都議選は国政へこれだけの影響を与えてきた~総選挙への影響はこうなる(歴史家・評論家 八幡和郎)

波乱の東京五輪開幕を前に、東京都議会議員選挙が、6月25日に告示され、7月4日に投票される。
そこで、この選挙が東京都政における小池百合子知事への信任投票としての性格を持つのか、秋に行われる総選挙と菅義偉政権の行方にどう影響するのかを、歴史的な文脈を踏まえつつ観察したい。

そもそも都知事選挙と都議選は、新しい憲法と地方自治法を踏まえた形で、1947年に統一地方選挙の一環として同時に行われて以来、1963年まで5回はそうだった。

そのときに当選した知事は、最初の3回は安井誠一郎であり、あとの2回は東龍太郎だった。前者は岡山県出身の内務官僚で、官選の東京都長官(1943年に東京府と東京市が合一して東京都ができ、その長は長官と呼ばれていた)であり、戦災復興に堅実な手腕を振るった。後者は大阪府出身の医学者でスポーツ医学の権威でありIOC委員でもあって東京五輪の顔として期待された。

ところが、1964年の五輪の閉幕後の1967年に、東京都議会で議長選出をめぐって贈収賄事件が明らかになり、15人の自民党都議会議員が逮捕された。このことで、リコール運動が起き、それを避けるため、議会の自主解散が可能になる制度改正が行われた。

これによる都議会自主解散ののちの選挙では、定数120のうち前回選挙では自民69社会32だったのが、38対45となり社会党が第一党となる大激変となった。それを受けて、1967年の統一地方選挙では、自民党が民社党の支持する松下正寿立教大学学長に相乗りしたにもかかわらず、社会党・共産党が推す財政学者の美濃部亮吉が勝利した。なお、この選挙では公明党が阿部憲一をたて3位になっている。

美濃部亮吉は革新知事ブームを引き起こし次の都知事選挙では自民党の推す秦野章にダブルスコアに近い大差で勝利するのだが、1969年の都議会議員選挙では、自民54対社会24となり自民党の復調が目立った。両党とも6年前より議席を減らしたのは、公明党と共産党が20議席以上の議席を占めるようになったことの反映である。

1963年2月27日の東銀座駅、都営地下鉄1号線(現 浅草線)の人形町~東銀座 間の開通式(東京都庁広報課公式Facebookページより)

公明党の躍進の経緯

公明党は1963年に公明政治連盟として17議席を獲得し、65年からは公明党として常に20議席以上を獲得している。公明党は伝統的に都議選に力を入れている。有力支持団体の創価学会の宗教法人としての監督が東京都になっているのも理由だという人もいる。

この議席分布は1973年もほとんど変化がなかった。さらに、1979年の知事選挙では、美濃部は引退し、保守系の自治官僚で東龍太郎時代に副知事を務めた鈴木俊一が当選し、堅実な手腕で財政再建に成功して高い評価を得た。

ところが、鈴木はバブル経済の契機になった不動産価格の暴騰に対して無為無策の極みで評判を落としたので、1991年の知事選挙では、当時は自民党だった小沢一郎が主導してNHKの磯村尚徳を担ぎ出し、自民・公明・民社がこれを推薦した。しかし、都議会が頭越しに批判的だったこともあって東京都都連は従わず、それに支持された鈴木が判官贔屓で4選された。

鈴木は世界博というバブルの遺産事業を強行しようとして評判を落として引退し、1995年の都知事選挙では、作家・タレントの青島幸男が、鈴木が後継指名した石原信雄らを破って当選した。

この間の都議会議員選挙では、1989年と1993年には、自民党がそれぞれ43議席、44議席と低迷した。これは、前者では不動産価格の高騰などへの不満もあっただろうが、リクルート事件などによる自民党政権への不満、後者では選挙期間中に宮沢内閣が不信任され衆議院が解散されるという混乱を受けたものだった。

1993年の都議選は6月27日に行われたが、自民党が低迷するとともに、社会党も前回の29議席に対して14議席に減り、代わって日本新党が20議席を獲得して、7月18日の総選挙での躍進と政権交代につなげた。

1990年3月10日の東京駅、京葉線の東京・蘇我間の全線開業式(東京都庁広報課公式Facebookページより)

都知事の評判より国政の評価で決まる結果

1996年の総選挙では自社さ政権で自民党が勝利していたが、橋本政権のもとでの1997年の都議選では、その流れで自民が54議席を獲得し、公明は堅調、民主は低迷、社民、新進は惨敗、共産が健闘した。

