【読書亡羊】「自戒」したなら日々に生かそう――青木理・安田浩一『この国を覆う憎悪と嘲笑の濁流の正体』を読む その昔、読書にかまけて羊を逃がしたものがいるという。転じて「読書亡羊」は「重要なことを忘れて、他のことに夢中になること」を指す四字熟語になった。だが時に仕事を放り出してでも、読むべき本がある。元月刊『Hanada』編集部員のライター・梶原がお送りする週末書評。

月刊『Hanada』も濁流を生んでいる?

月刊『Hanada』では、主に藤原かずえさんの「モーニングショー」批評記事でおなじみの元共同通信・青木理氏と、ネトウヨ・右派ヘイト批判でこちらも名を馳せる安田浩一氏の対談本『この国を覆う憎悪と嘲笑の濁流の正体』(講談社α新書)

第一章から〈『WiLL』や『Hanada』あたりを読んで喜んでいる層〉……などと、当サイト、あるいは『Hanada』読者やその周辺と見なされる右派がタイトル通り「この国を覆う憎悪と嘲笑と濁流」を生み出している、というお二人の認識が開陳されている。

しかも、在日コリアンらを「ゴキブリ」などと表現する運動団体やネットユーザーはごく一部であるにもかかわらず(もちろん一部でも許されないが)、ネトウヨについては〈ゴキブリとは逆に、100人くらいの規模に見えても実質は一人しかいない〉(安田氏)とゴキブリになぞらえてしまうのはいかがなものかという疑問を抱く。

ただ、それでも読んでいくと、意外に沖縄の問題等ではそう違和感なく読める部分もあったりと、なかなか発見のある一冊だ。

具体的に一つあげれば、4月28日の、保守派が言うところの「主権回復の日」は、沖縄にとっては「屈辱の日」であるという青木氏の指摘。この点、全く同感で、私も『WiLL』編集部員時代に、「主権回復の日の祝日化に反対」する沖縄出身の自民党衆院議員・西銘恒三郎氏に、この件について話をうかがっている(2013年6月号)。

「占領の継続として、激戦地だった沖縄に米軍基地を置き続けること」の是非ではむしろお二人と同じ立場であり、いくら保守派であっても一部の「沖縄ヘイト」的言動に関しては嫌悪感を覚える。

ただ、激戦地になったということは地理的に要衝地であることを示してもいて、単に米軍が撤退すれば済む問題ではない。せめて、遠隔兵器を近隣の島に配備させるとか、自衛隊の駐屯を拡大してその中に米軍の機能を置く(ほぼ不可能だが)など、なんらかの対案が欲しいところではある。

「嫌韓の始まり」はどこから?

さて、意外にも共通する観点もあったのだが、当然のことながら反発を覚える部分や疑問を感じる部分もあった。また、「これは事実関係として正しいのか?」と思う部分もあるため、ここで指摘してみたい。

それは「嫌韓、ネトウヨの始まりはどこから?」について論じられた箇所だ。

「ネトウヨ」という言葉にはいろいろな意見があり、こうした侮蔑的呼称を認めない、という保守派も少なくない。一方で、私の記憶ではまだ「ネトウヨ」が原型の「ネット右翼」という名称を保っていた時代、「仮に自分の意見やスタンスがネット右翼と呼ばれてもかまわない」とその呼称を(自嘲気味であれ)受け入れていた人も少数ながらいたことは記しておきたい。

それはともかく、「ネトウヨの始まり」は一般的に2002年サッカーワールドカップの日韓共催を起点とする説が語られがちだ。しかし本書では「拉致問題が表面化した時点、特に日朝会談後からではないか」と青木氏が指摘しており、私もそれに賛成だ。W杯も理由のひとつではあったが、社会的なインパクトでいえば拉致問題の方が相当大きかった。

ただ、それに続く部分で疑問がある。

ナショナリズムのためにここまでやるのか

安田氏は〈(2002年のW杯日韓共催は)日韓が仲良くなるお祭りだった反面、ワールドカップを見てネトウヨになったという人が結構いる〉とし、その理由について次のように推論を述べている。

