「なんと申しましょうか」みんな惹き付けられた小西得郎の粋な名調子

小西得郎

【越智正典 ネット裏】「なんと申しましょうか」の小西得郎さん(1971年殿堂入り)が、志村正順NHKアナウンサー(2005年殿堂入り)と、初めてコンビを組んだのは、秋に日米野球でニューヨーク・ヤンキースが来日することになる55年4月24日、後楽園球場での巨人中日ダブルヘッダー。5回戦、巨人中尾碩志7対8中日空谷泰、6回戦、巨人大友工5対1中日中山俊丈である(尾嶋義之著『志村正順のラジオデイズ』洋泉社)。

志村さんの実況を小西さんが受け止める。

「なんと申しましょうか」。間があっておトボケの味もある。これだけでみんなホッとして惹き付けられて行った。
その日、東京杉並区永福町の小西さんのお住まいにおじゃますると、さあーどうぞ、どうぞ…と奥に通して下さった。居間に大きな録音機。

当時、後楽園球場の放送席はたしかまだネット裏指定席のいちばん前の席から一段下がったところで、夏は日よけのよしず。氷屋さんの店先のようだった。戦争に負けた戦後そのものの姿のようであったが、小西さんの解説は風流でもあった。

小西さんのお住いの近くには「アンパン買おうか」が得意のセリフの「神主一刀流」豪傑打者、岩本義行さん(81年殿堂入り)のお住まい。この「アンパン買おうか」は、よく来たね、取材ご苦労さんというかわりである。文部大臣顕彰式典の当日、六本木の全日空ホテルへ取材に行ったときも「アンパン買おうか」。往時の大打者はテレ屋で、口下手である。プロ野球初代三冠王中島治康さん(63年殿堂入り)は、うれしいときに「バ、バキャーロ」。ありがとうというときも、かわりに「バッキャーロ」。

鈴木竜二セ・リーグ会長のお住まいも小西さんちと同じ杉並区永福町。鈴木会長は自宅に預かっていた公式記録員、河野祥一郎(西条高校、芝浦工大建築科)を大事な使いに出し、帰ってくると、玄関に飾ってあった花はなんだったか、必ず訊いた。会長自身が訪問するときのデータにした。国民新聞社会部長。初代「大東京」代表。大東京の本拠地球場は海抜0メートル、満潮になると試合が出来なくなる、あの洲崎球場である。まぎれもなく、今日のプロ野球の隆盛をもたらした一人である(82年殿堂入り)。

小西さんが録音機を三味線のようにトンと叩いて「ラジオを聴いて下さるお客さんが、この小西という男はひょっとするとうちの村の出なのではなかろうか、と思って頂けるような放送をするにはどうしたらいいでしょうか、と京都大学の先生に相談したんですよ。すると鳥取の方言、アクセント、イントネーションを研究したらどうですか、と教えて頂きましてね」

解説は「とにあれ」わかりやすかった。59年、杉浦忠(挙母高校、立教大学、95年殿堂入り)が南海ホークスで投げ出すと「杉浦君のカーブは都電が人形町の角をキュキュと曲がって行くようです」。粋な町人形町が出てくる。

「わたしに、もし息子を授けて頂けるのでしたら杉浦君のような男の子を授かりたいものです」 =敬称略=

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