韓国現代史最大のタブー「済州島四・三事件」を描いた映画『チスル』、その複雑な背景と「チェサ」というキーワードを読み解く

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近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題、日本へのまなざし、価値観の変化を学んでみたい。

『チスル』

悲しいことに、韓国の現代史にはいくつもの「虐殺」が刻み込まれている。これまで本コラムでも何度となく取り上げたように、そのほとんどは、日本の植民地時代が終わって新たにアメリカが介入してくる中で生まれた、南北のイデオロギー対立を発端としたものであり、権力者の欲望と暴走によって、罪なき人々が多大な犠牲を払うものであった。それらの多くは事件から長い時間を経てようやく、政府主導での真相究明が約束され、少しずつではあるが真実が明るみになっている。近年では映画の題材となることも多く、本コラムでも「光州事件」を描いた『タクシー運転手 約束は海を越えて』『26年』、「巨済島捕虜収容所の虐殺」をテーマにした『スウィング・キッズ』などを取り上げてきた。だが、それらの虐殺の中でも政府が公式に認めるまで最も時間のかかった事件が「済州島四・三事件」である。

本コラムで『焼肉ドラゴン』を紹介した際、主人公である在日コリアンの家族の出自としてこの事件にも言及したが、「済州島四・三事件」とは日本の植民地支配から解放された朝鮮半島が、新たに米ソの覇権争いに巻き込まれ、南と北、右派と左派に分断される中で、済州島の島民たちが反共を掲げる当時の米軍政や李承晩(イ・スンマン)大統領によって“アカ”と見なされ、虐殺を受けたものである。『焼肉ドラゴン』でも物語の背景として暗示される程度だったこの虐殺は、韓国現代史上最も残酷で凄惨な虐殺といわれ、光州事件と同様、長きにわたって“北朝鮮にそそのかされて起きた暴動”とされてきた。

軍事独裁政権下で中高時代を送った私も、そのように教育を受けた。民主化が進んだ90年代後半になってようやく、政府はこの事件を“暴動”ではなく“虐殺”と認めたが、それでも事件の背景の複雑さや明らかになっていない部分の多さゆえ、映画化すらいまだ困難な題材なのである。だが、それでも済州島でのこの虐殺を正面から本格的に描いた映画が存在する。それが今回取り上げる『チスル』(オ・ミョル監督、2012)だ。

済州島出身のオ監督は、これまでも主に済州島にまつわる物語を映画にしてきた。そんな彼の代表作である『チスル』は、2012年の釜山国際映画祭での4部門受賞をはじめ、サンダンス映画祭では韓国映画初となるワールドシネマ・グランプリを受賞するなど、国内外で高く評価された。作品としての完成度はもちろん、韓国現代史の深い闇をテーマに据えた勇気ある試みが注目を集め、低予算自主映画にもかかわらず14万人を超える観客を動員し、興行的にも成功を収めた。済州島での一般公開初日には、大物俳優のアン・ソンギやカン・スヨン、釜山映画祭のキム・ドンホ名誉委員長ら、そうそうたる韓国の映画人たちが一堂に会したことも大きな話題を呼んだ。

今回のコラムでは、『焼肉ドラゴン』の時にも簡単に述べた「済州島四・三事件」についてより詳細に、なぜ起こったのか、どのような事件だったのかを紹介し、映画がこの事件をどう描いたかについて見ていくことにしよう。

物語

1948年11月、米軍と韓国軍は済州島に戒厳令を敷き「海岸から5キロ以上離れた中山間地域の島民は暴徒と見なし、無条件に射殺せよ」と命令を下した。村人たちは訳もわからないまま山奥へと逃げ、洞窟に身を隠しながら時間をやり過ごしていた。持ち寄ったジャガイモを分け合ったり、飼っている豚の心配をしたりと、たわいのない会話に興じる彼らだったが、本を取りに戻った少女スンドク(カン・ヒ)や、こっそり豚の様子を確認しに向かったおじさん(ムン・ソクボム)が殺されるなど、死の影は徐々に忍び寄ってくる。やがて捕らえられた村人の一人が、命を助けてくれれば洞窟の場所を教えると裏切ったため、ついに洞窟は軍人たちに包囲されてしまう……。

