【忘れがたき銘車たち】日本の誇り、GT-Rの価値ある“助走”『NISMO GT-R LM』

 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは『NISMO GT-R LM』です。

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 BNR32型の時代には、車両開発のときからターゲットにしていた『グループA』レースにおいて、国内のみならずスパ24時間など海外の耐久レースも制し、世界をも席巻させたスカイラインGT-R。

 1995年にBCNR33型へとモデルチェンジしたあとは、国内カテゴリーの変遷とともに主戦場を全日本GT選手権(JGTC)にしていたGT-Rだが、このR33時代にもGT-Rは世界のレースへと挑戦し続けた。

 その舞台となったのは、伝統のル・マン24時間。日産にとってもグループCカー期以来、5年ぶりだったル・マン24時間への挑戦は、GT-Rにとって厳しい戦いとなった。

 R33型GT-Rがル・マン24時間に挑んだのは、GT1が本格的にメインカテゴリーとなった1995年。R33型のGT-Rをベースとした『NISMO GT-R LM』を2台開発してのエントリーだった。

 NISMO GT-R LMは、トヨタやホンダとは異なり、R33のスカイラインGT-RをベースにFR化され、スカイラインの名を持たない同名のホモロゲーション用ロードカーが1台製作された。

 ロードカーが作られた理由は、GT1の規定を最大限活かすためと、GT規定では4WDが禁止だったこと、さらに“スカイラインGT-R”だと同一車種に4ドアのグレードが存在するため、GT1のホモロゲーションを取ることができず、“GT-R”という新たな車種を仕立てる必要があったためなどが挙げられる。

 GT-R LMは、見た目こそJGTC仕様に似ているのだが、各所がル・マン用にモディファイされている。搭載するエンジンは、JGTC仕様の450馬力に比べて、600馬力へとパワーアップを図った。

 さらに、ブレーキはカーボン製となり、フロントにはグループCカーのR92CP用、リヤにはNP35用を流用する。カーボン製のボディ下面には、フラットボトム規定によってアンダーディフューザーを装着していた。

 参戦した2台の22号車と23号車では、それぞれ仕様が異なっている。エンジンが22号車はJGTC N1用を、23号車はスパ24時間を制したグループA仕様をベースに開発されている。

 トランスミッションも22号車は、日産製5速Hパターンを採用しているのに対し、23号車はXトラック製6速シーケンシャルを用いている。

 当初は、これが3年計画の1年目であったために今後の方向性を確認する目的で、22号車と23号車では、それぞれ違うアプローチでの開発となった。

 挑戦初年度となった1995年のル・マン24時間では、23号車が総合27番手、22号車が35番手という予選順位を確保する。

 決勝は、23号車が一時総合5番手まで浮上したものの、予選からアキレス腱となっていたシーケンシャルトランスミッションが原因でリタイア。22号車は、総合10位で完走を果たしたものの、GT2勢の後塵を拝する結果となってしまった。

 1996年は、ウィークポイントだったトランスミッションをHパターンに変更。エンジンはドライサンプ化で低重心となり、最高出力も670馬力ほどにパワーアップ。予選タイムでも前年より10秒速い4分切りを達成するほどポテンシャルアップしていた。

 しかし、それ以上にライバル勢の上がり幅が大きく、やはり苦戦をしいられる。結局、トラブルを抱えながら、23号車が総合15位で完走するのがやっとだった。

 3年計画として進んでいた日産のGT1期ル・マン24時間への参戦は、この2年連続の敗北によって、3年目に大きく方向転換することになる。日産は「市販車の延長ではダメだ」と判断し、1997年に専用車『R390 GT1』を生み出すことになる。

 この挑戦によって、日産がGT1に本腰を入れるきっかけになったという意味では価値ある“助走”だった2年に及ぶGT-Rでのル・マン参戦劇は、幕を下ろした。

1996年は星野一義、長谷見昌弘、鈴木利男という1992年のデイトナ24時間を制した3人が23号車を駆り、総合15位でチェッカーを受けている。

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