんな」の感覚が、村落共同体における「公共」を支えてきたのである。

「ローカルな公共」という視点

・「公共」という概念には「国家の公共」と「ローカルな公共」の2つがある。例えば、「公共の福祉」と法律に書かれた場合の「公共」は、事前に規定されたものとして「お上」から民衆へと下りてくる形の公共(国家の公共)にあたる。

・一方、これまで検討してきたように、具体的な「顔」を想起することができる公共(ローカルな公共)というものもある。これは、場所に根差した共通体験や共通感覚の「記憶」を蓄積することによって成立するもので、その地域の「自律」を支える基盤となる。

・例えば、「ローカルな公共」は政治的・経済的な「自治」を指向する活動に展開する可能性を持つ。「スローフード運動」が有名だ。いまでは世界中で展開しているが、始発はマクドナルドのイタリア進出に対する抵抗運動(食の自治の保全運動)だった。

・日本では「自治」の基盤は「農村文化」とされる。玉野井芳郎の「地域主義」が嚆矢で、「パルシステム生協」も同様の思想だ。地域が抱える問題意識をテコに、農家・農政・農協の3者を繋げて食の自治を起爆する手法は「地域主義」そのものである。

・2018年に種子法が廃止されたときに、「種子条例」を制定することによって種子法の機能を復活させようとする動きが広がった。こうした対応が地方自治体の単位において広がりをみせたことは、「ローカルな公共」の可能性を改めて想起させる。

・「グローバル化」や「小さな政府化」といったマクロレベルの趨勢に対して、返す刀でミクロレベルでの自治を実現できるかが今後のカギとなろう。

「市民的リテラシー教育」という理念

・私は教育現場の人間であるから、自治への動機付けとその能力・態度を自他に涵養する教育実践に関心を寄せる。そこで数年前から「市民的リテラシー教育」を提唱している。

・「市民的リテラシー」という概念はデューイ、柳田国男を主たる論者とする「公民の教育」概念を本歌取りしたもの。社会的機能の視点から「教育」を観察し、枝葉末節を削ぎ落しても最後に残る教育の機能概念である。

・私は「市民的リテラシー」を公正で民主的な社会を創造する態度・能力と捉え、能力・態度としての[熟議の構え+表象能力]と価値概念としての[社会正義+多様性]と規定している。

・デューイ・柳田的な公民教育の発想に基づいて行われた戦後初期の生徒会活動や国語教育の実践には、目を見張るものがあった。しかし、50年代前後の「逆コース」のなかで教育学の系譜からそれらは断絶されてしまう。

・米国を中心として「市民的リテラシー」の実践は幅広く展開されてきたが、系譜を持たない日本ではそれを十分に咀嚼することが困難化している。例えば、「公民の教育」概念の継承者であるダイアン・グッドマン(ニューヨーク州立大学)は、21世紀初頭、教育の機能を“Promoting Diversity and Social Justice”と宣言するに至った。

・これは教育の機能を正面から捉え直す契機を内包した議論だったが、上記を書名とするグッドマンの原著は『真のダイバーシティをめざして』という題で邦訳されており(2020年)、おおよそ議論の核心部は見過ごされている。

・「市民的リテラシー教育」とは、校正で民主的な社会を創造するための能力・態度と動機づけを涵養する教育であり、そこで育まれる能力を要約的にまとめれば、「社会のプラットフォームを問い直し、再構築する能力」であると言って良い。

・始めに「プラットフォームを再構築する能力」から説明する。これは、社会を変革する力を持ち得なかった過去の教育への反省から生まれた考え方で、言語によって社会に働きかけるちからを意味する。こうしたちからは概念的には「表象能力」と呼ばれる。

・「気象予報」との類比で説明する。気象予報士は「気象」に関する高度な「分析力」や「表現力」を持つが、「天気」そのものに影響を与えることはできない。仮に、物事を正しく読み解いたり、正しく考えたり、正しく表現するちからを「読解力」「思考力」「表現力」と呼ぶならば、それらは「気象予報」のためのものにすぎないのである。

