『プロレス秘史1972-1999』<小佐野景浩氏インタビュー①>BI砲、俺たちの時代、三銃士&四天王時代について熱血プロレスティーチャーが大いに語る!

週刊ゴング元編集長、現プロレスライター&評論家の小佐野景浩氏が徳間書店より『プロレス秘史1972-1999』を刊行。

空前のプロレスブームと言われる昨今、その原風景として記憶に残るのは、アントニオ猪木率いる「新日本プロレス」とジャイアント馬場率いる「全日本プロレス」に他ならない。72年に旗揚げされた両団体を中心に、数々の名勝負の裏側と背景を解説。99年1月の馬場の急逝まで、試合ではわからない選手同士の遺恨や両団体の水面下での覇権争いなどについても著者の取材メモをもとにマット界の真実に肉薄した1冊。

『プロレス秘史1972-1999』を通じて改めてプロレスの魅力を熱血プロレスティーチャー小佐野氏に語って頂きました。

①プロレス秘史1972-1999(2017年12月19日、徳間書店)

【執筆に至った背景】

–今日は2017年12月に発売された『プロレス秘史1972-1999』についてお伺いしたいと思います。まずは執筆の経緯からお聞かせください。

小佐野:もともと2013年の夏くらいから週刊アサヒ芸能でプロレス物の連載をしていました。最初は『平成プロレスの名勝負』、そのあとに『昭和の名勝負』、今現在は『90年代の名勝負』というテーマでずっと続けています。僕は、プロレスというのは点じゃなくて線で見るから面白いって考えているんですよね。ドラマがずっと続いているわけなんだけど、雑誌の連載だとどうしても点になっちゃう。例えば4月15日発売号だと、4月15日近辺の試合を探すじゃないですか。日にちで追うと、結果的に年代が飛び飛びになっちゃうんですよね。だから、それをトータルでちゃんと時系列に並べて一個の大きなドラマにしたほうが、より分かるんじゃないかなと。編集の担当者も同じくプロレス好きな方なので、そこは同じ考えで。
じゃあずっとやっていた連載の中から節目節目の試合を選んで、足りない部分は書き加えてひとつの時代をつくりましょうと。そうなるとどこからやりましょうかという話があるんですけど、『力道山時代』もあるし。でもまあ一番いいのは馬場と猪木のBIが並びたったところを出発点にして、猪木さんが新日本を作ったところからがいいだろうと。そこでいろんなプロレスの価値観が生まれてきたはずだから、そこから馬場さんが亡くなるところまで。ちょうど格闘技ブームが来て、プロレスが変わっちゃうときだったから、あの馬場さんが亡くなるところまでをまとめましょうということで、その期間が72年~99年。

–そうなんですね。わたしの生まれ年がちょうど72年でファン時代がまさにこのタイミングなので出だしから『プロレス秘史1972-1999』をワクワクしながら読ませていただきました。

小佐野:結局それまでというのは、プロレスの価値観というのはアメリカが本場だったと思うんですよね。例えばNWAが一番すごいとか。でも猪木さんが出てきて「名前じゃない、実力だ!ストロングスタイルだ!」と言い出してから違うプロレスの価値観が生まれてきて。ここからプロレスはすごい面白くなっていったと思うんですよね。

–今回は72年~99年ですが、試合数も相当な数あるので、年代ごとの試合のピックアップも大変だったんじゃないですか?

小佐野:例えば名勝負数え歌的なものもあるじゃないですか。どれをピックアップするかっていうのは悩みますよね。そのときに選ぶのはスタートなのか、途中なのか、最後なのか。その人達のストーリーの中で考えましたよね。これはストーリーが重要だとか、結末で全部を追ったほうが分かりやすいなとか、そういう感じで選んでましたよね。
あとはやっぱりその試合だけじゃなくて、そのときのマット界の状況が大事なので。なんでこの試合が生まれたのか、じゃあそのときに何が起こってたのかということをほかの団体も含めて。そういったところまで目を配って、初めて全体像が見えるかなと。

–そういうのは、小佐野さんの昔の取材メモだとかを振り返ってみたりされるんですか?