〈彼らは初めて生身の韓国というものをワールドカップで、いわば発見したのではないか〉

〈ワールドカップで、韓国のナショナリズムやパワーを目の当たりにすることによって、嫌韓の波が起きてきた〉

実はこの文言自体は正しいのだが、その後の解説には若干の疑問を差し挟みたい。安田氏は続けて、「極東の小国に過ぎないと日本が軽視してきた韓国」が、W杯ではベスト4に入るなどサッカーも日本より強く、インフラもエンタメも日本より上だと知ったから、鬱屈が表面化したのでは、と説明している。

確かに当時、日本人は韓国の生身のナショナリズムを目の当たりにしたのだが、それは「韓国の方がW杯の成績が良かったから」というだけではない。W杯日韓共催を通じて日本人が目の当たりにしたのは、韓国チームがアンフェアな試合運びを意図的に展開していたことではなかったか。

今もって語られるのは、ベスト16を決める韓国対イタリアの試合だ。どう見てもおかしな主審のジャッジ。ラフプレーでは済まされない韓国側の選手の〝攻撃〟。負けたこと以上に、まともに試合をさせてもらえなかったイタリア選手やイタリア国民の怒りは、20年近くたった今でも折に触れ噴出している(参考記事下記リンク)。

ナショナリズムのためにここまでやるのか。W杯が嫌韓の波の発端のひとつとなったのにはこうした理由があったのだが、安田氏は触れていない。

ここに嫌韓を巡る大きな問題がある。韓国側の振る舞い自体もさることながら、明らかな韓国側の問題を指摘しないメディアや識者のアンフェアさが「嫌韓」を生む土壌になったことも事実である、ということだ。

「殴ればよかった…」元イタリア代表MF、2002年W杯・韓国戦の主審への怒りを忘れず「人生から消し去りたい」 | サッカーダイジェストWeb

「朝鮮総連に押されていたメディア」との証言

しかも、そうした作用については、本書で青木氏が指摘してもいる。

青木氏は日朝会談以前の報道の現場の感触として〈日朝首脳会談以前のメディア界には北朝鮮への直接的批判がはばかられるような雰囲気もありました〉〈多くのメディアも朝鮮総連に気圧されて報道も自制気味な面が間違いなくあった〉とし、「(メディア人として)自戒が必要だ」と述べている。

これはかなり重要な指摘だ。青木氏も安田氏も、「そのあとのバックラッシュとしての北朝鮮、ひいては韓国を含む朝鮮半島への嘲笑・批判」がヘイト的なまでの嫌韓に発展したことを、本書を通じて批判しているのだが、少なくとも青木氏自身は、こうした「嫌韓の高まり」の原因の一端が「自制していたメディア側の問題」にあることを認識しているのだ。この点も全く同感ではある。

全てのヘイトの責任をリベラルメディアに押し付ける「保守側の自責点ゼロ理論」を展開するつもりはないが、同感するだけに、ではこの「自戒」を青木氏は普段の言論活動にどう生かしているのか、と問いたい。というのも、これも本書でも触れている2019年のソウルでの韓国人男性による日本人女性への暴行事件をめぐる経緯があるからだ。

この時、青木氏は「本来ならメディアが報じない程度の事件が大きく報じられたことで日韓関係に悪循環が生じている」と述べて猛反発を受けたという。

しかし「メディア側の自制があったところに、ある事件をきっかけにして嫌韓がバックラッシュ的に噴出した」ことを知っている青木氏なら、すでに報じられた暴行報道に関するこのコメントが「バックラッシュを煽るもの」にしかならないことにも気づけたのではないか。

実際、この発言で「悪循環」に「さらなる悪循環」が生じることになった。

せっかくの「自戒」はぜひ生かしていただきたいものだ。

お二人の言う「濁流」を「清流」に変えるためには、リベラル派による保守批判「だけ」では達成できない。本書はそう考える下地にもなるはずだ。

梶原麻衣子 | Hanadaプラス

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