【追う! マイ・カナガワ】出征前の写真、持ち主は?(下) 「生きた証し」世代超え大切に保管

鶴岡八幡宮で撮影された絵はがき。「軍隊の参拝」とある

◆同じ時代の同じ場所 別写真からは

 平和の象徴、ハトが羽ばたき、豊かな自然に囲まれた現在の鶴岡八幡宮(鎌倉市雪ノ下)。軍服に身を包んだM・Sさんは77年前、この境内でフィリピンへの出征前に、家族と写真を撮った。

 少しでも当時に思いをはせたく、鎌倉の神社仏閣に詳しい市内在住の男性に、戦時中の話を聞いた。

 鎌倉幕府とともに歴史を刻み「武士の都・鎌倉の文化の起点」とされる鶴岡八幡宮。「源頼朝の武士の精神への信仰から、戦時中の人々も八幡宮にお参りされていたのだと思います」

 男性は、日中戦争が始まった1937年に発行された「鶴岡八幡宮皇軍慰問絵はがき」を見せてくれた。境内で列をなす軍人や、大勢の参拝客による「銃後国民の祈願」の様子が伝わってくる。

 同封の説明書きには、宮司の名前で「出征将兵各位御家族の方々の日夜の御心労を深く御察し致します」「御家族の皆様、此の絵葉書は皇軍将士慰問の御通信に御用立下さるやうに御願ひ致します」とある。

 M・Sさんの写真が撮影された44年には、皇軍・皇国必勝を掲げた祈願祭が八幡宮で執り行われていた記録も残る。戦地に向かう人を思い、多くの人が参拝したのだろう。

◆「あばよ」 遺品は8行の手紙

 鎌倉市遺族会会長の石原新一さん(77)も訪ねた。石原さんの父・越後島茂さんも、M・Sさんと同じ44年、鎌倉からフィリピンに出征し、戦死したという。写真には、小さな子どもたちも写っている。父が出征した家族の思いを聞きたいと考えた。

 「戦争は悲惨だってみんな分かっている。でもそれぞれなりに、苦しみ方の感覚は違う。だから何があったのか、一生語り継がなきゃならない」

 フィリピンでは日本人が約51万8千人、フィリピン人は約110万人が死亡したとされる。陸軍に所属した茂さんは、弾薬や食糧が尽きた中で戦い続けた最激戦地の一つレイテ島のカンギポット山で亡くなった。

 石原さんが生まれて間もなく出征したため、父の記憶はない。遺骨も戻っておらず、遺品は父が送った8行の手紙だ。「皆元気で何より」と家族を思いやり、「あばよ」と結んでいた。

 97年。日本遺族会の事業で、父のいた同山を初めて訪れた。現地で読み上げた手紙には、「いまだ見ぬ父」への思いが並ぶ。「話したい事はたくさんあるよ。お父さん、もしそこにいて私を見れば、きっとお父さんの事だから心の中まですべて分かると思う」

 20代の記者は戦争を知らない世代。非戦の思いを抱き続ける石原さんの言葉で、戦禍に巻き込まれた一人一人にひとくくりにできない思いがあり、平和な社会を築かねばと痛感した。

◆返還の尊さと難しさ

 M・Sさんの遺族に写真を返したい思いで取材を進め、時代を超えた戦没者の遺品の返還の尊さと難しさも分かってきた。

 日米平和を掲げ、米兵らに戦利品として持ち帰られた日章旗などの戦没者の遺品を探し、返還に取り組む米国の非営利組織「OBONソサエティ」の担当者工藤公督さん(46)に話を聞いた。これまでに400枚以上の日章旗を遺族に返還してきたという。

 「部隊名や名前が出てこなければ、資料や記録を1行ずつ当たり手掛かりを探し、2~3年かかることもあります」

 出征の際に家族や友人らが思いを寄せ書きした日章旗は「生きた証し」だ。75年以上の時を超えた遺品の返還は簡単でない。細かい情報を積み重ね、つなぎ合わせて地道に遺族を探す。

 そうしてたどり着いて初めて、遺族の思いを知る。

 米国の退役軍人が集うクラブの壁に長年飾られていた旗が横浜の遺族の元に戻ったケースもあり、「奇跡のよう」と喜ばれた一方、保管するすべがなかったり、戦没者と遠縁だったりする環境で返還に至らないこともある。

 「一人一人思いが異なり、調べなければ分からないことがある。それでも世代を超えて遺品が戻ることで、誰か一人でも心のけじめや平穏につながれば、という思いで向き合っているんです」

◆取材班から

 M・Sさんのご家族と直接つながることは難しかった。ご家族の思いが分からないため、M・Sさんの名前もイニシャルとした。

 取材を通じ、平和の尊さや、世代を超えた遺品の保管や返還の大切さを実感した。記事に盛り込めなかったやりとりも含めて約半年に及んだ取材の間、鎌田さんの「写真を勝手に捨てることはできませんでした」との言葉が頭から離れることはなかった。

 今も写真を手元に置く鎌田さんに結果を伝えると「ご遺族の思いを考えながら、やはりしばらく大切に保管します。ずっと見つからなければおたきあげしてもらうことも考えます」と話してくれた。鎌田さんの言葉がご遺族に届くことを願っている。

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