小佐野:もともと取材しているときはメモ取ってますしね。まあでも汚くて自分でも何書いてあるか分からなかったりもするんですけど(笑)。

–ではそれが基本的なデータベースとなったんですね。

小佐野:あと昔自分が書いた記事とかを読んで思い出して、今だと映像とかも見れたりするんですけど、実は映像はあまり見ないで書いてますね。というのは、そのときの空気を大事にしてるんです。今見るとその時の感覚と違っちゃったりするんですよね。例えば、技術でいうと今のほうが技術レベルは高いんですよね。技の数だって全然違うから、今の視点で見ちゃうと「あれ?あんまり面白くないな」っていうのも多分出てきちゃうんじゃないかな。今の人が昔のことを調べたり昔の映像を観たりして書いても、その時代の空気は絶対伝えられないんですよね。だからその当時の目線で見たものを伝えたいなと思って。

–わたしも古い雑誌とかを見るだけで、昔の情景を思い出したりしますね。長州が天龍にリングサイドでバックドロップしてリングアウト勝ちしたんだとか。

小佐野:エプロンの攻防はあれが初めてだと思います。断崖式というかね。

–あのときの空気感はやはりあのときでないと感じられないものってありますよね。

小佐野:そのインパクトってすごい大事じゃないですか。例えば、僕は力道山は書けないんですよ。力道山、木村政彦の例の試合あるじゃないですか。映像では見ますよ、やっぱすごいなとは思うけど、そのときの会場の熱は分からない。たぶんすごかったはずですよ、日本選手権で。リングサイドに恐いお偉方がいる中でやったわけじゃないですか。その緊張感とか分からないですもん、やっぱり。

-そのときの空気感とかってやっぱ会場にいないと分からないものがありますよね。

小佐野:あとはもう取材をしてたかしてないかでも全然違うし。

–確かに自分もインタビューした選手の試合などは感情移入しますね。

小佐野:あとはファン目線でみたからこそ面白い試合というのもたぶんあると思うし。いろんな試合があるので。もちろんファン時代に見ていた試合もあるので、それはその時に感じたものを書いてるし。
ピックアップしたものだいたい網羅されているのでページ数の関係で泣く泣く載せられないものもありましたけどね。
願わくば、もっと国際プロレスを入れたかったりとか、もっとU系を入れたかったりとか。そういうのもあったりするんだけど、U系ってまた違うじゃないですか。U系で入っているのは、その時代の背景が出てる試合は入れてますけど、純粋に試合というとちょっと違うのかなという気がしましたね。

–猪木さんの独立、馬場さんが亡くなるところまでというのが、1999年という、ある意味区切りですよね。

小佐野:まあ最後はあえて+1として、試合じゃなくて馬場さんの死去、亡くなったことを書いているのですが、まあ亡くなったのが1月31日の午後4時4分。その日の12時から闘龍門という全く新しい団体がスタートした。そこを時代の入れ替わりにしたんですよね。その前には1月4日の例の小川直也vs橋本真也の試合もあって新日本の最強伝説が崩壊した。なので本当にあそこが時代の転換期となったんじゃないかなと。

⇒次ページへ続く(第1部 馬場・猪木の時代からタイガーマスク誕生まで)

–本当にすごい時代だなって思いますよね。今振り返るとああいういろんな時代があって、へこんでまた再興しているという。

小佐野:まあ、ぶっちゃけ言えばこの区切りはこじつけっちゃあ、こじつけっていうのもあるんだけど。でもドラマとして、読むほうとしては読みやすかなと。

–わたしはスッと入って行けました。

小佐野:そうなってくれるとありがたいですけど。

【各章ごとの見所】

◆第1部 馬場・猪木の時代からタイガーマスク誕生まで

–わたしは第一部の馬場猪木さんの時代からタイガーマスク誕生までのストーリーがぐっとプロレスにどっぷりはまった時代だったので。

小佐野:やっぱ章立てをしなくてはいけないというときに、難しいんですよ。馬場と猪木のBI対立時代からぐっと始まるのはいいんだけど、どこで区切るかというときにふつうに考えたらジャンボだったり藤波だったり、長州、天龍だろうなと思ったけれど本当に時代に風穴をあけたのはタイガーマスクだったんですよね。あの82年のプロレス大賞。それまで馬場猪木しか取ったことがないプロレス大賞をタイガーマスクがとっちゃったという。やっぱりタイガーマスクの誕生が、あそこでファン層も広がったし、あそこからプロレスを観た人って多いとおもうんですよね。