・「市民的リテラシー教育」が重視するのは、実際に社会に新たな言語的な文脈をつくり出すちからである。例えば、社会課題について分析し、課題解決のための冊子を編纂したり、シンポジウムを開催したり、他校で生徒が「出張授業」を実施したりする。

・このように、社会に新たな言語活動の文脈を切り拓いていく過程で育まれるのが言語によって実際に社会を操作する能力(表象能力)である。戦後まもなくの国語科教育では、公民を育成すべく徹底して「表象能力」の鍛錬が行われていた。

・一方、「社会のプラットフォームを問い直す」ということについては「議論や表現の前提を問う形でなされる、メタ議論的な議論(メタ視点による議論)」と定義することができる。一言でまとめれば「ゲームのルール」を問い直す構えである。

・私の授業では、「メタとベタ」という視点から社会現象を分析する。「メタ」とは「プラットフォーム自体に関する議論」を指し、ベタとは「(既に決定されたプラットフォームの中で議論される)コンテンツ自体に関する議論」を指す。

・巷で話題の“SDGs”を例にとるならば、いきなり「SDGsの達成方法」を議論するのが「ベタ」な議論。本当にSDGsが価値あるものなのか、背景にはどのような意図があるのか。背景を見通さずに具体案に走るものは「優秀なコマ」にしかならない。

・「メタ」な議論では、SDGsという言葉が求められる背景は何か、SDGsという言葉を用いる人々が欲望しているものは何か、日本におけるSDGs論者が(無)意識的に特定の論件―ラトゥーシュ「脱成長論」など―を語り落とすのはなぜなのか…といった論点に焦点化することで、SDGsに関わる議論の全体を見渡すことを試みる。

・「メタ」な視点は、「食」や「農」に関する教育においてはとくに重要になると思われる。というのも、これまで「食」や「農」を扱ってきた「社会科」「家庭科」「食育」といった分野には、議論のプラットフォームを問い直す視点が欠けていたからだ。

・「どのように料理を作るか」(家庭科)、「食品がどこから輸入されるか」(社会科)、「どのようなメニューが健康的か」(食育)といった「コンテンツベース」の問いが一般的であり、プラットフォームを掘り下げる機会は皆無だったと言ってよい。

・メタ視点を欠いていたために、「健康的なメニュー作り」に関心のある者が食品のグリホサート値について無関心であったり、貿易合理性に関心のある者が添加物基準値の日米格差について無知であるような滑稽な事態が生じている。

「公共」を創り出す実践

・「公共」が創り出されるための下地(文化)を耕すために、学校教育を通して「市民的リテラシー」を育むことが重要と考える。私が実践する国語の授業では、地域が抱えている課題を授業とのコラボによって解決する取り組みを行っている。

・国語の授業のなかで、地域の課題の調査・把握、地域の人々との対話、解決策の提示、実際の社会活動といった活動を行うのである。具体的には、性の多様性(LGBTQ)と人権、子どもの貧困、男女共同参画など、公共性に関わる多くの課題を扱ってきた。

・ただ単に授業で社会課題を扱うだけであれば、その社会課題に対する生徒の関心は授業が終了すれば薄れていってしまう。関心を継続し、より深い課題意識へと展開するために、徹底的な学習を行ったうえで、熟議と社会実践の積み重ねを行う。

・熟議の問いかけにも趣向を凝らす。「もし、地方自治体の首長だったら、課題解決のためにどんな取り組みをするか」「もし、学校の先生だったら、どんな教育をするか」反実仮想のあり得そうもない問いかけで、答えのない問いを徹底的に議論する。

・この問いかけに応じて、シンポジウムや市民講座の開催、小学校・高等学校への出前授業の実施、課題に関連する映画を見たうえで語り合う市民映画会の開催、情報提供のための図書館での特別文庫の開設、学校校則の改正、地域のラジオ番組への出演などの案が生徒からあがり、そのすべてを実施してきた。

