【連載】それでも、未来を信じて──第2話「シリア入りの道を探れ」

戦禍のシリアで人道援助活動に奔走した体験を、国境なき医師団(MSF)日本事務局長の村田慎二郎がつづる連載。

  • 現地で全プロジェクトを指揮する「活動責任者」に日本人で初めて任命され、シリアでのプロジェクト立ち上げを依頼される村田。しかし、そもそもの難関が──。最初の挑戦が始まります。*
2012年に村田がトルコで開始したシリア難民への医療援助。その後も多くの医療ニーズに応えた=2017年 © MSF

2012年に村田がトルコで開始したシリア難民への医療援助。その後も多くの医療ニーズに応えた=2017年 © MSF

「どのチームも苦労している、何とか入り口を見つけてほしい」

欧州にあるMSF事務局からこんな依頼が舞い込んだのは、シリアで内戦が始まって、1年以上が過ぎた頃でした。シリア政府は、非人道的な事態を目撃したら国際社会に訴えることも辞さない MSFを警戒し、活動許可を出していませんでした。そのため先遣チームは苦戦を強いられていたのです。

しかしシリアでは医療・人道援助のニーズが大きく高まっていました。さらに私に与えられるポジションは、ずっとチャレンジしてみたかった現地での活動責任者。

返事はもちろん「イエス」でした。

2012年当時、レバノンやイラクなどトルコ以外のシリア周辺国でも、MSFはシリアから逃れてきた人びとへの医療援助を急ピッチで進めていた © Nagham Awada/MSF

2012年当時、レバノンやイラクなどトルコ以外のシリア周辺国でも、MSFはシリアから逃れてきた人びとへの医療援助を急ピッチで進めていた © Nagham Awada/MSF

現場へ向かった私は、通訳やドライバーなどの少人数チームと合流し、まずシリアの周辺国から入国ルートを探りました。しかし、どこも国境ゲートが封鎖されていて入れません。最後に期待を掛けたのが、シリア北部と国境を接するトルコです。トルコから南下すれば、すぐにシリア最大の都市アレッポにたどり着くことができます。アレッポには、いずれ内戦の火が広がるだろうと予測していました。

私たちは早速、国境に近いトルコの小さな町でプロジェクトを立ち上げました。そこは既に多くのシリア難民が逃れていた場所で、家を追われ強いストレスを抱えていた人びとに、心のケアを提供することにしたのです。これが評判で口コミが瞬く間に広がり、MSFを信頼してもらういい機会になりました。彼らの親族や知人はまだアレッポにいますし、その人たちとのつながりがいずれ活動を支えてくれるかもしれません。

NGO団体が新たな土地で活動を始めるときは、手っ取り早くその国の政治組織のネットワークを辿る方法もあります。ですが、私は市民とのネットワークを築くことを選びました。無数の勢力が複雑に絡み合うシリアの政治状況では、そのほうが確実であり、MSFの「独立・中立・公平」という活動理念にもかなっていると考えたからです。

こうしてトルコでアレッポ出身者のチームを作り、故郷の街を案内してもらえる準備が整ったちょうどその時、チャンスが到来しました。シリア北西部の統治者が政権側から反体制派へ移ったため、MSFも入国できるようになったのです。

遠回りしたかもしれませんが、シリアへのドアがいよいよ開いた。内戦が始まってからアレッポ入りを果たした国際NGOは、私たちが初めてです。ついに国内で活動を始められると心は高まるばかり───。まだこの時は、その後目にする大惨劇を予想もしていませんでした。(つづく)

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村田慎二郎(むらた・しんじろう)

大学時代は政治家を夢見ていた。静岡大学卒業後、外資系IT企業に就職。営業マンとして仕事のスキルを身につけると、「世界で一番困難な状況にある人のために働きたい」と会社を辞め、MSFに応募。最初の派遣が決まるまでの1年半は、大の苦手だった英語の勉強をしつつ、日雇バイトで食いつなぐ。

南スーダン、イエメン、イラクなどでロジスティシャンや活動責任者として10年ほどMSFの現場経験を積む。

シリアでは内戦がぼっ発した翌年の2012年から2015年まで、現地活動責任者として延べ2年にわたり派遣される。この時の経験が大きな転機となり、後に米国ハーバード大学への留学を決意。大学院修了後、日本社会での人道援助への理解を広める活動に力を入れるべく、2020年8月、日本人初のMSF日本事務局長に就任。

1977年三重県生まれ。性格は粘り強く、逆境であればあるほど燃えるタイプ。

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