天皇陛下は側近に「拝察」させたのか? 皇室記者が衝撃を受けた「らしからぬ行動」

2月、61歳の誕生日を前に記者会見される天皇陛下=赤坂御所(代表撮影)

 普段、あまり聞き慣れない「拝察」という言葉が、各方面に波紋を広げた。拝察とは、人の心中などを推測するへりくだった言い方。6月24日、宮内庁の西村泰彦長官が定例記者会見で「天皇陛下は新型コロナウイルスの感染状況を大変心配されている。オリンピック、パラリンピックの開催が、感染拡大につながらないか、ご心配であると拝察している」と発言したのだ。皇太子時代から15年間、陛下を見続けてきた記者として、まず衝撃を受けたのは、「側近に拝察させる」という、その「陛下らしからぬ行動」だった。長官発言の向こう側に垣間見える「陛下の真意」とは―。(共同通信=大木賢一)

 ▽政府受け止めは「個人的見解」

 西村長官の発言は記者会見後、すぐさま永田町にも伝わり、政権幹部は記者団に受け止め方を聞かれた。菅義偉首相は「長官本人の見解を述べたと理解している」、加藤勝信官房長官は「宮内庁長官自身の考え方を述べられたと承知している」と短くコメントし、あくまで「長官の個人的な推察」に過ぎないと強調。陛下自身の意思であるとの見方を否定した。

宮内庁の西村泰彦長官

 しかし、宮内庁長官が自分の一存で勝手に陛下の思いを語ることは常識的にあり得ない。合意の上で「お気持ち」の発露を実現させたことは疑う余地がない。慎重で遠慮深い陛下が、「長官の口」を使ってまで自らの意思を示すという極めて政治的な行動を取ったと考えるしかなかった。

 ▽政治性からほど遠い人柄

 記者は宮内庁担当の一員として陛下の趣味である登山に同行したこともある。代替わりの前後には、少年時代からの登山の足跡をつぶさにたどり、陛下に接した多くの人からエピソードを聞き取った。関係者はみな、気さくで飾らず表裏がない人柄と話す。策を巡らすような政治性からはほど遠いと思っていただけに、今回の発言には驚かされた。

 すぐに連想したのは2008年、当時の羽毛田信吾宮内庁長官が、皇太子(現在の天皇陛下)ご一家の御所訪問が少ないことを「両陛下(現在の上皇ご夫妻)も心配されていると思う」と発言したことだ。

 この時も、発言の舞台は定例の記者会見だった。唐突に話しだした印象も似ている。同じように長官の一存であるはずがないと思い、「そのような家庭内のことをなぜ長官が公式の場で話すのか」と疑問を持った。側近にそんな話をさせる当時の両陛下に反感も持った。

第71回全国植樹祭にオンラインで参加し、苗木を植えられる天皇陛下=5月30日、赤坂御用地(代表撮影)

 翻って今回の「推察されたお気持ち」は、家庭内の問題どころか、五輪・パラリンピック大会開催の是非という国政に直接関わりかねない事柄であり、それが公にされた衝撃の度合いは、比較にならない。

 ▽批判もやむを得ぬ政治干渉

 会見での記者団とのやりとりで長官は、「陛下から直接そういうお言葉を聞いたことはない」「私が陛下とお話ししている中で、私が肌感覚でそう感じていると受け取っていただければ」と話し、あくまで「拝察」に過ぎないとの立場を崩さなかった。

 長官の発言が個人の見解による自分の一存だったのかそうでなかったのかは、結局、長官と陛下以外に誰も断言することはできないだろう。しかし、たとえ一存による個人的見解だったとしても、推察された陛下の「お気持ち」が、社会に影響を与えたことに変わりはない。

 五輪開催の是非をめぐり国論が二分されているとも言える中、「お気持ち」は、どちらかの陣営から政治的に利用される恐れがある。宮内庁長官による拝察という「間接話法」であっても、残念ながら、天皇の政治への不干渉という大原則が破られたと批判されてしかるべきだと思う。

 ▽開催「祝福」、悩ましい胸中

 一方で、陛下の心境を想像すると、同情を禁じ得ない部分もある。世界がコロナ禍に巻き込まれて約1年半。4年に1度の世界の祭典が、1年遅れのこのタイミングで、日本で開催される。五輪憲章により、国家元首として開会宣言を求められる陛下は、言ってみれば「世界と人類を代表して」あいさつを迫られているようなものだ。

