『プロレス秘史1972-1999』<小佐野景浩氏インタビュー②>週刊ゴング時代、熱血プロレスティーチャーのこれから!

週刊ゴング元編集長、現プロレスライター&評論家の小佐野景浩氏が徳間書店より『プロレス秘史1972-1999』を刊行。

空前のプロレスブームと言われる昨今、その原風景として記憶に残るのは、アントニオ猪木率いる「新日本プロレス」とジャイアント馬場率いる「全日本プロレス」に他ならない。72年に旗揚げされた両団体を中心に、数々の名勝負の裏側と背景を解説。99年1月の馬場の急逝まで、試合ではわからない選手同士の遺恨や両団体の水面下での覇権争いなどについても著者の取材メモをもとにマット界の真実に肉薄した1冊。

『プロレス秘史1972-1999』を通じて改めてプロレスの魅力を熱血プロレスティーチャー小佐野氏に語って頂きました。<パート②>

②週刊ゴング時代

【まさかの大仁田対天龍戦】

小佐野:例えば大仁田対天龍。最終的にやりましたよね、電流爆破を。それも前の年の暮れに大仁田厚に天龍さんと会いたいということを言われていたんですよね。で、2人を品川のホテルで会わせたのが原点ですからね。で、なんか大きなことやりませんかと大仁田さんがいって、天龍さんがそうだねと。それがスタートでした。

–あの結末もびっくりしました。

小佐野:というような形で決まって。でも細心の注意を払わなければいけないのは、変な独占のスクープをしたら、他のマスコミの総スカンをくらって、駄目になっちゃうんですよ(笑)。

–マスコミの在り方っていうのは、プロレス界は、非常にスクープの取り方っていうのは難しそうですよね。

小佐野:基本的に週刊誌はスクープはないわけですよ。新聞なんですよ、スクープは。というのは新聞広告を出すじゃないですか。そうすると何日か前にはこっちの内容が分かるわけですよ。その見出しを見て取材されたら、本当にスクープだとしても新聞で先に出ちゃうから。で、僕がでも有利だったのは、週刊誌にはスクープはないと新聞の人は分かってる、そうすると東スポの記者も日刊の記者もデイリーの記者も僕に話をしてくれるわけですよ、出し抜くことがないから。そうすると「これ、他の新聞社の記者には教えないでね、内緒ね。」っていろんな情報が入っちゃうわけですよ。そういうのがありましたよ。
あとは援護射撃をしてほしい場合もあるわけですよ。新聞社が。自分達の書く記事に。

–そんな場合もあるんですね。

小佐野:例えば、火曜日にこういう記事を書く。そっちは水曜日発売だと、そこに載ってもいいわけですよ、新聞としては記事が出てるわけだから。
後追いをして、盛り上がったほうがいい場合は「うちは何曜日にこの記事を載せるから、よかったらそっちもやらない?情報を提供するよ」という場合もあったわけですよ。

–面白いですね。

小佐野:だからみんなが一緒になって作っていったんですよね。
その中でもマスコミ同士のせめぎあいもあって。それはすごく注意しましたね。やはり他社の情報をもらさないという。

【闘魂三銃士&全日四天王の時代】

–あと話が変わりますが、三銃士と四天王の時代も熱かったですよね。

小佐野:そうですね。まあでもこの頃になるといろんなサイクルが早くなってくるから、温めて温めて試合が実現っていうのがあんまりなくなってきますよね。

–たしかにマッチメイカーの腕の見せどころでしたね。

小佐野:どう組み合わせていくかみたいに変わっていくんで、だんだん書きにくくはなっていくんですよ(笑)。

–たしかに武道館の満員伝説が続いたり、三銃士を使ったビックマッチがいろんなところであってドーム興行が連発していた時代というのはやっぱり今と比べてもすごいなと思います。

小佐野:三銃士も四天王もお互いライバル意識があるから、そういうところにスポットを当てると結構面白くなるんですよね。特に三銃士は誰が上がってる時、誰が沈んでるとかっていうのが結構あるんですよ。特に橋本真也はジェラシーを燃やしたりするから。そういうとこ面白いです。

