川上監督が口ずさむCMソングに巨人軍が和んだ

入団会見を行った山内コーチ(中)、正力オーナー(左)と川上監督

【越智正典 ネット裏】藤田元司が川上哲治巨人軍監督を「これから心の師として仰ぐのだ」と決めたのは、専任コーチとなった1966年の宮崎キャンプである。

「ピッチャーの練習計画表を作って、オトッツァンの部屋へ持って行って“これでどうでしょうか”と提出すると、見もしないでプイと横を向いて返事もしないんです。なんとニクたらしいのだと思いました。一生懸命作ったのに…。部屋に戻ってもう一度作り、カッカしてましたから文句を言わせないぞ…と“これでやります”と言ったら“おー、それでやれ!”。書類の内容も見ないで言うんです。教えられました。お伺いを立てているようじゃダメなんだ」。藤田35歳、川上46歳。

川上のキャンプの朝は早い。4時には起きている。キャンプの宿の江南荘の監督室であれこれ備えている。対応している。何が起こるか分からない。ケガ人が出るかもしれない。天気が急変して雨になるかもしれない。

71年、川上は「オールスター男」山内一弘を打撃コーチに迎えた。山内が早速、選手に教え出す。しばらく選手の様子を見て、それから選手の中にとけ込もう…などとは思ってもいない。川上は満足した。二人はよく似ている。

荒川博が抗議したことがある。川上が選手にバッティングを教え出すと「監督は監督の仕事をしてください。バッティングはわたしの所管です」。川上が答えた。

「スマン。これはわたしの趣味でな」

川上は山内のそばを通るときに口ずさんだ。

<…やめられない、止まらない、かっぱえびせん>。いつも謹厳、いかめしい監督がコマーシャルソングを歌ったのだ。山内にぴったりである。選手たちに大受けに受けた。

73年、ドラフト4位で入団して来た外野手、はじめライト、それから外野陣の中心のセンター、迫丸金次郎(公勝)は元気がよかった。センターフライが上がると「オーライ、オーライ!」。大きな声で叫んだ。
迫丸は熊本第一工業、愛知学院大学。4年生のときに米国で開催の第2回日米大学野球選手権大会の全日本に選ばれた。成績は打数0、安打0。もちろん本塁打0、打点0。

在留邦人が多いオマハでの試合に起用され喜び勇んで打席に向かって行ったがデッドボール。これでおしまい。「失礼しちゃいますよ」。これが悔しいから超ハッスル。

74年秋、メッツとの日米野球に起用されると右中間に二塁打。スコアリングポジションに達したのに、これだけでは足りないと三塁へ力走した。見事な送球が来てタッチアウト。川上がベンチで言った。

「せまい日本、そんなに急いでどこへ行く」。これまた前年に大流行した交通安全標語である。ベンチはドッと沸いた。

川上にはホントのオハコがある。粋な都都逸である。が、決して人前では歌わない。ペナントレースの節目節目にちいさな声で、自分に向かって言い聞かせるように<思い出すよじゃ 惚れよが浅い 思い出さずに忘れずに>。V9監督の采配の妙である。

=敬称略=

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