–そうですね。わたしちょうどド真ん中の世代だったので。

小佐野:そこに入った人達がそのままプロレスを見続けるか、格闘技系に走るかでしたもんね。そこで間口がひろがったというかタイガーマスクの功績はすごいと思いますね。タイガーマスクが出てきて、まあそこにずっといたのが『俺たちの時代』の人達ですよね。

–ゴングで言うと『格闘頂点(鶴藤長天)』(ジャンボ鶴田、藤波辰爾、長州力、天龍源一郎)という(笑)。対談企画があったりと、いつもワクワクしてみていました。

小佐野:そうですね(笑)。あのキャンペーンは、僕は結構渦中にいて。結局あのときジャパンプロレスが全日本に来て。僕は全日本の担当だったので。『鶴藤長天』のうちの『藤』以外が全部担当だったんです。

–そうだったんですね。でもいつか交わるんだろうなとずっと心待ちにしてましたし、ゴングでも誌面を通じてかなりエールを送っていましたよね。

小佐野:そうですね。でも本当にやりたかったんですよ。本を売るためじゃなくて、本当に4選手の対戦を実現させたくて。だから毎週、鶴田、長州、天龍のところに行って話をして。でも実は水面下で長州さんが新日本に戻る話が進んでいたという。すごい偶然です。だから長州さん驚いたと思うんですよね、こいつ知ってんのかなと。

–そのへんって団体側も選手側も疑心暗鬼というか、どこまで知ってんのかってなりますよね。

小佐野:だから天龍さんからは「結局、長州選手と藤波選手がやりたいってことなんでしょ。その2人がやりたいんでしょ」って結構読んでましたもんね。で、そういう時代にはいったという。

◆第2部 「俺たちの時代」とUWFブーム

–-そして第二部というのが、UWFブームというのが、突発的に発生したというか。

小佐野:結局『鶴藤長天』とUWFの闘いでもあった時代ですよね。こっちでプロレスをやって、こっちで既成のプロレスと違うことをやるというね。

–プラチナペーパー化してた時代というのもすごかったですよね。

小佐野:何分で売り切れたっていう戦略をUWFはやってましたもんね。UWFのチケット神話っていうのは、やっぱり相乗効果もあったと思いますけど、新しいプロレスを打ち出したという側面がその時代のプロレスファンをつかんだのかなと思います。
本当に時代が、その前の「BI時代」は馬場さんのアメリカンプロレスと猪木さんのストロングスタイルの2つだったのが今度UWFという新しいものが出てきて、さらに細分化されて、価値観が多様化していくという時代でしたからね。
不透明決着やフェンスアウトでモヤモヤしてた時代に完全決着を謳ったり、だいぶ変わってきたりですとか。

–FMWがその陰では生まれてきたという。

小佐野:そうですね、今後出てくるという。あと日本人対決が主流になっていったというのも大きいですよね。今までは日本人対外国人というプロレスが日本のプロレスの在り方だったのが、この時代それで変わっていってますからね。

–そしてこの時代の全日本プロレスは外国人選手は豊富でしたね。いい外国人選手がたくさんいて、また外国人選手側からしても「日本帰りは出世する」なんて言われていましたよね。

小佐野:ただまあ外国人選手を使うのは難しかったみたいですよ。結局馬場さんもその限界を感じたから、ジャパンプロレスを取り入れたので。大きかったのはWWFですよね、システムを変えて選手を抱えて、選手を呼べなくしたので。まあ日本人対決にシフトしていったという感じですよね。

–そういう背景もあったんですね。しかし日本人選手同士は感情移入がしやすかったですよね。

小佐野:そうですね。選手同士の人間関係だったり思惑だったりが絡んでくるから人間ドラマになってくるじゃないですか。人対人ですよね。リング上の優劣じゃなくて、人生観とかそういうこととか入ってきちゃうから(笑)