–裏側では三銃士と四天王は会ってた時期もあるとか。

小佐野:馬場さんが亡くなってからですね。あ、その前にも1回会ってるかな?三沢が全日本の実権を握ってから会うようになりましたね。馳浩が仲介をして。で、結局、馬場さんの引退興行としてやった東京ドームで川田利明対橋本真也っていう案があったけど流れちゃった。橋本がずっと欠場が続いていて、復帰戦を新日本じゃなく全日本でやろうか、川田でどうかという話が水面下であったんだけれども、まず1つは馬場元子さんの反対。馬場さんの大事な引退試合で部外者の人を上げたくない。あとは新日本サイドも話がまとまらないですよ、その当時の三銃士の力では。

–そんな事があったんですね。しかし新日本プロレスは三銃士が頭角を現してからマッチメイクの幅が広がってすごく盛り上がりました。特に当時は外国人選手も新日本プロレスも重量級の選手が多くて、ベイダーやビガロ、ノートン絡みの試合はすごく面白かったですよね。

小佐野:まあ長州力さんは現場監督時代について「三銃士としていると強いんだけど、バラけるとちょっと弱いところがあったから、源ちゃん(天龍源一郎)がきたときは源ちゃんにメインを取ってもらって、その下でうまく三銃士を使って成長するまで待つっていうやり方をしていた」と言ってました。どこで彼らで勝負するかという見極めをしてましたね。

–四天王に関して、も三沢さんと川田さんも学生の頃からのライバルストーリーがあったりとストーリー性がありましたね。

小佐野:あとは小橋と田上の入門の時の・・・僕と日刊の川副さんという記者が小橋と田上間違えちゃったという。小橋が入門したときに田上だと思って取材して「なんだ新弟子かい!」みたいな。で、記事がボツになって。小橋は「いつ記事になるんだろうな」と思ってて、「ごめんね、ちょっと記事にならないんだよね」って(笑)。

–それは面白いですね(笑)。

小佐野:まあやっぱりあの2人のライバルストーリーもあったり、川田も小橋には絶対負けたくないっていうのがあったりだとか。まああの4人もそれぞれの人間関係があるので、それは面白いですね。

–それが1部~3部まで綴られているので、読者の方にはぜひ読んでいただきたいたですね!

プロレス秘史1972-1999
第1部 馬場・猪木の時代からタイガーマスク誕生まで
第2部 「俺たちの時代」とUWFブーム
第3部 天龍・大仁田に続いた三銃士と四天王の躍動

小佐野:だからこれ、『プロレス秘史』って書籍の名前に問題ありだったのかなとも思うんだけど、Amazonのレビューとか見ると、暴露本だと思って買った方もいるみたいなんですよね。そうなると、暴露本じゃないじゃないですか。「なんだ暴露本じゃないのかよ」みたいなのもあって。みんな、プロレスで暴露暴露って言うけど、そんなにプロレスって暴露することないんですよ。というのは、突き詰めていったら当事者しか分からないんだから。みんな自分に都合いいことは言うかもしれないけど、何が真実かなんて本当分からないからね。たまたま浅草キッドの玉さんが、『週刊読書人』という書評の新聞でこの本を取り上げてくれて。書いてくれたのは、例えば昔の映像を見るじゃないですか。そうすると「あぁこの試合って何で出来たんだっけな」とか結構あって疑問が出てくるんだけど、この本で「あ、そうだったって思い出させてくれる」って。だから「例えば昔のレコードを買うと、ライナーノーツがあったり、映画のパンフレットのプロダクションノートがあったりとか、そんな役目として読みました」ってあったけど、確かにそんな感じで読んでもらえるといいかもしれないですね。

–わたしはちょうど年代がドンピシャなので、時代を振り返りながら楽しく読ませていただきましたね。

小佐野:自分はあのとき何やってたなとかね。たぶんそうなんですよ。でも当時をリアルタイムで見ていなかった若い方達には、例えば昔の映像を見てから読んでもいいし、読んでから見てもいいし。そんな感じで参考にしてもらえればいいかな。

–非常にボリュームのある本なので、ぜひ若い方にも読んでいただきたいですね。

小佐野:152の話があるので、1日1個ずつでも2個ずつでもいいわけだし。でもできれば順番に読んでいってほしいですね。

–年代を感じてもらえたらいいですね。

小佐野:時代は繋がっているっていう。やっぱりプロレスは大河ドラマなんだなということを分かってもらえると、非常にプロレスを楽しめると思います。

⇒次ページに続く(週刊ゴング時代)

【週刊ゴング時代】

–そして今度、週刊ゴング時代のことをお伺いしたいのですが、当時は週刊プロレスと週刊ゴングが競り合っていましたが、それぞれ別の視点から書かれていて、読者としては両方楽しませていただいていました。誌面の使い方なんかも違いましたよね?