・こうした授業の取り組みを続けて5年目になるが、授業を受けた生徒の中には、学校を卒業した後も授業を継続して訪れたり、社会活動に参加したりする卒業生も多い。単位にも成績にもならないが、継続的に活動に参加する生徒がいるのはなぜか。

・生徒に理由を尋ねると、「それが当たり前になっているから」と答える。では、なぜ当たり前になったのか。生徒の話を総合してその理由を整理すると、授業での活動を通して「ローカルな公共」が「感情の履歴」とともに生徒の記憶に残るからである。

・地域の人々と語り合ったり、ともに活動を行うことによって、地域の人々の「顔」が具体的に記憶に残る。同時に、話し合いや活動の中で生まれた驚きや喜びといった「感情の履歴」が一緒に生徒の心に残される。

・具体的な活動を通して「顔」を突き合わせ、「感情の履歴」を共にすることが、「ローカルな公共」を疑似的に生み出すことに繋がったのだ。そのことによって、「ローカルな公共の創出」に参画することが「日常的な行動」として認知されたのであろう。

・こうした実践は特殊なものではない。新しい学習指導要領の前文には「よりよい学校教育を通してよりよい社会を創るという理念」が打ち出されている。新たな社会を創り出すちからを育む実践が、これからの学校教育には求められているのである。

・ただ、「新たな社会」といっても何もかも新しくすればよいわけではない。未来の公共性を創り出すためにこそ、私たちの社会の来歴を知り、失われつつあるものの記憶へと想像力を働かせる必要がある。公共性に関する教育においてとりわけ「農」が重要なテーマとなるのも、公共性にまつわる未来と過去を問題化する意味においてである。

「土」を知らない子どもたち

・この数十年にわたって、「土踏まず」を持たない子どもの増加が問題視されてきた。統計によれば、1980年代までは子どものほぼ全員が成人するまでに土踏まずを形成しているのに対し、2000年代では土踏まずの形成率は80%まで下落している。

・土踏まずは、土のような柔らかな地面を踏みしめることによって発達する。土踏まずを持たない子どもが増えたということは、「土を知らない子ども」が増加しているということだ。近年、ますます子どもたちと土との距離は離れ、環境への関心も薄れている。

・内閣府が2016年に実施した「生物多様性認知度調査」によれば、「あなたは自然について、どの程度関心がありますか」との質問に対し、「非常に関心がある」と答えた人々の割合は、2007年27.4%、2011年13.3%、2013年12.1%、2016年11.0%と、約10年で20%程度の減少傾向にある。また、「全く関心がない」と答えた人々の割合は2007年11.6%、2011年20.4%、2013年21.4%、2016年25.1%と、約10年間のあいだに倍増している。

・いま流行りの「エコ」についてはどうか。ここで、詳しくその内実を見てみよう。ライフメディアリサーチの調査結果によれば、「あなたは普段の生活でエコを意識しているか」との問いに対して、日本人の8割が「はい」と答える。

・一方、「エコを意識するようになったきっかけ」については、「節約のため」が全体の4分の1の割合。「日ごろ行うエコ活動」については、1位節電、2位ごみの分別、3位節水、4位詰め替え商品の購入という順になっており、「ごみの分別」を除いたすべての項目が節約を目的とする。また、「多少高くても環境配慮商品を購入したい」と答える人の割合は、8パーセントという驚きの低さ。

・「節約に繋がる限りにおいてはエコを心がける」という日本人の環境意識は、欧州の環境先進国のそれと大きく異なる。

・例として、旭化成ホームプロダクツ株式会社が、20歳から59歳のドイツの主婦208名(子供のいる主婦と子供のいない主婦 各104名)と日本の主婦208名(子供のいる主婦と子供のいない主婦 各104名)を対象として実施した「家事に対するエコ意識調査」を参照する。

