抗がん剤乗り越えたのに彼との別れ・・・かけられたショックな言葉 両側乳がんになりました96 

いつもお読みいただきありがとうございます。

今回はAYA世代(40歳未満)の患者さん、Wさんのお話です。 現在35歳、小学校の教員をされています。3年前、32歳の時に右の乳がんと診断を受けました。

さらにさかのぼること、乳がんと診断される1年半前。 以前住んでいた関西で受けた検診で初めて要精密検査と言われたところからお話が始まりました。

大丈夫です・・・大丈夫じゃなかった。

乳がんと診断される前の1年半前の精密検査。 マンモグラフィでは高濃度乳房で判断がつかず、たぶん大丈夫です。と今後も検診してね、と言われたそうです。

それから1年、地元で働き始めてから受けた健康診断でまた要精密検査との通知。病院でエコーで何かあるね、となったことから、MRI検査を受けました。このときはがんの可能性は低いと経過観察となりました。

その半年後・・・ 冬になっても変わらないしこり。3月に細胞診を受け、小葉がん、と診断を受けました。

Wさん『乳管がんのようなシコリではなくて、いっぱいある感じ。10センチ×8センチ。ビー玉じゃなくて、ゴムベラのような形でした。』

全摘の手術を先行、病理検査の結果、ホルモン陽性、HER2陰性。 抗がん剤6か月のあと、放射線を受けました。

『いわゆるがん家系なので自分もいつかなるんだろうなと思っていた。26歳から2年に一回調べていた。子宮頸がん検診も人間ドックもやっていた。』

診断されたときはどう思ったのでしょうか。

『半年、もやもやが続いていたので・・・あ、やっと診断がついた。その後がんで死ぬのかも、とゾっとしたんだけど。知人が治療して寛かいしている様子を見ていたことからなんとか切り替えられた。』

告知で落ち込んだのは一瞬だったもののそのあとの方が深く落ち込んだと話します。

『何よりも6か月の抗がん剤がきつかった。全摘は悪いものをとってくれるなと耐えられたけれど抗がん剤は予想超えて悪いんだろうなというイメージ。』

自宅から病院までが一時間、病院の駐車場に入るのにさらに40分。親御さんの車で抗がん剤の期間中は送り迎えがあるけれど、副作用のタイミングがわからず、吐き気止めは効いていたのに、くねくねの道だったので酔ったことも。

救いは校長先生の細やかなメール

診断が下りたのは春休みでした。新しい学年の担任も決まっていました。

『校長先生は肯定的にみてくださって、どんな治療でも復帰を前提として話を進めてくれたので4月を迎えられました。新学期を超えて手術が5月。5月いっぱいは休んで復活しようかとは思いましたが難しく、抗がん剤から放射線が終わる3月まで休むことになりました。』

『抗がん剤中も副作用がないときは書類を提出したりする作業をしに学校に行っていました。校長先生が自分が引きこもっているのも知っていて、気分転換に来たら、と。社会とつながる場所があってよかったなあと。』

50代の男性の校長先生でした。 普段の会話でいついつ抗がん剤で、その後3日シンドくてと最初のころにメールを書いていたそうです。 いつしか、【そろそろ、落ち着いたころでしょうか】とその日付を目がけたメールが届くようになったそうです。これはなかなかできないことですが、校長先生がとられた行動はとても大切なことと思います。

『当時は、あの管理職、校長先生だから抗がん剤治療の中でも成り立ったのではないかと思います。今の方はどう思っているのかはわからない、知りたいです。』

人によって違うのは仕方ないこと。前にも書いたことがありますが、あえて触れてこないのが一番多い対応なのかもしれません。

家族のはなし。

『告知は母と一緒、家族にはLINEで伝えました。親戚ががんで亡くなった父はドキドキしていたようですが、心配とは出さなかったです。』

職場には伝えていたので周囲にも公表したほうが楽かと思っていたそうですが、ご両親は”田舎なので人に言うのは待ってほしい”と言われたそうです。

『母に、”がんというのが恥ずかしいの?”と聞いたらみんなにこの食べものいいわよ、食生活きちんとしなさい、などと色々いわれるのがパニックになる。あおられる気分になる、ドキドキしちゃうと。』

家族も第2の患者、難しい問題、です。 一方で地元の友達4人にはがんであることを伝えました。

『抗がん剤が終わったころには元気になってよかったね、と。だからもうがんの話はいいよ、という雰囲気になって、それ以来、話していない。』

がんの話は病を持つ同世代の子たちとしか話をしないと決めたそうです。 聞いてくれるタイプの方、聞いてしまうとドキドキしてしまう方、聞くのがはばかられて話題をそらす方、何気なく聞き流してくれる方、本当に人それぞれ。友人にどう話せばいいか、と悩む方が多いのがわかります。

