女たちはなぜナチスに加担したのか 監視、殴り、むち打つ…残虐行為に駆り立てたもの

収容者の作業を監視するラーフェンスブリュック強制収容所の女性看守(右端)=1941年ごろ、ドイツ東部フュルステンベルク(ⓒMahn― und Gedenkstaette Ravensbrueck提供・共同)

 あの新入りの女性看守はいつ、人を殴り始めるだろう?。囚人服の女性収容者たちが賭けをしていた。新人は折り目正しい20代。だが、長くても数カ月あれば十分だ。これまで新人の女性看守は皆、暴力をものともしない無慈悲な人間に変貌したのだから―。

 第2次大戦中、残虐行為が日常化したナチス・ドイツの強制収容所では、3千人以上の女性看守がいた。女性収容者を監視し、時には自らの手で死に追いやった。何が彼女たちを駆り立てたのか。それを知ろうと、ナチス最大の女性収容所だったドイツ東部のラーフェンスブリュック強制収容所跡を訪れた。(共同通信=森岡隆)

ラーフェンスブリュック強制収容所跡に残る壁。左奥の煙突のある建物が遺体焼却施設。この隣にガス室があった=2021年5月、ドイツ東部フュルステンベルク(共同)

 ▽湖畔の壁

 木々に覆われた湖畔に穏やかな光が注ぐ。湖越しには人口約6千の町フュルステンベルクの教会の塔と家並みが迫ってくる。町は首都ベルリンの北約80キロ、ローカル線で約1時間の距離だ。

 

 湖を背にして陸地側に目をやると、高いれんがの壁が眼前にそびえ、壁の上には有刺鉄線が見える。そばには煙突を備えた遺体焼却施設が残り、その隣にはかつてガス室が置かれていた。

湖畔に設けられたラーフェンスブリュック強制収容所跡。画面中央から右に見えるのが壁。左の木の背後に遺体焼却炉を収めた建物がある=2020年9月、ドイツ東部フュルステンベルク(共同)

 1939年から45年に存在したラーフェンスブリュック強制収容所。軍需工場などで強制労働に就く12万人を超す女性や子供たちが欧州各国から送られ、約2万8千人が飢えや病気、あるいはガス室に送られ命を落とした。収容されたのはドイツへの抵抗運動メンバーや共産主義者、売春婦、ユダヤ人などさまざまな人々で、ドイツ人女性もいた。

ラーフェンスブリュック強制収容所跡に残る遺体焼却炉=2020年9月、ドイツ東部フュルステンベルク(共同)

 ▽好待遇の職場

 ラーフェンスブリュックは同時に女性看守の訓練施設でもあった。全国の新聞には「軍事施設での勤務」と書かれた求人広告が掲載され、口コミを通じても多くの女性が集まって来た。所長ら収容所幹部はナチス親衛隊の男性将校が務め、女性看守は3カ月、大戦末期は2週間の訓練を経て、親衛隊の軍属としてアウシュビッツなど各地の強制収容所で女性収容者の前に立った。

ラーフェンスブリュック強制収容所を視察するナチス親衛隊長官ヒムラー(中央)を迎える女性看守=1941年、ドイツ東部フュルステンベルク(ⓒMahn― und Gedenkstaette Ravensbrueck提供・共同)

 応募者の平均年齢は25歳。義務教育を終えて社会に出た人が多く、刑務所職員やホテル従業員など職歴は多彩だった。給与は一般の工場勤務の2倍で、衣服も支給。収容所脇には快適な宿舎が用意され、子供連れの女性用に託児所も完備していた。小学生の子供たちは宿舎で母親と暮らし、地域の学校に通った。

ラーフェンスブリュック強制収容所のバラック群。第2次大戦後、多くが取り壊された=1940年ごろ、ドイツ東部フュルステンベルク(ⓒMahn― und Gedenkstaette Ravensbrueck提供・共同)

