復活おじさんの眼 第2回「取材で鈴木慶一さんと話しをした」

新宿ロフト制作一松マスク まだ新宿ロフトで売っているよ。

このサイトも月に200万ヒットを獲得できるようになった。そこで、「平野さんの「おじさんの眼」を復活させてほしい」という編集部の要求があった。それはとても嬉しいことだが、私の悲しみはやはり紙面のRooftopの存続が危ぶまれていることだ。

ロフトが40年以上発行し続けたロフトプロジェクトの機関誌Rooftopがコロナ禍のために発行を停止して長い時間が過ぎた。この40年間、機関誌を発行し続けたことにどういう意味があったのかをもう一度検証していきたいと思っているが、このコロナ禍が収束しないとどうにもならないでいる。

「今はネットの時代だし、若い人は紙面の活字なんて読まないよ」という流れの中、1ヶ月に200万円以上の赤字を抱えながら、音楽やサブカルの活字文化を守るといったRooftop編集部、そしてロフトプロジェクトという会社の意気込みはついえたのだろうか。

誰にも頼らず音楽をやってきた~鈴木慶一

おなじみ日刊ゲンダイのコラム「ロフト創業者が見たライブハウス50年」の取材で鈴木慶一さんにご登場を願った。取材時間は2時間。

高校にはあまり行かず、ギターばかり弾いていたそうだ。それで大学に行き損なったのが、今一番のコンプレックスかな。ラジオから流れるアメリカンポップス、ベンチャーズを耳で何度も聞いてコピーしまくったそうだ。楽譜も読めなかった時代だ。おかげでギター小僧の引きこもりさ。引きこもりの自分を見て、お袋がなぜかあがた森魚さんを家に連れてきた。すごく仲のいい友達になれた。

あがたさんは鈴木さんをコンサートに連れて行ってくれて、なぜかライブのバックをやらされたのが音楽生活の始まりだったとのこと。そのままはっぴーえんどのバックまでやっちゃうんだからすごいよ。

ちょっと巻き舌のボーカルは、遠藤賢司と大瀧詠一さんを真似た。大滝さんから、「おまえは変な声をしているな。日本語には聞こえない」と言われて、「大滝さんを真似したんです」と言ったら大笑いされたそう。

ムーンライダースは今年で45周年、歌手生活の50年はあまり考えていないそうで、この50年を顧みることはほとんどないのだと。ただただラッキー。将来に夢は持たない、力を入れた信念を持たない、なぜなら信念は必然的にも敗北する。それなら信念を持たないほうがダメージは少ない。70歳にしてサッカー現役選手。ヤクルト狂。バンドをやっていても生活はできないから、アグネスちゃんのバックをやって維持した時代もあった。

いやはや、いろいろ語ってくれた。

いいな、鈴木慶一。

なにごとにもテンパらない人生をやってきたのかな。私の一番好きなロックミュージック・PANTA『マラッカ』のプロデュースをやったのも鈴木慶一。『マラッカ』のファンとしては頭が下がります。ありがとうございました。

平野悠:

「ライブハウスロフトグループ」席亭、ロフト創始者

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