・「家事にエコを取り入れる理由」との設問で、ドイツの6割が「環境保全のため」と答えるのに対し、日本の8割が「節約のため」と答える。通常商品よりも割高になる「環境配慮洗剤」を使用する割合は、ドイツ7割、日本2割と大きく差がつく。

・日本の環境意識とは、せいぜいが「節約志向」なのであって、経済合理性の範囲内で生じる現象である。仮に、環境負荷の高い製品であっても、より安価で売り出されるのならば、日本人は迷わずそちらを選ぶだろう。

・こうした環境意識の差は、日本とドイツでの「教育」の成果の反映でもある。日本の学校現場においても、「環境教育」という実践は行われてきた。そして、「優れた」実践を表彰するコンテストもあり、こぞって実践が取り組まれてきた。

・「優れた」環境教育の事例を見てみると、生徒に実にカラフルな「環境新聞」を書かせている実践がある。あるいは、「ごみゼロ運動」において、生徒に実にたくさんのごみを拾わせている。

・このように、目に見える形で成果が出れば、めでたく「環境教育」が成功した、ということになるわけだが、しかし、教室における生徒の振る舞いが、卒業後の実生活に繋がらないということの要因は何だろうかと問い直されなければならない。

・教育行為を通して、「自然」や「環境」に関わる「深く永く続く問い」(親問題)を子どもと共有するということが如何にして可能なのかということを、改めて考え直さなければならないのである。

共感から行動へと踏み出す環境教育

・全国5か所に「共働学舎」と呼ばれる福祉作業所がある。主な拠点は北海道と長野で、単なる福祉施設ではなく人々が暮らす村落を形成している。障がいを持つ人々が寄り合って集落を形成し、酪農や農作を行いながら暮らしているのである。

・私は毎年9月に担任クラスの高校生を連れて、長野の共働学舎を訪ねる。東京から約4時間。最寄り駅はJR東日本の最西端で、「南小谷」という。大自然のなか、平野では酪農畜産を営み、妙高高原を一時間登った先の集落では農を営んでいる。

・私たちは南小谷に一週間滞在し、労働を通して村に貢献するとともに自然のなかで身体感覚を取り戻すワークをする。高校生でも充分に間に合う。最初はスマホで天気予報を見ていた生徒も、しだいに雲や夜空を見て明日の天気を感じるようになる。

・ネットゲームが大好きだった生徒も休み時間には初心に戻って大地を駆けまわる。昼間は見通しが利いて自由に歩き回れた森も、夕刻になれば薄暗くなり、気温もひんやりと涼しくなる。「夕方の森ってちょっと怖いね」。自然の感覚を取り戻すのだ。

・同時に、労働や食事の時間を通じて村落で暮らす人々と交流をする。当初、高校生は言語的に不自由な方とのコミュニケーションに不安を抱くが、労働を共にするなかでは相手に「変身」する機会が多くあるため、コミュニケーション不安は解消する。

・「共働学舎」への合宿に加え、埼玉県飯能市名栗での植林キャンプも行っている。春と秋に一週間ずつ、名栗の森に入って植林に取り組むのである。過去に滞在した生徒が建てた小屋を修繕しながら宿泊する。湧水をひいて食事を作る。

・こうした課外活動は私の国語の授業とセットになっている。授業で展開しているのが「変身する多様性原理」という単元だ。授業では、「多様性」という概念の原理を「他者に変身する構え」と捉える。変身することで、視点や声の輻輳が生じる。

・例えばLGBTQ、黒人、在日の人々といった異なる他者に「変身」することで、自己内に輻輳的な視点や声を育むこと(によって新たな世界認識を獲得すること)が多様性教育の原理である。したがって、授業やゼミでは、徹底的なインタビューと熟議を通して他者に「変身」するワークを行ってきた。