実話に基づいた『チスル』だが、映画では事件の原因や推移など、客観的な歴史的事実が語られることはほとんどない。監督自身が「犠牲者に焦点を合わせたかった」と語っている通り、あくまで村人たちの目線で捉えているため、彼らが事情をのみ込めないままでいる以上、映画もまた必要以上の情報は伝えていない。だからこそ映画は、島民のほとんどが“アカ”ではないにもかかわらず、当時のゆがんだイデオロギー対立の犠牲になり、訳もわからず殺されていったという歴史の残酷さ、理不尽さを浮き彫りにしているといえよう。

ただその中でも「四・三事件」を知る韓国人であれば、己の知識と照らし合わせながら観ることができるが、日本人観客にとってはかなり難易度が高く映るに違いない。そこで以下では、「済州島四・三事件」の全体像を、大事なポイントとともにたどってみよう。

1945年8月15日以降、日本による植民地支配から解放され、自由を得た喜びもつかの間、朝鮮半島は瞬く間に北緯38度線を境に南北に分けられ、「南=米軍」「北=ソ連軍」による「軍政」が開始された。同時に、南は李承晩、北は金日成がそれぞれ米ソと結びついて基盤を固め、早くも「南/北」「右/左」の対立構造が形成されていったのである。南北問わず統一国家の建設を夢見ていた多くの朝鮮人たちはもちろん猛反発したが、実際にどのような国家を造るのかという問題においては、右派による資本主義国家、左派による共産主義国家、両者ともに一歩も譲らず膠着状態に陥ってしまう。親米反共主義者の李承晩はついに“アカとは話が通じない”と南だけの単独政府樹立を主張したため、全国各地で反対運動が巻き起こり、左右は至る所で衝突、朝鮮半島はますます混乱を極めていった。

こうした状況の中、47年3月1日に済州島で予期せぬ事故が発生する。「三・一独立運動」(この歴史的重要性については『密偵』を取り上げたコラムで紹介したので参照されたい)の記念式典終了後、群衆たちの警備・監視にあたっていた騎馬警察の馬に蹴られた子どもが大けがを負ったのだ。応急処置も取らなければ謝罪のひとつもない警察の態度に対し、激怒した群衆が投石によって抗議すると、警察は暴動が起きたと勘違いして発砲、女性や子どもを含む6人もの死者が出てしまった。この事件をきっかけに済州島民たちの米軍政に対する印象は極度に悪化していったが、米軍政もまた、警察側の対応は正当防衛だったとして責任追及はせず、逆に“暴動”の参加者の割り出しに躍起になっていた。同年3月10日、島民たちが各地でストライキに突入すると、米軍政は強硬鎮圧に乗り出した。この事件が発端となり、「済州島四・三事件」につながっていく。

強硬鎮圧の際に米軍政から派遣された警察の中に、悪名高い「西北青年会」(以下、西北)という極右団体が入り込んでいた。北出身の彼らは、解放後、共産主義思想に異を唱えたことで「反動分子」と見なされ、家族を殺されるなどして南に逃げてきたのだ。“アカ”に対する憎悪に燃える彼らは李承晩にとって格好の手先となり、先頭を切って済州島に乗り込んでストライキ主導者たちの検挙と弾圧を行った。情け容赦のない彼らの暴力は民間人たちをも巻き込み、事態は悪化の一途をたどっていった。映画に登場する兵士たちの中にも北訛りの暴力的な人物が描かれているが、映画『1987 ある闘いの真実』でアカ狩りの先頭に立つ北出身のパク所長(キム・ユンソク)が、共産主義者に対する憎しみに動機づけられていたことを思い出していただくとわかりやすいだろう。こうして48年4月3日、済州島ではついに左派を中心とする武装蜂起が起こり、右派やその家族を殺害する事件が勃発した。これが「済州島四・三事件」の始まりである。

