樺美智子は党派闘争の犠牲者だったのか こだわり続けた蔵田計成さん 60年安保に学ぶべきこと

By 江刺昭子

2007年3月、反改憲を訴える国会前のリレーハンストで演説をする蔵田計成さん

 <悲しきはI can’t breathe美智子の忌>(蓼蟲)

 日本経済新聞の俳壇で「2020年の秀作」に選ばれた一句である。

 「I can’t breathe」(息ができない)は昨年5月25日、米国の黒人男性ジョージ・フロイドさんが白人警察官に首を押さえつけられたときに発した言葉である。「美智子の忌」は1960年6月15日、日米安保条約の改定反対運動のさなか、東大生・樺美智子(かんば・みちこ)が国会構内で死んだことを指す。

 60年の時空を超え、権力側の暴力によって命を絶たれた2人を重ねた。選者の俳人・黒田杏子さんは「樺さんと米国のフロイドさんが二重映しに。凄(すご)い句です」と評した。

樺美智子。全学連慰霊祭の遺影

 樺が非命に倒れた6月15日、国会南門前で毎年、追悼集会が開かれる。その集会で中心的な役割を果たしてきた蔵田計成(くらた・かずなり)さんが昨年2月、亡くなった。蔵田さんの生涯をたどり、樺の死がその後の学生運動や運動に関わった人たちに、何を残したのか、残せなかったのか考えたい。

 1934年生まれの蔵田さんは、山口県の高校を出て青年団運動などをしたのち上京、57年に早稲田大政経学部2部に入学した。

 クラスで学生運動を批判したら、友人たちに「だったら中に入ってやればいいじゃないか」と背中を押された。生活費のカンパ態勢まで作ってもらい、活動家生活に入る。学生のストライキを指導して無期停学になった。

 58年12月、共産党から分かれて共産主義者同盟(ブント)が結成され、蔵田さんも参加する。このとき、東大2年生だった樺美智子もブントに加盟している。

 蔵田さんに何度か話を聞いたことがある。

 安保後、社会的に一定の地位に就いたエリートたちは、取材に対して言葉を選んで用心深かったが、蔵田さんは何を聞いてもいいよという構えで、誠実で気さくな人柄そのままの話しぶりだった。

 ブントはやがて全学連主流派として、安保闘争をラジカルに指導していく。59年に都学連(東京都学生自治会連合)の副委員長になった蔵田さんは、他大学のオルグやデモの指揮を担当した。樺は東大文学部学友会の副委員長として、学内の運動を主導している。

亡くなる数時間前、デモ行進する樺美智子

 都学連のブントの会議に出てくる樺の印象を聞いたら「口をきいた記憶はないが、若い男性の気持ちをくすぐる肉感的な乙女って感じ」と返ってきた。

 取材からわたしが得た「差別や貧困をマルクス主義によって解決しようとした女性」という硬質なイメージからは程遠いが、男性中心だった活動家集団の中で、女性活動家を見たときの正直な感想だろう。

 60年5月19日、自民党が衆院で安保条約の批准を強行採決したことから、反対運動は高揚する。「民主主義を守れ」と何十万人もの学生、労働者、市民が国会を取り巻いた。

 5月26日、蔵田さんは宣伝カーに乗って、夕方まで国会議事堂の周りのデモを指揮。1週間後、集会の責任者として警察に逮捕された。

 だから、樺の亡くなった6月15日は捕らわれの身だったが、「6月10日がなかったら15日もなかった」と何度も強調した。6月10日とは、いわゆるハガチー事件のことである。

 6月19日には新条約が自然成立することから、全学連主流派(ブント)は運動の収束を考えていた。ところが、10日に来日したアイゼンハワー米大統領秘書のハガチーが乗った車を、反主流派(共産党系)の学生と労働者が取り囲むという騒ぎを起こす。ハガチーは米軍のヘリコプターで脱出した。

1960年6月10日、ハガチー米大統領秘書がデモ隊に包囲され、米軍ヘリで脱出した

 ブントは危機感を募らせた。これでは安保後の全学連の主導権を反主流派に奪われてしまう。そこで15日、国会突入という強硬戦術に出たと蔵田さんはみる。

 そうだとすれば、この戦術に従って国会構内に突入、機動隊と激突した樺は、国家によって命を奪われたというより、党派闘争の犠牲者ということになる。

 その後も日本の学生運動や新左翼運動は、党派間の争いで多くの犠牲者を生んだが、蔵田さんのように、樺の死をその原点に位置づけるなら、彼女の死に学ぶところが不十分だったとみることもできる。

1960年6月18日、日米新安保条約の自然成立前日、国会を包囲する学生や労働者のデモ隊

 安保後、ブントは運動の評価をめぐって分裂し、解体した。蔵田さんは1年後に学生運動から退いた。その後、女性週刊誌のトップ屋として水俣やサリドマイドなどの公害・薬害問題を取材した。ベトナム戦争では現地に入ろうしたが、ビザが下りず、密航を企てて強制送還されている。

 学習塾で生活のたつきを得ながら評論活動に打ち込み、『安保全学連 60年安保闘争の総括と70年闘争の焦点』、『新左翼運動全史』といった闘争史の基礎となる著作を執筆した。新左翼文献のアンソロジー『新左翼理論全史』も編んでいる。ブントの分裂がその後の学生運動の混乱を招いたという苦い後悔があったようだ。

 早くから原発の危険性も指摘し、2011年3月の東電福島原発事故以降は、放射能汚染の問題に取り組んだ。いくつもの論文を世に問うている。

 06年、自民党が「自衛軍」を保持する新憲法草案を発表し、改憲のための国民投票法案の論議が始まった。「これは戦争に行きつくぞ」と、昔の仲間に電話をかけまくって「9条改憲阻止の会」を組織した。翌年には国会前で44日間、900人が座り込み、リレーハンストをしている。

 党派からは距離を置いても、平和のための闘いをやめなかった。樺美智子の追悼集会では毎年、雄弁に集会をリードした。去年も今年も関係者が集まって樺の遺影に花をささげたが、蔵田さんの姿がないのは寂しかった。(女性史研究者=江刺昭子)

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