小佐野:週プロは外からアプローチしている報道の仕方なんですよね。ゴングは村の報道の仕方なんですよ。というのは、団体と一緒に物を作り上げているんだと意識が我々の中ですごい強かったんですよね。そういう発信の仕方をたぶんしてたと思いますね。いろんな団体と仲良く一緒にプロレスを作っていこうと思っていたから、それは編集長の竹内さんの方針だったんですよね。

–そういうお考えだったんですね。

小佐野:竹内さんがすごかったのは、あの馬場と猪木が対立してたあの時代に新日本とも全日本ともすごく仲がよかったという。それはやっぱりすごいですよね。僕が下っ端の時とか、電話を取ったりすると馬場元子さんから「竹ちゃんいますか?」って。または「もしもし小佐野?竹内の坊やいる?」って電話があって「あ、新間さんだ」って。そんな感じでしたからね。だから竹内さんは両団体の事情を全て知っていましたね。で、たぶん、馬場さん側も猪木さん側もそれを分かってたと思います。ただ竹内さんがすごいのは、全日本で知った情報を絶対に新日本に言わないし、新日本の情報を絶対に全日本に言わないから、だから信頼されてたんだと思いますね。だからいろんな記事が書けて、結構、新聞記者からは嫌がられましたね。ゴングの新聞広告を見ると、結構知らないことが載ってて、そうするとデスクから「これ何なんだよ、お前何取材してんだよ!」って言われちゃうって。

–それは面白いですね。

小佐野:だから一時期、会場行くの嫌でしたよ。先輩記者からいじめられるから(笑)。「お前のところの記事がどうのこうの」って。「いや、僕は知らないですよ」って。でも週刊になったときに、竹内さんは週刊にタッチするのを止めたんですよ。「そうすると書きたくない情報も書かなきゃいけなくなっちゃうのが嫌だから、俺は週刊にはタッチしないよ」って。なので週刊になったら我々に任されちゃったっていう。

–週刊を作るのって今までともスパンが違いますし、相当体力いるんじゃないかなと思いますけど。

小佐野:あと僕がプレッシャーだったのは、週刊になって初めて全日本プロレスの担当を言い渡されたんですよ。月刊時代も全日本の選手には取材もしてましたけど、その時の僕としては新日本の選手との関係のほうがはるかに密なんですよ。「全日本担当? まいったな」って。で行ってみると、1シリーズの間、馬場さん口きいてくれなかったですからね。様子見てるんですよね。で、まともに答えてくれないし、だから会場に行くたびに必ず馬場さんのところに行ってたんですよ。でもなかなか通じなくてちょっと落ち込むじゃないですか。でもそうしてたら竹内さんが「馬場さんが、竹ちゃんとこの若い子、結構見込みがあるだろって言ってたよ」って。で、1シリーズ終わったら、いきなり普通に話してくれるようになって、ご飯も誘ってくれるようになって。

–やっぱりそういう人間をしっかり見極めてるんですね。

小佐野:猪木さんは誰でも受け入れてくれるんですよ。馬場さんはそうじゃなかったですね。後で分かったのは、新しい新聞記者が来たりするじゃないですか。みんなで囲んでて、その人が席を外したりすると顔見知りの記者達に「あいつは大丈夫か?」、「あいつは信用していいやつなのか?」って聞くんですよ。。で、「あいつはいいやつですよ」って言うと、「そうか」と。そして仲間に入れる。だから馬場さんは身内しか受け入れないっていう人でしたね。

–信用されるまで大変ですね。

小佐野:大変でしたね。それにあの頃はマスコミが控室に自由に出入りできたんですけど、いろんな空気感とかもあるので新人の頃はなかなか難しかったですね。僕は18歳からこの業界にいるので、ファンと間違えられちゃうことも多くて。選手に「入って来ちゃ駄目だよ」と止められたり怒られたりすることも多かったし(笑)。
まあでもそんな感じでゴングは団体と一緒に作り上げていくという気持ちが強かったですね。
じゃあマスコミじゃないって言われるかもしれないけど、そうかもしれないけどプロレス界が盛り上がればいいから。俺らが裏で動くことによって、ファンが見たかった試合が見れたらそれでいいことだなって思うし。

–裏ネタでいうと、『三者三様』とかもありましたよね。ああいうのって批判とかなかったですか?