–プロレスラー独特の価値観やイデオロギー対決みたいな。あとはUWFでいうと前田さん達が新日本に戻ってきた時に妥協のない蹴りだとか攻撃が本当にすごかったですよね。

小佐野:結局あの時もお互い疑心暗鬼で戦ってたわけじゃないですか。こいつ踏み越えてきちゃうんじゃないかとか、そこらへん分からないじゃないですか。そこの緊張感もまたあるわけですよね。

–今でもあの頃の藤波さんと前田さんの試合とか見ると、すごいなと思いますよね。

小佐野:あとすごいのは、坂口さんと前田さんの試合ですね。もろ感情出てますからね。坂口さん、感情出る方なので。

–そうですね、前田さんとブロディのシングルが消滅したときの坂口さんとのシングルもすごかったですもんね。

小佐野:あれは面白かったですね。

–マスコミ視点で面白いと感じるのは、ファンもワクワクする試合ですよね。

小佐野:ファンもマスコミも見て楽しければいいわけですから。一番見たいのは、やっちゃヤバそうな2人をぶつける試合だと思いますよ。要は当人としてはやりたくないという試合が一番面白いはずなんですよ。ただ成立するかしないかは別問題ですけどね。

–成立しないときの焦燥感というのはすごいですよね。長州力さんと橋本さんの東京ドームでやってドラゴンストップがかかったときなんて(笑)

小佐野:だから外国人でいうと例えば、マスカラス兄弟対ハンセン&ブロディの最強タッグとかも試合としては成立しなかったんだけれども、成立しなさが面白かったっていう。うわぁマスカラスとブロディ、我が強いわーっていう。馬場さんが頭抱えたっていうね。でもう当てるべきじゃないなっていう。

–マスカラスさんはちょっと前のドラディションのときに藤波さんが試合後のインタビュー席に帰ってくるのが遅かったから怒って先に帰っちゃったっていう。

小佐野:帰っちゃいましたね(笑)。でも昔はやっぱり我の強い選手が多かったんで、そういうとこも面白かったですよね。今の選手はなんだろう、いい試合をしようという意識が強いじゃないですか。昔の選手はそういうこと考えてなくて、自分が強ければいいみたいなところもあったじゃないですか。だから職業としては今の選手の方が絶対正しいんですよ。お客さんに見せるんだからいい試合をしなくてはいけないと。でも昔はその我の強いところを楽しんでたところがあって、でも外れるとひどい試合になっちゃうんですけど(笑)。

–そういう時代のプロレスもこの本では非常に語られてますよね。

小佐野:だから外れた試合も入ってますよね(笑)
そういう意味ではね。成立していない試合もやっぱそういう試合もその時代の空気ですから。

⇒次ページへ続く(第3部 天龍・大仁田に続いた三銃士と四天王の躍動)

◆第3部 天龍・大仁田に続いた三銃士と四天王の躍動

–本当にチョイスが抜群ですよね。そして第三部、天龍、大仁田に続いては三銃士と四天王の躍動という。

小佐野:実は三銃士と四天王がいきなり出てきたんじゃなくて、その前に全日本プロレスを辞め、SWSに行き、新日本プロレスに殴り込んだ天龍源一郎というのと、UWFブームの中で真逆を行った大仁田厚というのはやっぱりすごいその時代大きかったですよ。90年代の頭。

–大仁田さんはアンチテーゼとしてああいうデスマッチを入れたというところがすごかったなと思いました。

小佐野:あの人は頭いい。本当に頭いいですよね。あの頃はみんな、例えば新日本はどっちかというとUWF系統に行って、馬場さんは「みんなが格闘技に走るなら
プロレスを独占します」と言ったけれども、はっきり違うものを打ち出したじゃないですか。いや、プロレスはそんなもんじゃないよ。見世物小屋なんだよと、流血もあるし、反則もあるし、不透明だってあるんだよと。その胡散臭いのがプロレスなんだよと。そこはうまいこと打ち出しましたよね。

–「私、プロレスを独占させていただきます」というあのキャッチコピーもすごかったですよね。

小佐野:それもすごかったですけどね。まああれはターザン山本さんが考えたんでしょうけど。

–そういう時代の中で大仁田さんが出てきて、いまだに引退と復帰を繰り返してるから元気ですよね。今度は7度目の復活!