 「女性たちには高給で、工場の流れ作業より魅力的な仕事に映った」。新型コロナウイルスの流行下、ザビーネ・アーレントさん(52)がマスク越しに話す。収容所跡を公開するラーフェンスブリュック記念館の研究員だ。応募者の一部はラーフェンスブリュックで何が行われているかを知って勤務を断ったが、大多数はとどまったという。

ラーフェンスブリュック強制収容所跡の女性看守の元宿舎で、展示について説明するアーレント研究員。パネル写真の2人は私服姿の女性看守=2021年5月、ドイツ東部フュルステンベルク(共同)

 ▽死のすぐそばで

 だが、新人が足を踏み入れた先には無慈悲な世界が広がっていた。先輩看守は無抵抗の女性収容者を警棒で殴り、大型の警備犬をけしかける。収容者への暴力は規定で禁じられていたが、違反しても責任を問われることはなかった。

 新人看守は人々が日常的に虐待される環境に身を置き、「収容者は国家に敵対する女たちだ」と教え込まれた。看守の多くはナチス党員でなかったが、暴力とナチスの思想を受け入れた。戦争の進展とともに収容所網は拡大。さらに多くの女性看守が求められ、ラーフェンスブリュックで訓練を終えた女性たちが各地の収容所に配属されていった。

犬を連れて雪道を歩く女性看守=1940年ごろ(ⓒMahn― und Gedenkstaette Ravensbrueck提供・共同)

 アウシュビッツなどでは女性看守がガス室行きとなる大人や子供の選別に加わった。ラーフェンスブリュックでも大戦末期の45年1月からガス室が稼働し、女性看守がそこへ送られる人々に同行した。人体実験を行った親衛隊の医師の下に女性収容者を連れて行くのも看守の役目だった。

 「警棒で毎日誰かが殴られ、意識を失うまで収容者をむち打った女性看守もいた。喜々として痛めつけているようだった」。18歳から20歳までをアウシュビッツとラーフェンスブリュックで過ごしたドイツ在住のユダヤ人女性エスター・ベジャラーノさん(96)は当時の恐ろしい体験を記者に語った。

 ▽訓練所の落日

 大戦末期にはドイツ軍の敗退に伴って各地の収容所が次々と閉鎖された。ラーフェンスブリュックにも45年に多数の収容者が移送され、大量殺害が続いた。4月には敵のソ連軍接近を受け、残っていた2万人以上が徒歩での移動に駆り出された。落後者は射殺される「死の行進」だった。

 ソ連軍がラーフェンスブリュックに入ったのは同30日。親衛隊員や女性看守は立ち去った後で、2千人の病気の収容者が置き去りにされていた。ドイツは約1週間後に降伏。親衛隊は女性看守や収容者に関する大量の文書を廃棄していた。

ラーフェンスブリュック強制収容所跡で展示される女性看守や収容所の民間職員らの写真。司法手続きを受けるため、米軍の管理下に置かれた。戦後の1947年ごろ撮影=2021年5月、ドイツ北部フュルステンベルク(共同)

 ▽同化圧力

 戦後、特に残虐さで知られた女性看守が連合国の法廷で死刑や長期刑の判決を受けた。収容者を殴ったある看守は「人々は反抗的で、自分は秩序を保たなければならなかった」と弁明した。だが、看守の大多数は罪を問われずに過去を捨て、妻や母として社会に溶け込んだ。

 ラーフェンスブリュックで養成された3300人を超す女性看守の一人一人が戦中を、そして戦後をどう生きたのか、多くが不明だ。今はごく少数の元看守が生存するだけとみられる。

ラーフェンスブリュック強制収容所跡の女性看守の元宿舎前で、当時の状況を説明するアーレント研究員。右奥の建物はかつて収容所の管理棟だった=2021年5月、ドイツ東部フュルステンベルク(共同)

 アーレントさんは周囲への同化を求める集団の圧力が女性たちを変えたと考えている。「彼女たちは本来残酷でなく、ありふれた女性だった。だが、なぜ彼女たちは残虐行為に加担し、(社会の)他の人は加わらなかったのか。人はどういう状況下で暴力に走るのか。普通の人々が引き起こした収容所での歴史を繰り返さないためにも、真相を明らかにしたい」

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