「黒田清輝ゆえに…」俳優・片桐仁も思わず唸った、巨匠の晩年の大作とは?

TOKYO MX(地上波9ch)のアート番組「わたしの芸術劇場」(毎週土曜日 11:30~)。この番組では、多摩美術大学卒業で芸術家としても活躍する片桐仁が、美術館を“アートを体験できる劇場”と捉え、独自の視点から作品の楽しみ方を紹介します。5月15日(土)の放送では「黒田記念館」に伺いました。

◆表現者であり教育者…日本近代洋画の父・黒田清輝

東京都・台東区にある「黒田記念館」には、"日本近代洋画の父”と言われる黒田清輝の作品を約300点所蔵。また、1928(昭和3)年に竣工した建物は、国の登録有形文化財となっています。

今回、館内を案内してくれたのは東京文化財研究所 文化財情報資料部長の塩谷純さん。年に3回だけ公開されるという「特別室」には、近代日本を代表する洋画として美術や歴史の教科書に掲載され、片桐も「黒田清輝と言えば、この絵」と評する名作「湖畔」(1897年)があります。

これは日本画だと思っている人も多く、「近くに来るまで(油絵だと)わからない」と片桐も驚いていましたが、れっきとした西洋画の油絵。しかし、その淡い色調は伝統的な日本画のような雰囲気を纏っており、片桐は「日本人にとって、最も気持ちの良い油絵を模索して描いた感じがわかる」とうなずきます。

そして、西洋美術と日本美術の良さを融合させた名作を数多く残す黒田は、表現者としての顔とともに日本に西洋美術を広めた教育者、2つの顔を持ち合わせていました。

◆写実性×明るい光、フランスで新たなスタイルの構築へ

1866(慶応2)年に島津藩士の名家に生まれた黒田清輝は、5歳で叔父・黒田清綱の養子となり上京。新しい日本を担うべく受けた英才教育のなかには絵画もあったそう。そして、法律家になるために18歳でフランスに留学するも絵画への興味が勝り、フランス人画家ラファエル・コランに師事。本格的に絵画の道に進みます。

黒田記念室では、黒田がフランスで修行していた20代の頃の作品を観ることができます。

その1つ、当時彼が暮らしていたパリ郊外にある小さな村グレー=シュル=ロワン(グレー村)で描いた「野原の立木」(1890年)を前に、片桐は「フランスの風景って感じですね。油絵を練習している感じやいろいろ試している感じがする」と言います。

また、「舟」(1890年)を観ては「これも同じような田園風景。のどかで心休まる景色というか……時代的には印象派も入ってきている頃ですよね。影が明るい。でも、描き方としては昔ながらの描き方も感じる」とも。片桐の言う通り、当時は印象派が台頭。その特徴の1つが「明るい光」でした。多くの画家が印象派に影響を受けるなか、黒田は単に印象派を模倣するのではなく、コランから学んだ写実性を保ちながら明るい光との融合を目指します。

そして、黒田は農家の娘マリア・ビヨーと出会い、恋仲に。彼女がモデルとなっているのが「編物」(1890年)で、これに片桐は「人物になると熱量がグッと入る感じがしますよね」と感嘆。黒田はこの出会いを機に洋画家として名を成す大きな第一歩を踏み出します。

◆フランス留学から帰国し、日本の画壇を席巻

続いて、特別室で片桐が「これも教科書とかで見たことがある画ですね」と見入っていたのは「読書」(1891年)。25歳の黒田がマリアを描いたこの作品は、フランスで権威ある展覧会「サロン」で入選を果たした作品です。

そして、黒田は約9年間のフランス留学を終え、27歳で帰国。久々の日本でまず描いたのは「舞妓」(1893年)でした。「今では当たり前かもしれないが、油絵で着物を着た日本人を描くのはなかなか……これは面白い」と片桐も称賛するその作品は、油絵の伝統的な技法をベースに当時最先端だった印象派の明るい光を取り入れ、それでいて日本独特の文化を描くという、異なる3つの要素が渾然一体に。当時の日本の洋画壇に新風を吹き込み、一躍脚光を集めました。

その後、31歳のときに「湖畔」を発表。この作品を前に片桐は「『舞妓』よりもだいぶ落ち着いているというか、日本人を美しく描くタッチになっているというか。肌の感じなどはコラン先生から受け継いだきめ細やかさもあるが、全体的に静かな静謐な感じの作品になっていますね」と感じ入った様子。

本作で名声を得た黒田は、この後、親友の久米桂一郎らと「白馬会」を結成し、毎年独自の展覧会を開催する一方で、東京美術学校(現在の東京藝術大学)の教授に就任。そんななかでも表現者であることを忘れず、留学時代からのテーマに心血を注ぎますが、それが後に社会を揺るがす大きなスキャンダルを呼び込むことに。

◆黒田清輝の永遠のテーマ「裸体画」、そして「構想画」とは?

