【加藤伸一連載コラム】30歳を迎えた投手が40人枠から漏れたら…初めての戦力外通告

王監督の就任で球界は盛り上がったが…。左は前監督の根本専務

【加藤伸一連載コラム】30歳を迎えた投手が40人枠から漏れたら…初めての戦力外通告

【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(32)】ダイエーの監督として王貞治さんが球界復帰した1995年は、地元福岡だけでなく、日本中が巨人・長嶋茂雄監督とのON対決の早期実現に胸を躍らせていました。前年に右肩手術からの復活を遂げた僕は、もちろん原動力の一人となるつもりでした。

最初に歯車が狂ったのはオーストラリアのゴールドコーストで行われたキャンプでのこと。僕は他の投手らと前乗りしていたのですが、風邪をこじらせて初日に宿舎で静養。いきなりマイナスからのスタートとなってしまいました。

南半球の当地は2月が真夏。気温は連日30度を超え、十分な室内練習施設もないのに1週間近く雨が降り続けるという最悪の状況で練習もままならず、右肩の違和感もあって2次キャンプ地の高知への移動とともに二軍での調整を命じられてしまいました。

92年から96年まで採用されていた「40人枠」の制度も僕の足を引っ張りました。支配下登録70人が一軍40人と二軍30人に振り分けられ、40人枠に入らなければベンチ入り28人にも入れないという“悪法”です。開幕時に枠から漏れた僕は入れ替えにかけて二軍戦で調整登板を続けましたが、結論から先に言うと7月28日の最終リミットでも声はかかりませんでした。

30歳を迎えた投手が40人枠から漏れたらどうなるか? 10年以上、この世界にいたら想像はつきます。期限前の7月17日に第2子となる長男が生まれていたこともあり、僕は転職も視野に入れました。実際に大阪の知人を頼ってアパレル業界で仕事をする準備も進め、問屋回りまでしていたほどです。

球団に呼び出されて戦力外通告を受けたのは10月5日のこと。球団幹部に「ご苦労さん、戦力外だ」と言われ、僕からは「お世話になりました。現役を続けたいと思うので、自分でチームを探します」。5分ほどのあっけないものでした。

鳥取県倉吉市からプロ野球の世界に飛び込んで南海、ダイエーとホークス一筋。これといったツテがあるわけでもなく、現役を続けるか、アパレル業界で再出発するか、大いに悩みました。

そんな矢先に、運命を変える1本の電話がかかってきたのです。声の主はホークスの先輩で、オフに自主トレも一緒にしていた井上祐二さん。94年のシーズン中にトレードで広島に移籍されていました。「おい伸一、三村さんがお前のこと欲しいって言うとるんや。1回、来てくれるか」。捨てる神あれば拾う神あり――。一筋の光が見えた瞬間でもありました。

☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。

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