小佐野:そうですね。で、結局大仁田厚はFMWを純粋なプロレス団体として実は旗揚げしてないですからね。要は『フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング』。
格闘技も含めたプロレスで。プロレスが格闘技にアプローチするとこういう格闘技戦になりますよっていうのが大仁田厚のやり方だったから。

–当時は青柳館長だったりとか、ものすごい闘いをいろんな形でやられてましたもんね。

小佐野:メジャーに対してインディーという概念も作ったし、メジャー側が作った言葉じゃないですからね。大仁田厚が作った言葉ですからね。

–当時の長州力さんが「藤波、俺はお前の噛ませ犬じゃない」っといったときも上のものに噛みつくみたいなそういったところにファンが大仁田さんのときにもあったのかな?

小佐野:俺はメジャーとは違うんだよという逆に線引きをしたんですよね。線引きを大仁田の方からやったんですよね。そこはちょっと、実はあのころ、僕は大仁田のブレーンの一人だったんですよ。で、当時、インディーズのグループがメジャーデビューとかいろいろしてて。プロレス団体でもWWE、NWAという大きな組織と違う団体をインディペンデントって呼んでたので、「大仁田さんFMWはインディペンデントだって言ったらかっこいいですよ」っていう。それをまとめ上げたのはあの人。「それはいいね、じゃあインディーの団体を集めてインディー連合を作っちゃおう」って。あの人は本当に『インディペンデント・ワールド』っていう組織作っちゃいましたもんね。アメリカやメキシコの団体と。で「うちは新日本・全日本とは違いますから。うちはインディーですから。」すごいなって。ちゃんと形にしたんですよ、あの人。

–そして新日本プロレスに上がって長州力まで引っ張り出したっていうのがすごいですよね!

小佐野:だから最初のスタートの時点でUWFを切ったわけですよね。うちはUWFとは違うよ、そして今度は新日本・全日本とも違うよと。まるっきり違う路線を打ち出して、デスマッチに行く。そして「これがリアリティだよプロレスの。関節技痛いの分からないでしょ、
でも有刺鉄線痛いよ、これがリアリティだよ」ってことなんですよね。

–大仁田さんがいて、また一方で天龍さんというとSWS。ある意味、ゴングと週プロの戦いでもあったかなと思いますけど、あのときどうでした?

小佐野:僕、全日本プロレス担当だったじゃないですか。で、天龍さんがああいう風に出た。動きとしては全日本担当とSWS担当の両方やりたかったんですよ。だって、その後出てきたのが、三沢であり、小橋であり、川田であり、田上でありといった人達だったじゃないですか。入った頃から知ってる人間がトップを取る、こんなに取材やりやすいことないわけですよ。変な話、呼び捨てで呼んでるような人達がトップなわけだから。だから両方やりたかったけど、あの時のあの両団体の軋轢の中ではそれは出来なかったですね。要は全日本プロレスから煙たがられましたね。だから三沢達とはリング外で付き合ってましたね。

–本当にあの時代はギスギスしてたなと。マスコミもファンとして傍目に見てただけですけど、ゴングと週プロもそういう感じがあったんじゃないかなって思いました。

小佐野:結構団体が分かれたり、選手が離れたりいろんなことがあると、選手や団体って「どっちの味方?」ってすぐそういう風に人を判断したがるから「どっちの味方でもないですよ!」って。こっちは報道してるんだからねって。そこはなかなか分かってもらえないですよね。でもまあこんだけ年月を経れば、結局は馬場夫妻とも仲良くやって、ずっとなんとなく全日本派と見られ。実は新日本のファンクラブやってたり。

–私設ファンクラブ『炎のファイター』やられてたんですもんね(笑)

小佐野:そうです。だから本当は新日本なんですよ、もともと(笑)!だから業界に入ったときは新日本の選手の方が知ってたんですから。全日本の選手とはしゃべったことなかったんですから。不思議ですよ。

–そのような中で天龍番としていろんな相談とか、苦悩とかも聞いていたわけですか?