米軍政は警察や軍、西北のメンバーを増派し、さらに強硬な弾圧を繰り広げたが、平和的な解決を求める動きがまったくなかったわけではない。同じ民族同士の殺し合いはやめようと、軍の指揮官と武装隊の隊長による平和協議が進められ、一時は血を流すことなく事態が収拾される期待が高まったのだが、結局、指揮官に反感を持っていた右派による左派への襲撃で交渉が決裂、軍の指揮官は転属させられてしまった。

一方、国連に持ち込まれていた統一政府樹立のための「南北総選挙」は、人口比例による議席配分によって北側が不利になるという理由からソ連が受け入れず、実現には至らなかった。その結果、1948年5月10日、李承晩が当初から望んでいた通りに南だけの総選挙が実施された。だが済州島では武装隊が投票所を襲撃、3カ所の投票所のうち2カ所が破壊される選挙妨害事件が起こった。当然米軍政は激怒し、このときから済州島は、はっきりと“アカの島”の烙印を押されることになる。総選挙後、韓国初の国会が構成され、そこで李承晩が初代大統領に選出、米軍政の時代は終わりを告げて、同年8月15日に韓国政府が誕生したのである。

「反共」を大々的に掲げた李承晩政権によって、済州島の武装隊討伐と島民をアカに仕立て上げての「アカ狩り」作戦は一層エスカレートしていった。海と山からなる済州島で、武装隊は山間部に隠れて活動していたことから、政府は海岸線から5キロ以上離れた中山間地域、山岳地帯を通行禁止区域に設定、区域内に入れば暴徒と見なして無条件に射殺してよいという命令を下す、「焦土作戦」を決行した。

この作戦は朝鮮戦争を経て休戦後まで続き、1957年に最後の武装隊員が逮捕されて「済州島四・三事件」はようやく終結したが、島の人口の約10%にあたる3万人近くの人々が犠牲になった。そのほとんどが武装隊とは縁のない一般島民であったことは言うまでもない。軍事独裁政権時代にはタブーとされてきたこの事件への真相究明の動きが本格化したのは、98年に金大中(キム・デジュン)が大統領になってからである。選挙公約として犠牲者や遺族の名誉回復と真相究明を掲げた金大中は、2000年に「済州4・3特別法」を成立させ、これを引き継いで03年には盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が、現役大統領として初めて国家暴力の事実を認め、犠牲者に対し正式に謝罪した。21年2月には特別法の全面改正案が国会で成立し、事件から73年を経てようやく被害者への補償の道も開かれ、事件は初めて遺族に寄り添う方向を向いたのである。

以上が「済州島四・三事件」の全体像だ。実態はさらに複雑であり、単純に善悪の分類ができない部分も多い。だが多くの島民たちは、イデオロギーとは関係なく、夜に山から下りてきた隣人にご飯を分け与えたとか、仲良くしていた知人を一晩かくまったといった近所付き合いの延長にすぎないささやかな親切によってアカの濡れ衣を着せられ、有無を言わさずに殺されてしまった。その悲劇は紛れもない真実である。済州島出身のオ・ミョル監督もまた、身近にそうした悲劇を抱えていることだろう。だが監督は、済州島の悲劇を声高に主張するのではなく、一見して静かに、あえて私的な物語としてこの映画を作り上げた。その狙いは何だったのだろうか?