・ただ、社会学者の宮台真司氏から大きな示唆を受けた。数年前に授業にお招きした際、宮台氏は、多様性教育は「人間中心」だと指摘し、変身する感受性は人間以外の存在――虫、木、川、雲などに対しても開かれなければならないとした。人間から無生物へと認識の力点を移すべきである。いわゆる「存在論的転回」が必要であると諭してくれたのだ。

・こうした試行錯誤から生まれた授業の1つが「マイ樹木ワークショップ」である。「気になる木」(マイ樹木)を見つけて、1年を通して観察しながら木に「変身」するものだ。

・場所は、通学途中でも、学校内外でもどこでも良い。道の通りすがりに木の様子を見て、木との対話をする。木の変化を写真に収める。そして、1学期に一度、「マイ樹木ワークシート」に取り組んで、木に「変身」してみようという内容である。

・「マイ樹木ワークシート」には以下のような内容を記載することになっている。木の名前、特徴、高さ、手触り。10分間木のそばに立ってみて感じた音、色、記憶、起きた出来事。マイ樹木に変身して浮かんだ創作(詩・俳句…)、解題、感想。

・学校の正門付近に生えている木を観察した中学生の感想である。

・「この木は、大きさから考えて、学園が創立されたころからずっとここで生きてきた木だ。ずっと同じところに住んでいる。移動することはできない。何十年も、ずっと同じ場所で時を刻んできたのかと思うと、非常に感慨深い。何十年もそこを通り過ぎる学園生を見てきたんだ。入学式のときの僕のこともきっと見ていたんだろう。時間がたって、やっと、目が合った。」

・続いて、芝生に寝ころびながら、動くものと動かないものという視点から場所性について考察した中学生の感想文を紹介する。

・「芝生に寝ながら一単位目と二単位目の休み時間の学校を見ていた。先生も生徒も行ったり来たりして、忙しそうにしている。松の木はじっと動かないで、僕たちの様子を見ている。忙しそうにしている人も、僕のことも見ていて、まるで学校のあるじのようにしている。自分たちが学校の主人公と思っていた。でも僕たちは動き回っているだけで、本当の主人公は松の木なのかもしれない。」

・こうしたワークを南小谷や名栗の森でも行っている。すると、森や木々は子どもたちにとってかけがえのない存在となってくる。単なる「木」や「森」ではなく、まるで名前を付けたくなるような愛おしい関係、「我と汝」の関係になってくるのである。

・直接体験を積み重ねると同時に、森や自然の文化論を理知的に学んでいく。理知的にも経験的にも、どうやら森はすごいようだという感覚を手にした子どもたちは、それを伝えたいという思いを持ってくる。すかさず、反実仮想の質問を投げかける。

・「もしも、小学校の先生だったら、どうやって子どもたちに森の素晴らしさを伝えるか」「もしも、ワークショップの講師だったら、どのように自然保護の重要性を伝えるか」と問いかける。生徒の応答で実現したのが名栗小学校への出前授業である。

・高校2年生が、名栗小6年生の手をひいて植林地まで連れていき、木の高さの測定法や植林の方法などに関する一通りの解説をした後で、「マイ樹木ワークショップ」を行ったのである。終了後は共に給食を頂いて、時間ギリギリまでドッジボール大会。

・小学生への授業実施に先立って、「授業づくり」の研究を国語の授業で行った。その結果高校生たちは、マイ樹木ワークショップを「子問題」として、どうすれば地球温暖化を防止できるかという「親問題」に至る授業設計を考案したのである。

・体験をベースとして涵養された自然環境に対する共感性をもとに、そこに理知的な学びをプラスしていく。感性・知性の両面から得られた気づきが新たな言語活動のモチベーションとなり、社会に対する働きかけ(表象実践)を駆動するのである。

・あるときは教育理論の「輸入」を企てたこともある。欧州で形成された「グリーン・ガイダンス」という理論を日本に広めるための勉強会を開催したのである。「グリーン・ガイダンス」は、環境教育と進路指導にまたがるユニークな理論だ。