1964年10月、東京五輪開会式で開会を宣言する昭和天皇=国立競技場

 五輪憲章は、開会宣言で述べる言葉の文言まで定めており、それに従えば陛下は「第32回近代オリンピアードを祝い、東京オリンピック競技大会の開会を宣言します」と、大会の開催を「祝福」しなければならない。

 全人類がコロナ禍の苦境にあるのに、それを無視するかのように手放しで開催を祝していいのか。このまま何もせず大会を迎えていいのか。開催が感染の拡大につながれば、大会にも皇室にも傷が付く。両大会の名誉総裁としての責任感も、皇室の「危機管理」の意識もあったはずだ。そんな中で陛下は、あらかじめ気持ちを示しておきたいとの意識に駆られたのではないか。「皇室の危機管理」は宮内庁長官にとっても重要課題だ。2人の思いは最終的に同じ結論に達したのだろう。

 陛下も長官も、真意はあくまで「気持ちを示しておく」という点にあり、「開催中止」を希望していたとは思えない。開会まで約1カ月に迫ったこの時期に、陛下の思いで事態が変わったら、それこそ政治関与との非難は避けられない。感染拡大を全力で防ぐよう政府にメッセージを送る意味合いもあっただろう。長官会見は2週に1度と決まっている。発言は慎重にタイミングを計って行われたように思える。

 ▽尊重されるべき「象徴の良心」

 その上で長官の発言を改めて正確に読み直してみる。長官は「名誉総裁をお務めになるオリンピック、パラリンピックの開催が、感染拡大につながらないか、ご心配であると拝察している」と述べている。

 表現は仮定形であって、「感染拡大につながると心配している」と言っているわけではなく、言葉として至極穏当だ。むしろ心配しない人などいないと言った方がいいくらいで、人間として当然の良心とも言える。

 天皇は「国と国民統合の象徴」であり、憲法が「国政に関する権能を有しない」と規定するため、政治的発言や政治への干渉が禁じられる。また憲法には、天皇は「国事行為のみ」を行い、その行為は「内閣の助言と承認を必要とする」とも書かれている。したがって「天皇は黙って内閣に従うのが筋である」との主張にも理がある。

 しかし、私たちが、ほとんどの人権を制限してまで天皇を「象徴」として国の高みに置き、幼少からの「仁徳の涵養」を強いている以上、その「良心」は尊重されるべきだと思う。そうでなければ、生身の人間としてあまりに気の毒だとも思う。

2020年4月、専門家会議副座長(当時)の尾身茂氏(右)から、新型コロナウイルスの感染状況などについて進講を受けられる天皇、皇后両陛下=赤坂御所(宮内庁提供)

 陛下は今年元日にはコロナ禍に関して異例の「ビデオメッセージ」を発した。専門家からの進講でも感染拡大への憂慮を度々示してきたという。憲法上の立場は重々承知の上で「拝察発言」にならざるを得なかったことを、誰よりも残念に思っているのは陛下自身なのではあるまいか。

 ▽「民意の代弁」不気味な熱狂

 一方で、天皇の言動に過剰とも言える反応を示す国民の側にも課題がある。内閣は国会で多数を占める与党で組織され、与党の議員は選挙で選ばれているのだから、内閣は民意を反映している。天皇の思いがその内閣を飛び越えて、政府のコロナ対策への「満たされない民意」を代弁してしまうことを歓迎するのは、民主主義国家として健全とは言えない。

 拝察発言の反響は大きく、天皇の持つ圧倒的な存在感と言葉の影響力を見せつけられた。インターネット上には「陛下の御心をお察しして即刻五輪は中止せよ」「勅命が下された」などといった物騒な書き込みもあった。

新年一般参賀に代わる国民向けのビデオメッセージを発表された天皇陛下と皇后さま=2020年12月28日撮影、赤坂御所(宮内庁提供)

 天皇の意思によって政治が動かされれば、明らかな憲法違反である。「よくぞ言ってくださった」などと無条件にありがたがり、世間に一種の「熱狂」が広がるのは不気味でもある。それよりも、人としての良心をコロナ禍でどう実現していくのか、一人一人が考えて実践することが求められていると思う。

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