映画は、漢字とハングルで記される4つの章から成り立っている。「神位(신위、シニ)」「神廟(신묘、シンミョ)」「飲福(음복、ウンボク)」「焼紙(소지、ソジ)」、日本人にはなじみのない言葉だろうが、これらはそれぞれ、先祖を祀り、死者を慰める韓国の伝統的法事「チェサ」の中の儀式を意味している。チェサで行われる儀式に沿って映画のテーマ、物語も構成されていることから読み取れるのは、この作品が“犠牲者たちの鎮魂・慰霊”を意図しているということだ。それでは最後に、監督がそれぞれの章で何を描いたのか、儀式の名称と物語の展開から見てみよう。

1.「神位」=「魂を召喚する」

チェサでは白い紙に死者の名前を書き、供え物を用意した壁に貼っておくと、魂がそこに降りてくるようになっている。映画の冒頭、冬を迎えた済州島に、まるで神位に降りてくる魂のように、村人や軍人たちが現れる。悲しい歴史が始まろうとしていることが暗示されると同時に、犠牲者の魂を召喚し、鎮魂しようとする儀式=映画の幕開けが告げられる。

2.「神廟」=「魂がとどまる場所」

神廟は先祖を祀る祠堂を示す。これは本を取りに行って軍人に捕まり、輪姦された末に殺されるスンドクによって象徴的に描かれる。殺害された彼女の裸体は、島の中山間地域に広がるなだらかな稜線とオーバーラップし、その瞬間、島全体が神廟となる。静かだが力強いそのメタファーは、映画全体の白黒の映像と相まって、水墨画のような美しさを放つ。

3.「飲福」=「魂が残した食べ物を分け合って食べる」

チェサが終わると、供え物を皆で分けて食べるのだが、映画でこれはムドンの母を通して描かれる。身重の妻を抱えるムドンは、足が悪いからといって一人家に残った母を心配し様子を見に戻ると、西北出身と思われる軍人に殺され、家ごと焼き払われていた。ムドンは母が最期に残したジャガイモを洞窟に持ち帰り、何も語らずに皆に配って食べていた。死んだ母が残したジャガイモは、飢えた村人を救う糧になる。

4.「焼紙」=「神位を焼きながら願いを訴える」

チェサの最後に行われる焼紙は、神位で名前を書いた紙を焼きながら、魂が天に向かって煙のように飛んでいくことを願う儀式である。ここに至ってやっと、監督が意図した「犠牲者の鎮魂」は無残に殺された島民だけではなく、激動の歴史の中で加害者にならざるを得なかった軍人たちの慰霊も含められていたのではないかと気づく。映画に描かれたように軍の内部には実際アカ狩りに反感を持つ者も多く、あまりにも容赦のない上官の命令に反発して逆に上官を殺すという事件も起きていた。ある意味では彼らもまた犠牲者であり、一人ひとりの死者に舞い降りる「神位」を「焼紙」していくラストシーンには、そうした監督の心の内が投影されているように思える。

本作のタイトル「チスル」とは、「ジャガイモ」を意味する済州島の方言である。「命の糧」の隠喩とも捉えられる本作で、チスルは村人同士が大事に分け合うだけでなく、軍人たちにとってもまた大事な食糧として描かれる。村人にも軍人にも死者に対しても分け隔てなく与えられるチスル(=命)には左も右もなく、人間の命はイデオロギーによって失われるべきではない――済州島出身の彼だからこそ到達できる境地が、この映画を作らせたといえるだろう。

済州島は、地理的な特徴や朝鮮とは異なる独自の文化や言語を持っている点、そして何より悲劇的な歴史の記憶を持ち、国内においても本土のスケープゴート役を押し付けられてきた点において、沖縄と似ているところがある。沖縄の言葉を用いて沖縄で映画を撮り続ける高嶺剛という映画作家がいるように、オ・ミョル監督もまた済州島を撮り続ける作家であってほしい。監督は「僕にとって済州島は物語の宝箱」だという。彼にとって唯一無二の存在である済州島を描く作品を心待ちにしたい。

崔盛旭(チェ・ソンウク)
1969年韓国生まれ。映画研究者。明治学院大学大学院で芸術学(映画専攻)博士号取得。著書に『今井正 戦時と戦後のあいだ』(クレイン)、共著に『韓国映画で学ぶ韓国社会と歴史』(キネマ旬報社)、『日本映画は生きている 第4巻 スクリーンのなかの他者』(岩波書店)など。韓国映画の魅力を、文化や社会的背景を交えながら伝える仕事に取り組んでいる。