1999年には石原慎太郎が都知事に就任し、2001年の4月には小泉内閣が発足したことから自民党は堅調で、2001年の都知事選では順当な勝利を収めた。一方、野党では共産党が前回の26議席から25議席に減り、民主党が12議席から22議席に躍進して民主党が政権交代の受け皿として浮上した。

さらに、小泉内閣の2005年には自民が48議席に減り、民主が35議席に躍進し、小泉内閣の前途に暗雲が立ちこめた。普通ならこのままずるずる地獄落ちなのだが、さすが常識にはとらわれない小泉首相は、郵政解散で切り返し大逆転したのである。

麻生内閣時代の2009年7月の都議選は、自民38議席に対して民主54議席となり、民主党政権が実現に近づいたことを印象づけた。小沢一郎から鳩山由紀夫の代表交代は、この民主党の勝利におおいに貢献した。東京人は鳩山家が好きだ。

都議選の直後に麻生太郎首相はほとんど勝機は感じられないまま衆議院を解散し鳩山政権ができた。石原知事は苦しい立場に追い込まれたが、2011年には東日本大震災後の状況を口実に選挙運動はほとんどしない石原が東国原英夫や渡邉美樹(ワタミ経営者・都議会民主党支援)を寄せ付けず勝利した。全国あちこちで災害対応への専念を口実に選挙での政策論争を必要以上に避けることが流行し、それは今回のコロナ禍でも継承されているが感心した話でない。

しかし、野党党首の都議会に嫌気がさしたのか翌2012年には辞職し、第二次安倍内閣発足直後には副知事だった猪瀬直樹が後任となった。猪瀬は東京五輪誘致に成功したが、当選時の政治資金問題で失脚し、2014年に桝添要一元厚労相が知事となった。

1998年3月の 渋谷駅前(東京都庁広報課公式Facebookページより)

今回の都議選は前々回への回帰だろうがコロナ感染者数も影響か

しかし、これも失脚し、2016年の知事選挙では、みなさんご存じのように小池百合子が当選した。

自民党のなかでもタカ派だったが、自分が自民党の推薦を得るのは難しいとみて強行立候補し、なかなか見事な戦いぶりだった。そのあと、自民党が公明党がそうしたように与党化すればよかったのだが、あえて、知事と対決路線を選んだ。結果は自民党は23議席となり民進党も5議席となった。

その結果、翌年の都議会議員選挙では、自民に対して、小池支持の都民ファーストが議席を獲得した。おそらく、自民党が是々非々くらいの気持ちでふるまったら、10議席を失い、その分を都民ファーストがとるくらいですんでいたのでないかと思うが、互いにとって馬鹿げたことだった。

それでは、2021年都議選はどうなるかだが、こうした過去の歴史が繰り返されるとすれば、順当にいけば自民は50議席くらいまでに回復し、都民ファーストは10議席ほどであろう。共産党は微増するだろう、立憲民主党も20議席程度は望める。これは、ひたすらコロナ渦と五輪開催への根拠はないが漠然たる不満の受け皿になれるからだ。

このところの、自民党や内閣への支持率は、コロナの患者数がどの程度の推移だけで上がったり下がったりしている馬鹿らしさだ。

もちろん、小池知事の健康不安など波乱要素はあるが、過去の都議選の歴史にふりかえればそうだということだ。

一方、国政においては、菅義偉首相は東京五輪ができない状況でないので開催し、ワクチン接種に全力を挙げて展開して感染者数が減ったところで解散する気だろう。9月の段階で数字が良ければ解散するだろうし、もう少し待った方がよければ任期満了選挙になるかもしれない。それまでは、希望者へのワクチン接種が終わっているはずだ。

となると、積極的に接種を希望しない人の啓発と、逆に諸外国と違って社会的に広く許されているアンチワクチンのプロパガンダや慎重論とのせめぎ合いが政局の行方を決めるかもしれない。もちろん、解散から投票日までのあいだの動きを政権が見誤る可能性もある。

野党がワクチンに反対しているわけでないが、昨年11月に国会審議で「予防接種法及び検疫法の一部を改正する法律案に対する附帯決議」を推進し、ワクチンの早期承認と接種の推進にブレーキをかけるのを後押ししたのが野党であることは確かだし、野党系のマスコミが政権のワクチン接種の加速化措置に好意的でないのも事実だ。

一方、いわゆる保守派にコロナ禍対応を過剰だとする立場からのワクチン慎重派が多いのも事実だから複雑だ。

注:都議選での各党獲得議席数については、もっともよく流布しているWikipedia所収のものを使った。

コロナ対策と五輪などへの影響については下記の記事を参照されたい。
コロナ対応を狂わせる『医系技官』のひどすぎる実態」 

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