【スポーツあの日あの時】92年西武から移籍 藤田巨人を首位に引き上げたデーブ大久保効果

豪快な打撃に明るい性格。大久保は巨人に新風を吹き込んだ

【東スポは見た スポーツあの日あの時】1992年のペナントレースは、就任4年目を迎えた巨人・藤田元司監督にとって重要な意味を持っていた。復帰1年目の89年に日本一、90年にはリーグ制覇を果たしたが、91年は12年ぶりのBクラスとなる4位。解任も噂される中での続投だっただけに、意地でも負けられないシーズンだった。

ところが、開幕から30試合を消化した時点で10勝20敗、借金10の最下位。投打ともに精彩を欠き、早々と休養説がささやかれた。そんな中、球団は4月12日にロイド・モスビーを獲得。期待通りの活躍を見せたが、チームの成績は上向かず、5月11日に補強第2弾として、中尾孝義とのトレードで“デーブ”こと大久保博元を獲得した。

西武では伊東勤が正捕手を務めていたことに加え、森祇晶監督のリード面の評価が低く、大久保の出場機会は限られていた。そこで根本陸夫管理部長が巨人に持ち掛け、捕手同士の電撃トレードが実現。巨人にとっても長打力が期待できる大久保は魅力的な存在だった。課題とされたリードについて、藤田監督は「新鮮な面があるかもしれない」と投手出身者としての目線で期待を寄せた。

5月13日のヤクルト戦(平和台)、早速「8番・捕手」で先発出場。この報に西武球場記者席がざわついた。「本当にデーブをスタメンで使ってるのか?」「巨人、大丈夫か?」。西武担当記者たちは森監督同様、打撃はともかく捕手としては“使えない”とみていたのである。

そんな声を大久保は黙らせた。この日こそ敗れたものの、続く16日の広島戦(東京ドーム)は強気のリードで先発・槙原寛己を引っ張り、勝利に貢献。17日の同戦では早くも移籍後初の本塁打を放ち、チームを勝利に導いた。また、明るい性格はムードメーカーにうってつけで、巨人ベンチに新風を吹き込んだ。

大久保が本格的に正捕手に定着した6月、チームは神がかった快進撃を見せる。6月7日から破竹の10連勝を記録すると、連勝が止まったあと4連勝、1つ負けてまた7連勝だ。5月終了時、首位・ヤクルトと9ゲーム差、6位・大洋とは0・5ゲーム差の5位だったが、6月終了時には首位・ヤクルトに3・5ゲーム差の3位。7月8日にはついに首位に立った。

“デーブ効果”と呼ぶにふさわしく、その活躍は際立っていた。しかし、本人におごった様子はなく「ボクがマスクをかぶっている時は捕手の代表として、チームの勝利に貢献したい。捕手の代表が吉原(孝介)の時はボクはベンチで一生懸命、応援しています」。こんなセリフを自然に言える選手だった。

10連勝のさなか、本紙は大久保に独占インタビューを行っている。その内容は6月19日付紙面に掲載された。

当初は巨人を「伝統あるし、きっとタテの関係とか厳しくて、ベテランの人とかうるさく言うんじゃないか」と思っていたそうだが「全然、違いますね。原さんとか篠塚さんとか気軽に声をかけてくれるし、何も厳しく言わない。昔テレビでしか見られなかったような人たちがそういう雰囲気なんですよ」と感激したという。

また、藤田監督については「西武にいたとき、オープン戦とかであいさつすると“おはよう”って言ってくれたんですよ。ボクみたいなペーペーは、無視する人も多いんですけどね。すごい人だと思います」。巨人に移籍するとすぐスタメンに抜てきしてくれたこともあり「ええ、監督のためにも頑張りたいっス。新聞に“藤田監督が笑顔で話した”とかって出てると、うれしいんです」と笑顔で話した。

「大久保がホームランを打てば勝つ」という不敗神話も生まれた6月は、月間MVPを獲得。監督推薦でオールスター初出場も果たしたが、さらなる驚きが待っていた。7月22日、2000万円という異例の高額臨時ボーナスが支給されることが決まったのだ。7月24日付紙面に掲載された記事によると、きっかけをつくったのは藤田監督だった。

「藤田監督が16日の大洋戦(横浜)終了後に『大久保へのごほうびを考えてやってください』と保科昭彦球団代表に要望したのが事の始まり。保科代表が渡辺恒雄読売本社社長にその旨を伝えると、二つ返事でOKが出た。渡辺社長は『原が9800万円で、大久保が1200万円では、あまりに差がひどい』と小林與三次会長、渡辺社長、水上健也副社長、正力亨オーナーからなる最高経営会議を招集し『小林会長が“ケチらずに2000万円ぐらい出そう”と話した』(渡辺社長)と全員賛成で決定したのだ」(※最高経営会議=88年12月に発足した巨人軍の意思決定機関)

7月24日のヤクルト戦(東京ドーム)の前に、保科代表から2000万円の目録を贈られた大久保は「たまたまボクは使ってもらっただけです。チームの皆さんのおかげですよ」と大感激。藤田監督は「頑張れば誰にでもチャンスはある」と目を細めた。

大久保は臨時ボーナスで満足してしまったわけではないだろうが、オールスター以降は徐々に失速。オールスター前の段階で10本塁打を放ったが、オールスター後は5本の上積みしかなかった。チームも桑田真澄がことごとく期待を裏切るなどシーズン終盤に勝負弱さが出て、阪神と同率の2位に終わった(優勝はヤクルト)。この結果を受けて藤田監督はユニホームを脱ぎ、長嶋茂雄が13年ぶりに監督に復帰した。大久保は95年に28歳の若さで引退。自分を積極的に起用してくれた藤田監督への感謝の気持ちはずっと持ち続け、2006年2月9日に死去した際、真っ先に弔問に駆けつけ、号泣しながら何度も頭を下げた。92年のシーズンは忘れられない、特別なものだったはずだ。(敬称略)

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