小佐野:いろいろな話をしましたよね。SWSの頃は辛かったと思いますよね。だって昔サインした色紙が送り返されてきたらしいんですよ、「もういりません」って、それは傷つきますよね。
で、試合しても冷たい空気で。どう見てもあら探ししてるファンが多かったんですよね。

–あのときもしかしたら、本当に武藤敬司がSWSに入っていたら違っていたのかもしれないですよね。

小佐野:まあ、企業が入ったほうがいいっていうのは今の新日本が証明してますけど、ちょっと時代が早かったのと。メガネスーパーはタニマチ感覚だったってことですよね。ちゃんとビジネスとしてやればまた違ったんでしょうけど、あの儲けいらないからどうのこうのってレスラーに多くのギャラをあげちゃった時点で失敗だったかもしれませんね。

–天龍さんの引退のときにでもメガネスーパーさんの協賛だったかが入ってたのはちょっと嬉しかったですね。

小佐野:そうですね。あのその当時のメガネスーパーの社員の方が今いらっしゃって偉くなってるのかな?その人がやっぱり本当はSWSに入りたかったらしい(笑)。でもメガネスーパーに入ったから、今ようやく叶ってこういうことができるってことで。

–あれでプロレス界ではメガネスーパーが有名になりましたよね。

小佐野:だからメガネスーパー的にはよかったらしいですよ。叩かれようが何しようが有名になったっていうのはかなり大きかったみたいです。

–個人的にはそのあとの、WARが新日本とやってたときはヒートアップしてめちゃくちゃ面白かったですね。

小佐野:あれは、やっぱりファンは天龍を全日本として見てたはずなんですね。ついに全日本のトップと新日本のトップの対決が始まったっていうね。やっぱあの時代の天龍源一郎はすごかったですよね。

–すごかったですね。もう天龍さんご自身のコメントで新日本のリングに上がったら、スーパーカーが並んでるようだったとおっしゃってたってありましたもんね。

小佐野:ほとんど当たりましたもんね。当たってなかったのは、武藤敬司、グレート・ムタとシングルやってなかったくらいですもんね、あの時代。武藤、ムタとはワンクッション置いてからシングルをやりましたけど。

–本当に面白かったです。

小佐野:猪木さんもいきましたもんね。

–まさか猪木さんからピンフォール勝ちするなんて。もう信じられなかったです、衝撃的でした。

小佐野:あれは新日本の選手はどういう思いだったんだろうって思いますよね。

–このカードを組んだ長州さんもすごいですが、うけた猪木さんがまたすごい。

小佐野:あれも結局SWSを辞めるときにインタビューして「引退試合は長州力とやりたい」と天龍さんが発言したのを記事にして。それを現場監督だった当時の新日本の長州力さんが乗ってきてくれて、ああいう形になって。僕としては本当に嬉しかったですね。

–マスコミさんがうまく選手を繋げるというか、誌面を通じてうまくやっていた時期っていうのがあったわけですよね。

小佐野:そうですね。当時は我々も見たいものがあるわけじゃないですか。それを実現したら、ファンは絶対乗っかってくるじゃないですか。で、そのほうが絶対に本も売れるじゃないですか、という考え方でしたね。

–だから、今よりある意味べったりしていないというか。なんていうんですかね。

小佐野:もしかしたらベッタリなのかもしれないけど、ベッタリの仕方がちゃんとお互いのビジネスとしてのベッタリの仕方なんですよね。

–その辺が今と少し違うのかなと。

小佐野:一緒に作っているということなのかな。どこどこの団体からお金をもらってやっているというわけじゃないから。それはいらないんですよ、実現してくれれば結果的に本が売れて儲かればいいから。個人的なお金はいらないわけですよ、そういう感じですよね。

–そういうワクワク感があったんですよね。誌面を通じて、あおっているような。ファン的には心理がとらえられているなというか。

<次回パート②に続く>週刊ゴング時代の秘話も語って頂きましたのでお楽しみに!

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