【加藤伸一連載コラム】広島・三村監督に感謝「こんなに優しいプロ野球の指揮官を僕は他に知りません」

1996年のカムバック賞も98年の再起も三村監督(左)のおかげだった

【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(36)】広島移籍1年目は9勝してカムバック賞もいただきましたが、2年目の1997年は左太もも裏の肉離れが癖になるなど何もかもうまくいきませんでした。

17試合に登板して1勝5敗、防御率7・48。そんなパッとしない成績でも何かと気遣ってくださったのが監督の三村敏之さんでした。登板した17試合のうち、先発は9試合。右肩手術を経験している僕が不向きな中継ぎで8試合投げたのも「投げていないと、うちはクビにするかもしれない。中継ぎでも投げられるところをアピールしておいた方がいい」という監督の配慮があったからです。

不本意な成績に終わった97年オフは、契約更改交渉で球団側ともめにもめました。減俸は覚悟していましたが、減額制限を大幅に超える提示に納得がいかなかったからです。「だったら出してください」とトレード志願しても受け入れてもらえず、戦力外にしてくださいと訴えても「できない」の一点張り。最後に僕が折れたのは「男と男の約束」と言って出来高払いと翌年オフの自由契約を約束してもらったから。いずれも口約束で、妻以外に内容を明かすこともありませんでした。

三村監督に事実を打ち明けたのは98年の秋口だったと記憶しています。8月29日の横浜戦で2年ぶりの完封勝利を挙げた段階では防御率3・29、規定投球回にぎりぎり到達するかどうかという状況でしたが、事情を知った三村監督は「防御率2・99と3・00では、次に行く球団で1000万円は条件が違ってくる」と全面協力を申し出てくれたのです。

それこそ98年の最終登板となった10月2日の巨人戦は僕の“就職活動”のための試合になりました。まずは初回に先頭の仁志敏久を中飛に打ち取ったところで当時の規定投球回である135イニングに到達。次は試合開始前に3・14だった防御率です。直後に3安打されて2点の先制を許しましたが、失策絡みで自責0点。旧広島市民球場のベンチ裏に大きな電卓が持ち込まれ、アウト1つ奪うごとに投手コーチの川端順さんが僕の防御率を計算していました。

あとで聞いたところによると、川端さんが四捨五入を間違えるなどベンチはドタバタだったようですが、7回を投げ終えて防御率2・99となったところで降板。打線の援護もあって8勝目も手にした僕は晴れて「防御率2点台の投手」となりました。

この試合は、すでに退任の決まっていた三村監督にとっての本拠地最終戦でした。それなのに自由契約になることが決まっていた外様のベテランを最後まで気遣ってくださったのです。こんなに優しいプロ野球の指揮官を僕は他に知りません。

☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。

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