欧州「DV防止」条約に逆風、日本も無関係でない?

保守派がLGBT条項に反発

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「女性への暴力およびDV防止条約」脱退検討に抗議するデモに参加する女性たち=2020年8月5日、トルコ・イスタンブール(共同)

 欧州評議会の「女性への暴力およびドメスティックバイオレンス(DV)防止条約」が逆風にさらされている。条約はジェンダーに基づく暴力や差別の撤廃を目指すとともに、LGBTなど性的少数者の権利を守る条項を含んでいる。この進歩性に各国の保守派が反発を強めているためだ。推進派は時代に逆行する流れだとして危機感を募らせる。日本にとっても無関係な話ではない。条約への賛成派、反対派の双方の意見を聞いた。(共同通信=橋本新治)

 ▽女性保護の国際基準

 条約は女性保護の「ゴールドスタンダード」と評される。女性に対する暴力の防止や被害者の保護、加害者の訴追に向けた国際基準とみなされてきた。例えば、同意のない性行為を犯罪と規定しており、日本でも刑法の性犯罪規定改正議論の中で注目された。

 2011年5月、トルコ・イスタンブールで最初の署名式が開かれたことから「イスタンブール条約」と称される。今年は署名開始から10年となる節目の年だった。だがトルコは3月下旬に条約脱退を表明、7月1日に正式離脱した。欧米に衝撃が走ったが、脱退を示唆する動きは東欧、中欧で既に広がっていた。

 条約に署名していたブルガリアでは18年に憲法裁判所が違憲判断を示した。19~20年にスロバキア議会、ハンガリー議会がそれぞれ批准を拒否した。批准まで済ませていたポーランドは脱退を検討し、イスタンブール条約に代わる条約の制定に意欲を見せている。

 ▽危険なイデオロギー?

 イスタンブール条約の大半は女性保護の具体策で占められている。各国の保守派が問題視するのはそこではなく、性の多様性を認めている点だ。

 第4条は被害者の権利を保護する際に人種や宗教、皮膚の色、言語に加え「性的指向や性自認」を理由とする差別を禁止している。「女性」を守るだけでなく、同性愛や、心と体の性が異なる人らも保護の対象とした。

 前文では、「男らしさ」「女らしさ」といった社会が作り上げる性差(ジェンダー)に基づく暴力に女性がさらされる恐れは、男性よりも大きいと指摘する。その上で第6条でジェンダーの視点を強調し、差別解消の政策を進めるよう求めている。

 反対派はこうした点が「危険なイデオロギー」だと非難し、伝統的な価値観や家族観、男女の役割を破壊すると主張する。専門家によると、条約の起草段階でこれらの条文に反対する国はなかった。欧州評議会加盟国の大半が署名開始後、早い段階で署名を済ませていたが、この10年の間に各国で保守派が台頭、反発の声が増してきている。

 ▽価値観を押しつけられた

 トルコが脱退を決めた理由は「条約が同性愛を標準化しようと試みる人々に乗っ取られた」(大統領府の声明)からだった。保守系トルコ紙サバハの女性コラムニスト、ヒラル・カプラン氏は「最初は素晴らしい条約だと思い、署名時は賛成していたが、次第に問題が見えてきた。フェミニズムや同性愛擁護に偏っている。トルコの家族構造と条約には折り合えない差異がある」と話す。

ヒラル・カプラン氏

 カプラン氏によると、仮に3歳の息子が「女の子になりたい」と言った場合、条約に基づけば母親はサポートしなければならない。そういう気持ちをやめさせようとすると、これが暴力と見なされる。カプラン氏は「1人の母親としてぞっとする。私たちに家族の価値観を押しつけようとしている」と非難する。

 トルコはイスラム教の国だから反対しているという見方もあるが、ポーランドはカトリックが大半でカトリック教会が大きな影響力を持つ。カプラン氏は「イスラム教徒であることと条約反対は関係ない」と強調する。

 トルコで同性愛は法律上の罪ではないものの、政府の保守化とともに風当たりは強まっている。宗教庁長官がイスラム教の金曜礼拝で「同性愛は病気をもたらす」と説教しても政府内で擁護され、抗議した弁護士会が検察の捜査対象になった。毎年イスタンブールで開催されていたイスラム圏最大規模のLGBTパレードは10年代半ばに禁止されたままだ。

 ▽条文に自分たちの存在を感じられる

 トルコのLGBT支援組織「KAOS GL」の弁護士ケレム・ディクメン氏は「性的少数者にとって重要な条約だ。性的指向や性自認に言及する条文を読むと、自分たちの存在を感じることができる」と条約の果たす役割を評価する。「長く人権活動にかかわってきたが今は最悪だ。性的少数者が心理的に追い詰められ、存在を無視されている危険な状況だ。警察や公務員は『政府が撤回した条約だ。なぜ性的少数者を守る必要があるのだ』と考えるだろう」と警鐘を鳴らす。

ケレム・ディクメン氏

 日本にとっても遠い話ではない。自民党は先の通常国会で、性的少数者への理解増進を図る法案の提出を見送った。事前の与野党協議では「性的指向や性自認を理由とする差別は許されない」と明記することに合意していたが、自民党内の一部保守派が強く異論を唱えたためだった。法案は東京五輪・パラリンピックを控え、いかなる種類の差別も禁止する「五輪憲章」に対応した国であることを示す機会となるはずだった。

 ▽「日本も批准を」

 イスタンブール条約の目的は女性保護だ。なぜ性的指向や性自認に言及する必要があったのか。条約の起草にかかわり、条約が設置する専門家委員会の初代委員長を務めたフェリデ・アジャル氏を訪ねると、答えは明快だった。「条約が大切にしているのは差別反対だ。性的指向や性自認も明記し、これらを理由に差別してはならない、暴力を行使してはならない、と強調した。特別な意味はなく、差別すべきではないと言っているだけだ」

 人権を守る条約には人種差別撤廃条約(1965年採択)や女性差別撤廃条約(79年採択)といった条約があるが、人権の概念は時代とともに発展を遂げてきたという。アジャル氏は「性的指向や性自認という言葉が法的拘束力を持つ条約に盛り込まれたのは初めてだった。起草段階で『行き過ぎだ』という国はなかった」と振り返る。

トルコ・アンカラでインタビューに応じるフェリデ・アジャル氏(共同)

 イスタンブール条約の署名開始から10年が経過した。女性保護は進歩したのかどうかと問うと、前向きな答えが返ってきた。「この10年にかかわらず進歩している。小さな歩みだが前向きに変化している。世界で保守派が台頭し、変化の速度はかなり落ちているが、逆戻りするとは思わない」

 日本は欧州評議会の加盟国ではないが、未加盟国もイスタンブール条約を批准できる。現在カザフスタンやチュニジアが批准を目指しているという。アジャル氏は「日本は世界で重要な役割を持つ社会だ。アジアに前向きな視点をもたらすことができる。日本の批准を願っている」と期待感を示した。