小林亜星さん感激!「寺内貫太郎一家」打ち切り危機を救った西城秀樹さんの〝役者魂〟

小林亜星さんは西城秀樹さんとの秘話を明かしていた

「北の宿から」などのヒット曲で知られる作曲家で、TBSのドラマ「寺内貫太郎一家」(1974年)の主演でも親しまれた小林亜星さんが5月30日、心不全のため東京都内の病院で死去したことが14日、分かった。所属事務所などが明らかにした。88歳。東京都出身。葬儀は近親者で行った。音楽家だけでなくタレント、俳優としても活躍した小林さんは、「寺内貫太郎一家」における故西城秀樹さんとの秘話を13年前、本紙の連載で明かしていた。

都はるみが歌って日本レコード大賞を受賞した「北の宿から」や、レナウンの「ワンサカ娘」、日立グループの「日立の樹」など数々のCM作品を手掛けた小林さんは、作曲家として知られるが、スタートは編曲家だった。転機となったのが「ワンサカ娘」。大学を卒業後、サラリーマンになったが、作曲家の服部正氏の門を叩き弟子入りした。

レコード会社関係者は「そのころは編曲の仕事ばかりやっていたが、どうしても作曲をやりたかった。当時、レナウンの広報をやっていた妹に『CM曲を募集するから出してみたら』と言われ、それが出世作となったそうです」。これ以降、作曲家としての道を進んでいったという。

「この木何の木」のフレーズで知られる「日立の樹」も有名だ。くしくも作詞をした伊藤アキラさんは先月15日、急性腎不全で亡くなった。その際、小林さんは「プライベートではお酒も飲まず、大変真面目な方でしたので、私のような飲兵衛とはほとんど接点はなかったのですが、仕事ではいつも彼の歌詞が回ってくると、スムーズにメロディをつけれるという、気が合うのか合わないのか、そんな不思議な関係でした」と追悼のコメントを発表。その15日後、小林さんも旅立った。

CMで有名な「日立の樹」はハワイのオアフ島にあるモンキーポッドの大樹だが、音楽関係者は「数年前に先生と話す機会があって『モンキーポッドを見てきたんですよ』と話したら、『ボクは見たことがないんだよね』って。テレビでしか見たことないと話してたのが印象的でした」。

作曲家だけでなくタレントや俳優としても活躍した小林さん。俳優デビューとなったのが「寺内貫太郎一家」だ。主演を務めた小林さんは頑固親父役で、息子役だった西城さんとの親子ゲンカのシーンがこのドラマのウリになった。

小林さんは2008年4~7月、本紙で「アセイのあなろぐ語録」を連載していたが、「寺内貫太郎一家」についてこのように記していた。

「ボクとヒデキの親子喧嘩は回を追うごとに話題になっていく。ヒデキとの大喧嘩のシーンをあまりにリアルにやり過ぎて、本当にケガをさせたこともあった。今でも申し訳ない気持ちでいっぱいだけど、ボクだってやりたくてやったことじゃない。詳しく説明すると、あれは故久世光彦さんの演出だったんだ」

手加減でもしようものならすぐにNGが出るため、リハーサルから本気でやっていたという。

「当事者でも本気で喧嘩する理由は分からない。ヒデキも全く同じことを言っていたけど、OKが出るころにはお互いに『このヤロー!』と本気で殴り合っているんだから、予期せぬ事態だって起こってしまう」

第2弾の「寺内貫太郎一家2」(75年)では、西城さんが腕を複雑骨折してしまったこともあった。当時は人気絶頂だった西城さんだけに、ドラマが打ち切りになってもおかしくなかったが、小林さんは「打ち切りにならなかった最大の理由は、ヒデキが騒がなかったことにある。すり傷やねんざ程度なら誰にも言わずにリハーサルを続けていた」と記している。

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