『気持ちが悪くなる』と彼に言われた

つらかったのはパートナーとの関係と見た目の変化。

『私にとって、髪が抜けることが予想以上につらくて髪がものすごい抜ける、コロコロをしているときがむなしくて片胸ないし、まるでアンドロイド。体もうまく動かず、サイボーグにさえ思えてなさけなかった。』

『女性としての魅力がないと感じてないよね?と何度もパートナーに言うことで自分自身も精神的に落ちていって・・・。 パートナーは診断されたときは支えるといってくれて、私よりも泣いていた。抗がん剤の最初のほうはそうでもなかったけれど、しんどい、魅力ない、とネガティブな言葉ばかり言ってしまうのでもっと明るい話をしなよ、とよく言われた。そんな暗い私が自分自身でもどんどんいやになって。』

すると、夜に彼と連絡が取れない日が増えてきました。 パートナーが浮気しているのかもと思い込み、そう思う自分をますます嫌になっていました。 抗がん剤が終わった後の初の外食。うれしいはずのその帰りに一つ目の事件が起きました。

パートナーからの一言でした。

『”うんざりなんだ!一緒にいても楽しくない!”と叫ばれたのです。 その後しばらくして音信不通になりました。連絡はいつしか一か月に一回になり、結局、去年お別れしました。』

がんと診断される前に結婚の話をしていたこともあり、実は抗がん剤前にパートナーとの受精卵の凍結をしていました。

相手は自然消滅を狙っていた・・・

『女性としての見た目の変化がきつくて、唯一、彼と会うときが女性としてのプライドを取り戻せる瞬間でした。 だから彼の前で明るくいるために、笑顔を心がけたり、明るい映画みたりしたけれどまったく気分が上がらず、苦しかったです。』

『最終的にお別れするまでも、徐々に音信不通になっていくのも、もやもや。抗がん剤終了からさらに半年後、別れた方がいいといわれたときも原因や改善点を聞いても答えない。彼的にはこのとき支えてあげられないといったので別れた気分になっていたようなのです。』

『その後、いつのまにか別の人と付き合っていて・・・受精卵凍結もしていたので物事には分別つけねばならないのでパートナーとの話し合いの場を設けると、ちゃんと別れ話を言えなかったのは会いたくなかった。 はっきりいって申し訳ないけど、会うと気持ち悪くなるから、と。』

『胸がないというのが耐えられない、女性として見れない、というのです。』

『凍結している受精卵の画像写真は、それを見ると治療がつらくても頑張ろうと思えた。その経験があるから、受精卵はいのちにしか見えない。でも廃棄しなくてはいけない。申し訳ない。』

なんと表現したらよいのかわからないほど、衝撃的な経験。記憶をたどり、次の誰かのためにとこのお話をしてくださったことに感謝しかありません。

Wさん、放射線の副作用で放射線肺炎にもかかっていました。 がんの治療が終わった燃え尽き、さらにパートナーとの別れ。 食事ものどが通らず、つらい日々が続きました。 仕事があったから無理にでも外に出る必要があったから、壊れそうな心をなんとか持ちこたえることができました。

『”患者の周りの人も第二の患者”と言われるように、私の知らないところで彼なりに苦しんだ部分があるのだとはずっと思っています。もちろん言われた言葉で傷ついたことに変わりはありませんが。 しかし「病気になった私が悪かった」とも言えません。患者だけでなく周りの人にもケアが必要なんだと思いました。』

私が同じ立場ならどう答え、どう先へ進むのか・・・。傷つきながらもきちんと相手のことを思って言葉を紡ぐWさん。患者以外へのココロのケアや知識の共有も重要な課題だと思います。

今、やりたいことは?

『自分が話せたり、その話を聞ける場所、AYA世代のリモートでのお話会。 がん教育などもしたいです。 がんになって、ヘルプマークをつけていたのですが まったく席譲ってもらえたこともないし。人間をフラットにみるというか、弱みも強みもあるし、人間の見方をちゃんと考えてもらう機会を作りたいなと、小学校の教員なので。

現場にいるからわかるけれど生のサバイバーの声を聞かせるのとがんのこと知らない人が教えるのは違うと思う。キャンサーサバイバーの声を届けてほしいと思います。』

がん教育の問題も引き続き考えていきたいと思います。

今回もココロをどう保つかが話題になりました。7月8日(木)午後7時からはHTB北海道ニュース公式YouTubeで斗南病院の精神科・上村恵一先生(精神科専門医・指導医 日本サイコオンコロジー学会 登録精神腫瘍医)に『がん患者とココロ』ということでお話いただく予定です。

生きるためのヒントになればと思います。

(文:阿久津友紀 乳がん患者)

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