・これまで、子どもが進学先や就職先を決める際には、進学率や賃金をもとに進路決定することがほとんどだった。しかし、人々がこうした「合理的」な選択をしてきた結果として、地球環境を省みない企業や学校が温存されてきてしまった。

・「グリーン・ガイダンス」はこうした社会構造を問題化し、「グリーン」でない学校や企業に子どもを送り込むような進路指導をやめることで、問題のある学校や企業を淘汰してしまおうと企てる。社会を巻き込むSDGsのさきがけのような理論だった。

・「グリーン・ガイダンス」にもとづいた進路指導では、企業の賃金や学校の就職率だけでなく、環境保全への取り組みについてもわかりやすく数値化したうえで生徒に伝える。「社会変革」を標榜するラディカル・キャリア教育の系譜だ。

・私のゼミでは、理論の考案者にコンタクトをとり、文献を翻訳し、公開することができた。「低炭素まちづくりフォーラム」(於:芝浦工業大学)にて分科会を主宰し「グリーン・ガイダンス」の理論と実践について紹介することができた。

・生徒主体で、欧州ではまだ行われていなかった学校全体でのアプローチも試みたうえで、実践的な可能性を提案することができた。理論面については、「グリーン・ガイダンス」に日本で初めて言及した下村英雄さん(労働政策研究・研修機構)を分科会にお招きして、直々に解説して頂けたことも印象深い。

「種苗法」の授業

・2020年の授業とゼミ(多様性ゼミ)において、「種苗法は改正すべきか?」というテーマで何度も議論をしてきた。授業は中学3年生から高校3年生、ゼミには学外の大学生や社会人も参加している(大人も含めて以下では「生徒」という呼称に統一する)。

・今回の議論で初めて「種苗法」という言葉に出会う生徒がほとんどであったが、あえて私から事前の情報提供は行わず、議論の根拠となる情報収集のすべてを生徒に任せた。「どのような経路で情報収取をした場合に、どのような傾向の情報が集まるのか」ということを観察すること自体も、授業の狙いとしているためである。

・こうした状況で第一回目の議論を行ってみたところ、「種苗法は改正すべきである」という立場に立つ生徒が約8割を占めることとなった。この傾向は授業とゼミ(子どもと大人)に共通していた。

・生徒たちの議論を聴いていて、気づいたことがある。それは「改正すべき」という意見の根拠として生徒が提示した資料のなかに、明らかな誤りや既に反証されている内容がいくつも含まれていたことである。

・例えば「農家が使用しているタネのほとんどは一般品種である」「現行の種苗法では農水省はタネの海外流出に対して措置を講じることができない」といった誤った情報が散見された。

・そこで、どこから情報を得たのか尋ねたところ、まとめサイトや動画サイトなど、インターネット上のウェブサイトから得た情報がほとんどであった。もちろん、短期間での情報収集を課したため、インターネットを用いた情報が多くなることは予想できた。

・問題は、インターネットで情報収集をした8割の人が「改正すべきである」との結論に至ったということにある。種苗法の改正をめぐるメディア状況、とりわけ、インターネットの情報環境に偏りがあるのではないかと心配になった。

・授業であれば、情報の偏りや誤りがあっても、後からいくらでも補正することができる。実際に、その後の授業では、資料を読み込むことによって誤った情報を修正し、情報のバランスを補正しながら議論を積み重ねていくことができた。

・ただ、一般の人々は、そもそも種苗法の話題に触れにくいうえに、情報バランスを補正する機会も持ちにくい。そこで、ぜひ視聴してほしいのが『タネは誰のもの』という映画だ。本作は間違いなく、農業の問題について考える際の前提となる一本である。

・本作には、種苗法をめぐる様々な立場の人々の声が収められている。元農林水産大臣の山田正彦氏をはじめ、農業経済学者の鈴木宣弘氏、農業に従事する人々、農林水産省、種子育成者権者、農協、ジーンバンクなどの方々である。