小佐野:あとは僕なんかいつも考えていたのは、いつもいい記事が書けるわけじゃないじゃないですか。時には批判が必要でしょ。
そのときには「あいつが書くんだから仕方がない」って言われるようになりたいなって思ったの。相手が納得するような「あいつが書くんだったらしょうがない、確かにそうだな」って。

–マスコミとしては、批判は結構勇気がいることじゃなかったですか?

小佐野:でもそのときは若かったこともあるんですけれども、信頼が築けてるって自分では思ってたんで、結構ためらいがなかったですよ。でも全日本プロレスから取材拒否3回くらいましたけどね(笑)。

–えっ、3回もですか!?

小佐野:週プロは取材拒否くらったとか書くけれど、うちは書かないスタイルだから、裏で実は取材拒否受けてて、ある時期、全日本プロレスのリングサイドの写真がなかったりしますから。全部2階から撮ってます。リングサイドは入れないけど、場外からは撮れるじゃないですか。だから、ジャンボ鶴田がブッチャーと試合してるとき、フェンスを開けて外まで出てきてくれて。それは撮れるじゃないですか、それを大きく使えるという。

–そんなこともあったんですね。

小佐野:だから真剣勝負はしてました、そういう意味で。

–ある部分、中に入って一緒に作り上げていく部分と、提言しなくてはいけないところは言うという。

小佐野:そういうときはガチンコ勝負ですよね。でも、今のプロレス界は難しいかもしれないなぁ。あとはそれをやることで、相手方なり団体が、決定的なダメージを受けちゃう場合はやっぱ出来ないですよね。猪木さんがあんなスキャンダル王だったのも、猪木さんはどれだけ書いても潰れない人で、むしろそれをエネルギーに変える人って分かってるからみんな書けたんですよ。

–よいしょするとかではないですけど、団体や選手があってこそのマスコミですもんね。

小佐野:あと「ふざけるなよ」って奮起してよくなってくれるといいんだけど、それが原因で衰退されちゃったら元も子もないから。それが難しいんですよね。

–一時期、新日本プロレスがブシロード体制になって、リングサイドカメラマンを減らしてくれっていうのがありましたよね。マスコミさん側からの反発がありましたが、WWE方式を取り入れようとしていた時期もありましたね。

小佐野:写真をオフィシャルで準備するのを使用してくれと、でもあれは駄目ですよね。ということは、新日本に批判的なところには写真を貸してくれない可能性が出てきますからね。

–偏った情報しか流れなくなる恐れがありますもんね。

小佐野:だから一強時代になるのはよくないんですよ。たぶん力道山時代、力道山が亡くなった後も日本プロレス一団体時代というのは、マスコミも大変だったと思いますよ。だって批判したら、「お前のところは来るな」って言われて終わっちゃうから。

–そういう意味では各団体頑張って欲しいですよね。

小佐野:やっぱりパワーバランスの問題で。今、新日本プロレスさんが好調なのはいいことなんだけど、他が頑張ってくれないとやっぱりバランスが悪い。やっぱり新日本だけ今は別格ですよね。会社としても、もう他の団体とは別物ですよね。同じ業種とは思えない、もう他の団体と比べると別の業種のようですよね。

–小佐野さんのおっしゃる通り、他の団体も力をつけてパワーバランスがもう少し均等になるといいですよね。

小佐野:やっぱり周りも手を貸して、みんなで盛り上げていかないと難しいですけどね。

⇒次ページに続く(熱血プロレスティーチャーのこれから)

③熱血プロレスティーチャーのこれから

–最後に熱血プロレスティーチャーのこれからということで、今後どのような活動をされていくご予定ですか?

小佐野:もうこの年になるので、自分の役目というものを考えますよね。ひとつ心がけていることは、こういう本を出したり、今までのキャリアがあるので、昔のことについて書いたり、取材していただくことが多いんだけど、でもそれって今のプロレスが分かってないと絶対駄目なんですよ。ただ過去のものになってしまうから。今のプロレス界の空気、常にその現場の空気を感じるために少しでも会場に足を運んで取材をすると。

