【連載】それでも、未来を信じて──第1話「私たちの希望なのだから…」

戦禍のシリアで、医療・人道援助活動に奔走した日本人がいました。いまは国境なき医師団(MSF)日本の事務局長となった村田慎二郎です。

  • 壊滅的な被害を受けた大都市アレッポの地域で、MSFの現地活動責任者として複数のプロジェクトを立ち上げ、指揮した村田。この時の困難と挑戦の道のりをつづった連載を、8回にわたってお届けします。*
内戦が続くシリアへ赴き、国境なき医師団の活動を統括した村田。現地の子どもたちとともに=2012年 ©MSF

内戦が続くシリアへ赴き、国境なき医師団の活動を統括した村田。
現地の子どもたちとともに=2012年 ©MSF

6年ほど前、もうすぐシリアでの任期を終え、日本へ帰る日も間近というときのことです。いつもだったら任務終了で得られる達成感もなく、私は身も心も疲れ果てていました。

活動地のアレッポでは、政府軍による容赦ない空爆や砲撃が続いていました。人口密集地でも、雨あられのような爆弾が降り注ぎ、女性や子どもを含め多くの人が無残に殺されていきました。反体制派が統制する地域では、学校やマーケット、病院といった一般市民の生活インフラでさえ、攻撃の標的となったのです。

病院が爆撃されたら、救えるはずの命もますます救えなくなってしまいます。

空爆で破壊されたアレッポの市街地=2013年撮影 © MSF

空爆で破壊されたアレッポの市街地=2013年撮影 © MSF

私たちのプロジェクトは、診療件数や患者数などを見れば、目標に十分達していました。けれども国境なき医師団は、当時この地域で活動する唯一の国際的な医療・人道援助団体。戦時の窮状で膨れ上がる一方の医療ニーズからすれば、自分たちのやっていることは「大海の一滴」に過ぎないのではないか──。私は虚無感に襲われるあまり、10年続けてきたこの仕事を辞めようとさえ思っていました。

ところが帰国直前、あるシリア人の患者さんとの出会いが、私の心を大きく揺さぶります。

「たる爆弾」を被弾し、片脚に重傷を負ったその患者さんは、病室でベッドに横たわっていました。爆撃で妻と子どもも亡くしていました。ちょうど同い年ぐらいの男性だったからでしょうか。疲れていた私はあろうことか、人道援助には限界がある、などと彼に愚痴をこぼしてしまったのです。

すると男性はこう言いました。

「そんなこと言わないでくれ。君たちは私たちの希望なのだから」(“Don't say that—you are our hope.”)

目が覚める思いでした。絶望の淵にあるはずの人に、逆に勇気づけられ、恥ずかしく感じただけではありません。戦争で自分の国の政府から攻撃され、国際社会からも見放されている人びとにとって、MSFの存在は“希望”になるのだと、初めて知らされたからです。

現地の活動責任者である私が気にしていたのは、「人口比に対する治療患者数」といった統計的な数字でした。でも、もう一歩深いところにも、MSFの活動には意義がある。彼がくれた言葉を何度も反すうしながら、成田空港に着く頃には、この仕事を続けていこうと固く心に決めていました。(つづく)

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村田慎二郎(むらた・しんじろう)

大学時代は政治家を夢見ていた。静岡大学卒業後、外資系IT企業に就職。営業マンとして仕事のスキルを身につけると、「世界で一番困難な状況にある人のために働きたい」と会社を辞め、MSFに応募。最初の派遣が決まるまでの1年半は、大の苦手だった英語の勉強をしつつ、日雇バイトで食いつなぐ。

南スーダン、イエメン、イラクなどでロジスティシャンや活動責任者として10年ほどMSFの現場経験を積む。

シリアでは内戦がぼっ発した翌年の2012年から2015年まで、現地活動責任者として延べ2年にわたり派遣される。この時の経験が大きな転機となり、後に米国ハーバード大学への留学を決意。大学院修了後、日本社会での人道援助への理解を広める活動に力を入れるべく、2020年8月、日本人初のMSF日本事務局長に就任。

1977年三重県生まれ。性格は粘り強く、逆境であればあるほど燃えるタイプ。

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