緑が丘駅に行って高輪築堤を思い出した

 

緑が丘駅に到着する大井町行き電車

 【汐留鉄道俱楽部】東急大井町線に緑が丘駅という、地味で小さな駅がある。わたしが1964年から70年までの小学校時代に利用した思い出深い駅だ。子どもの目でも風格ある立派な造りの駅だった。「渋谷まで大人2枚、子ども2枚」。はっきり覚えているのは家族を代表して窓口で硬券4枚を購入、3人に配布して自由が丘駅経由渋谷駅まで親子で行ったこと。緑色の電車がゴロゴロとモーターをうならせて入線していたこと。たまに来るステンレスカーに乗るとモーターが段階的に高音となり得した気分になったことなど。大岡山、自由が丘、田園調布の横綱級3駅に囲まれた狭い東急三角地帯にある小駅。ホームの端は板張りだったような気がする。

 その緑が丘駅に進入する7000系ステンレスカーのあまりに古ぼけた写真をずっと持ち続けている。大阪万博より前、68年前後に撮ったのではないか。なぜ持っているのか不明だが、ステンレス車一筋の東急スピリットを象徴する一枚。ずっと引き出しの奥に保管されていた。

 

50年前、緑が丘駅の同一地点でのステンレスカー

 半世紀以上前のあまりに古い写真を見て、ふと全く同じ位置で50年後の今の電車を撮ることができるだろうか、と思い立ち、自宅からはるばる緑が丘駅ホームに立った。対面式ホームの造りは変わってなく、すぐに〝定点〟は分かった。自由が丘駅方面から来た最新型電車を撮ることは容易だった。この瞬間だけ半世紀前の半ズボン姿の小学生の自分に戻った。コロナ禍で遠出ができないとはいえ、なんともみみっちい小旅。だが満足感に浸った。 

 帰宅後、〝50年前の定点〟で思い出したことがある。五輪に押され最近は話題にならないが、昨年JR東日本の再開発事業中の高輪ゲートウェイ駅周辺で発掘された「高輪築堤」のことだ。緑が丘駅の50年ぶりの電車の再会とは規模も価値も比較にならない150年後の大発見だった。錦絵の通りだ!と驚いた。1872年に日本で初めて開通した鉄道の当時の盛り土や石垣が同じ位置で長い眠りから覚めて出土したことはとてつもなく素晴らしいニュースだった。

 ちょうど見つかったころにこのコラムにも書いたが、移築も壊すこともなく全面的に保存し、だれもが将来にわたって見ることができればどれだけいいことか、と念願した。だがそんな夢がかなうはずはない。各界からも全面保存の声は上がったものの、一部が現地保存されたり移築されたりしてほかは調査後に取り壊すことで落ち着きそうだ。事業を進める側としてはやむを得ない判断なのだろう。 

 土を掘り起こす再開発事業と土中から発見された価値ある遺構の保存の両立は難しい。ただ、遺構は壊したら二度と元には戻らない。工事が完成する前、せめて築堤が顔を出している今、全貌を見渡せる見学会のような機会を設けてもらえないだろうか。発掘後に1回だけちょっとした見学募集があったが、わたしは抽選に外れた。国民的財産である〝浅瀬の鉄道〟の開通当時の姿を街が完成してしまう前に目に焼き付けておきたい、と願う人は多いのではないか。 

☆共同通信・植村昌則(うえむら・まさのり)

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