–小佐野さん、僕がいつ会場に行ってもいらっしゃいますもんね。

小佐野:今のプロレスを見てなきゃ駄目ですよね。で、今のプロレスも伝えられなきゃ駄目ですよね。
昔のプロレスを見てきた人が、じゃあ今のプロレスをどう伝えるのっていうのもあるわけじゃないですか。そういう価値観を持ってきた人が今のプロレスをどう伝えるのかというのもあると思うんですよね。やっぱり時代の違いも感じるし、昔を見てるから感じるところもあるだろうし。やっぱり試合の心地いいリズムが変わってきたなとか、音楽と一緒で。だからTKが宇多田ヒカルが出てきてから分からなくなったっていうことを言ってたけど、今のケニー・オメガの試合って僕達が見てきたプロレスとは全然違うものなんですよね、リズムが。今はこういうものがプロレスになってきたんだなっていう新たな発見もありますからね。だからこそ棚橋弘至対ケニー・オメガという試合が組まれるんでしょうけど。

–小佐野さんには語り部として、今後もいろんな形でプロレス界に携わって欲しいです。

小佐野:でもだからってベテラン記者ですってドスンと構えている感じじゃなくて、いつもその現場にいたいですよね。神棚にのせられたら、悲しいことで(笑)。

–小佐野さんや三田(佐代子)さんは本当によく会場にいらっしゃるじゃないですか。そういうベテランの方が会場にいらっしゃるのを見ると、新参者の自分も嬉しいし頑張らなきゃなって思いますね。

小佐野:あとはやっぱり、「今のプロレスは」っていう話になるじゃないですか。でもそれって今のプロレスを見てないと言えないですからね。
昭和のプロレスが好きな方は、今のプロレスを批判される方もいらっしゃいますけど、僕はどちらも好きだし、今のプロレスは昔と違うというよりも進化したものだと感じるんですよね。
今の時代に合ったものなんでしょうから。あとは好きか嫌いか好みの問題ですよね。さっきの「この人に言われれば仕方ない」っていう話もそうですけど、ゴングはメジャー団体を扱うことが多かったじゃないですか。でも僕はなるべくインディーの団体も見に行ってたんですよ。「見てないから載せてないんじゃないんだよ、見てるけど載せてないだけなんだよ」って。「聞かれれば答えられるんだよ」っていうのを団体やインディーの選手に分かってて欲しかったっていうのはありますね。だから今の選手にも「見てないくせ」にって思われるのが嫌だから、なるべくいろんな試合は見るようにしてますね。

–僕もなかなか会場に足を運べていないので、尊敬しますね。

小佐野:まあでも、僕も締切が近いとなかなか行けなかったり、巡り合わせで「最近はあの団体にあんまり行けてなかったな」っていうのはどうしても出てきちゃいますけどね。

–今はいろんな団体がありますもんね。女子団体も昔より増えましたし、都内だけでも同じ日にいろんな会場で試合が行われてますよね。

小佐野:今のレスラーはプロレスに真面目で純粋ですよ。昔の人の方が純粋じゃないって言ったらあれだけど・・・、なんていうか昔の人は職業意識かな。「これで飯を食ってるんだ」って感じ、今の人は本当にプロレスが好きでプロレス道を目指しているって感じがします。だって今のプロレスラーなんて、SNSでいろんな発信もしてるし、試合だけでも大変なのによくあんないろんなことをしているなって思いますね。
取材なんかに対しても、一生懸命自分のことを話して理解してもらおうとしてるじゃないですか。昔のレスラーは、「試合見てりゃいいんだよ!ごたごた言いやがって。」みたいな人もいっぱいいたわけじゃないですか(笑)。確かにそれ言われたら、そりゃそうなんですけどね。

–でもその時代、もっとファンの時代からプロレスを愛して長年プロレス界を見てこられた方ということで、尊敬しますし、お話を伺っていても本当に楽しいです。

小佐野:感覚的には昔のいい加減な村社会のほうが好きだったんですけどね(笑)。今は体制とか本当にちゃんとしてますよね。

–天龍同盟の時期なんか大変だったんじゃないですか?

小佐野:大変でしたね。吐いて、あご外れたりとかね。まあよくやってましたよね。テリー・ファンクが言うには「この業界はタフガイしかいられない」って、本当そういう世界でしたね。選手もスタッフもマスコミも含めて。だって柴田くん(元東スポ)なんて天龍さんに蹴り入れられましたからね(笑)。

–面白いですね、そういう時代があったなんて。

小佐野:雑談みたいになっちゃいましたね。これ記事になりますか?大丈夫ですか??(笑)

–すごい色んなお話が聞けたので嬉しいです。本日は有難うございました。プロレスTODAYユーザーの皆さんにも小佐野さんの『プロレス秘史1972-1999』を是非オススメさせて頂きます。

小佐野:こちらこそ有難うございました。

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