春が近づくと思い出す 北陽・松岡監督のポケットアルバム

2007年の秋季キャンプで北陽高時代の恩師・松岡英孝さん(左)と談笑する阪神・岡田彰布監督

【越智正典 ネット裏】高校野球はいよいよ「夏」である。春夏関係者のご苦心に改めて敬献。部を預かっている各校監督も大変だったにちがいない。

2021、今年のセンバツで優勝した東海大相模高校の門馬敬治監督は優勝インタビューで、アルプススタンドで応援を続けて来た部長、応援団の生徒にも感謝を述べていた。心美しい。

門馬はセンバツへ行く1週間前に、3人ほど選手を預かっている佐倉シニアを訪れ「おかげさまで…行って来ます」。優勝して帰って来てからも佐倉シニアを訪れ「ありがとうございました」。両日ともきちんと背広にネクタイ。「ホンモノだ。“御大”(島岡吉郎)精神だ」。1963年明治大学卒、捕手、村山忠三郎が感激した。村山は佐倉シニアの主宰者だが、御大の教えどおりに球ひろいをやっているんですよ…と、いつもかげにいる。門馬と目が合った。挨拶しないと失礼になる…と、名刺交換をした。

私はセンバツが近づくといつも、旧大阪北陽高校(現関西大学北陽高校)の社会科の先生、監督、高知城東高校、近畿大学の松岡英孝のポケットアルバムを思い出している。

涙もろい男である。

81年、大阪大会の決勝戦で近大付属高校を破って、63回の夏の甲子園大会行きを決めたとき、テレビカメラを向けられると、男は泣いたらあかんと、何度も帽子をかぶり直して涙をかくそうとしていた。

松岡が北陽高校に赴任したのは60年1月末である。給料は7000円、部屋代は6000円。毎日銭湯にも行けない。

彼は学校事務局に訳を話して許可を貰い、新1年生の名簿と、受験願書に添付の写真を借り、写真を複写してポケットアルバムを作り始めた。それから登下校の電車のなかで、懸命に氏名と顔を覚えたのである。

4月、入学式。この日は練習開始の日である。松岡は校庭グラウンド(当時)に出てくる1年生に名前を呼んで「待っていたよ」「入学おめでとう」「きょうはトンボかけをやるよ。からだが丈夫になるよ。たのむよ」。みるみるうちに1年生部員の頬っぺたが赤くなった。

先年、ソフトバンク球団会長王貞治が東京高野連の指導者講習会の講師を頼まれたことがある。東京、新宿区海城高校講堂。来賓の早実のときの恩師、宮井勝成に一礼して登壇。「部長先生、監督先生、なんでもいいですから選手に声をかけて下さい。それはうれしいものです」

北陽高校はトンボかけの日本一になる。卒業するときにはトンボをつくって行く。地ならしトンボは200本を超えていた。

これも先年のことだが、2月、私は松岡英孝先生にまた教わりたくて、松山からバスで、勇退後、帰郷されている高知へ向かった。四国山脈の峠は吹雪だった。

お住いにお伺いすると、書院造りのお住いの玄関に、さざんかがひと枝。一枝だったのが、心にしみた。うすい紅色のさざんかが、はや、春を告げていた。このときもポケットアルバムを思い出していた。

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