・授業でもこの映画を視聴したが、この映画の登場する多くの人々の意見を受けて、生徒たちは様々な問いを持ち始めた。

・「種子法の廃止と種苗法の改正はどのような関連があるのか」「海外で既に自家採種が禁止されている国ではその後どのように農業が変化したか」「自家採種禁止と種苗の海外流出の防止にはどのような関連性があるのか」「公共財の民営化とはどういうことか」「育成者権者の利益や権利を本当に守るためにはどうすればよいか」…

・問いを手にした生徒たちは、関連する行政文書の読み解き、規制改革の流れに関する調査、海外の事例の調査、種子法廃止の過程の調査、農家の方へのインタビュー、農業試験場やジーンバンクの見学などの活動へと動き出していった。

・高校2年生のある生徒は、種苗法の問題を学校全体で広く考えたいとの狙いから「種苗法ラーメンポスター」を制作して、トイレに掲示した。ラーメンの写真は生徒たちの行きつけのラーメン店で撮影したもの。

生徒が作成してトイレに掲示したもの。耳目をひくためにインパクトのある文言と写真を配している。ポスターの背景を理解してもらうために、本ポスターに加えて、トイレ内の別の場所に合計5種類の資料を掲示している。

・どんぶりにあふれんばかりに盛り付けられたラーメンの写真が中央におかれ、その周囲には吹き出しが付されている。「ニンニクが20円から50円に」、「⼩⻨が250円から2038円に」。吹き出しでは野菜の原価の⾼騰を示しており、500円で⾷べられたラーメンが2400円に値上がりすると警鐘を鳴らす。

・日本では⾷料⾃給率が低い状態が続いている。そうしたなかで海外からの輸出制限が⾏われると、野菜などの値段が上がる。過去には実際に値段が高騰した事例もある。授業で検討してきたこうした事実に気付いてもらおうと、この生徒はポスターを作成し、関連する新聞記事の切り抜きと共に、トイレに掲示した。

種苗条例の提案

・改正された種苗法の意図を回復するために、カウンター・プロポーザルとして独自の「種苗条例」の提案も行った。2018年に種子法が廃止された際に、条例を制定することによって都道府県単位で種子法の機能を復活させる動きが広がった。

・「地方自治は民主主義の学校」と言われる。授業とゼミでは種子条例を制定した地方自治の動きに学び、種苗条例を起案するワークを行った。行政学や政治学を参照して条例の位置づけを把握したうえで、数多くある種子条例の文面の検討を行った。

▽生徒が作成した条例案(以下リンクからダウンロードいただけます)

生徒たちが作成した条例案

種苗・農法の多様性を保護するための条例案(自由学園多様性ゼミ)ダウンロード

・種苗条例を起草するワークは、行政文書の読解と執筆を通した表現論、政治学的な民主主義論、行政学的な手続き論などを内包した合科的な授業となった。起草した種苗条例を実際に上述のようなシンポジウムの場で提案することは、表象実践の機会となった。

・専門家の前で条例を提案した際には、法的・内容的な瑕疵を数多く指摘されたこともあった。しかし、そうした指摘は子どもたちの新たな学びを誘発し、さらなる学びの深まりと広がりへと繋がっていった。こうした学びの連鎖の始発には「タネは誰のもの」が問いかけた本質的な問いがある。

本作からの賜物

・「そもそもタネは誰のものなのか?」。本作が提起した問いだ。この問いは現代――教育や農業が産業化しつつある時代を生きる私たちに、改めて「文化とは何か」「公共とは何か」という関心を抱かせる。こうした問いかけは、種苗法改正の賛否をも越えて、深く永くつづく本質的な問いへと繋がっている。ひとりでも多くの人が問いを引き受け、新たな議論や行動へと踏み出してほしい。。

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