彼が取り組んでいたテーマは「裸体画」。そして、それがモチーフとなった作品「朝粧」(1893年)を京都で行われた博覧会に出品します。その背景には「日本人の裸体画に対する偏見を打ち破る」という意図があったものの、新聞各紙は「風俗を乱す」と猛批判。しかし、黒田は怯むことなく「日本の美術の将来にとっても裸体画が悪いということはない。悪いどころか必要なもの」と主張し、さらなる大作「智・感・情」(1899年)を発表します。

これは3人のヌードの女性が描かれた作品で、そのサイズは黒田作品のなかでは最大級。これに片桐は「輪郭を完全に縁取っていますね。輪郭なんてコラン先生は『ダメ』って言うでしょうね。背景が仏画のよう」と声を漏らします。

「湖畔」などと比べ、全く異なるオーラを放つこの作品は、黒田が長年取り組むこととなる「構想画」と呼ばれる作品です。それは複数の人物を置いて抽象的な概念を表現したもので、現在もさまざまな解釈が提示されています。そんな「智・感・情」は、1900年のパリ万博に出品され、銀賞を獲得。一時は猛批判していた新聞各紙は一転、受賞の栄誉を伝えました。

◆生涯をかけて挑んだ未完の大作

数多くの栄光を手にしてきた黒田ですが、40歳を過ぎると展覧会の審査員をはじめ、貴族院議員、帝国美術院院長などさまざまな要職・役職に就き、さらに多忙に。しかし、そんななかでも新たなる構想画に着手します。

それが「花野」(未完)で、これを観た片桐は「印象派っぽいですね。(「智・感・情」のように)描き込んでいた筋肉や背景みたいなものも徐々に境目が曖昧になってきて、画面が明るくて」と率直な印象を語ります。未完の作品ながら、「この状態で観てもいいですよね。描いていないからこその良さみたいなものが黒田清輝ゆえにある気がする」と目を輝かせます。

黒田は新たな表現を模索する表現者として、生涯かけて構想画に挑み続けましたが、長年の多忙が祟ってか、黒田は58歳という若さでこの世を去ります。しかし、彼がもたらした絵画表現や思想は、遺された名作とともに今なお高く評価され続けています。そんな日本の洋画・油絵の先生であり、尖った表現者でもあった近代洋画の父に、盛大な拍手を贈る片桐でした。

◆「片桐仁のもう1枚」は黒田清輝の「寺尾壽博士像」

ストーリーに入らなかったものからちょっと気になる1作品をチョイスする「片桐仁のもう1枚」。今回、片桐の目に留まったのは3枚の肖像画。日露戦争時代の内閣総理大臣・桂太郎を描いた「桂公肖像」(1910年)、明治時代に2度の総理大臣を務めた松方正義を描いた「松方公肖像下絵」(1915年頃)。そして、その中央にあるのは「寺尾壽博士像」(1909年)です。

これは日本の近代天文学の草わけである天文学者・寺尾壽を描いたもので、本作をチョイスした片桐は「左右と比べ思い入れがすごいというか、描き込みが全然違う」と指摘。なんでも黒田が留学前にフランス語を学んでいたのが寺尾で、人一倍思い入れがあったそう。「すごく表情が飄々としている、こういう先生だったんだろうなって」とその人柄が偲ばれる絵に感動していました。

※開館状況は、黒田記念館の公式サイトでご確認ください。

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<番組概要>
番組名:わたしの芸術劇場
放送日時:毎週土曜 11:30~11:55<TOKYO MX1>、毎週日曜 8:00~8:25<TOKYO MX2>
「エムキャス」でも同時配信
出演者:片桐仁
番組Webサイト:https://s.mxtv.jp/variety/geijutsu_gekijou/

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