90年代オルタナティブ・ソング・ベスト100:アンダーグラウンドがメインストリームになった時代

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“オルタナティブ・ミュージック”の定義は何だろう? オルタナティブロックの誕生から30年が過ぎた今でもこれはなかなかトリッキーな質問だ。一つには“オルタナティブ(代替的な)”という言葉自体が容易に定義できないというのもある。というのもジャズやブルースのように、それ自体がジャンルを構成する訳でもなく、どちらかというとグランジやインディーロックや、シューゲイザーやエモといったギター主体の様々な音楽スタイルを大きくまとめて表現するための用語だからだ。

こうしたサブジャンルの数々とそれらのスタイルの起源は、逆説的に聞こえるが、オルタナティブ・ロックが主流になるまでは、存在はするものの端の方に追いやられていた。それが突然、レコード会社のA&Rの重役やMTVを見ていた子供達は一様に次のニルヴァーナやアラニス・モリセットを、そして世代を定義するようなアンセムを書く次のソングライターを探し始めていた。

オルタナティブ・ロックにはそれを定義する特定なサウンドが存在しないので、このジャンルをわずか100曲に絞るという試みは果てしなく無駄で骨の折れる努力と言っていい。80年代の地道な活動が90年代にブレイクアウトする基礎になったというグループもあれば、突然スターダムに躍り出た時にはまだ活動を始めたばかりだった、というグループもあった。

下記のリストには、多くのグランジやブリット・ポップなど英米のアーティストが含まれる一方、オルタナティブ・ロックは全世界的現象だったので、メキシコやアイスランド、フランスやその他様々な国出身のアーティストも含まれている。

一発屋から時代を定義するアンセムまで、1990年代を代表するベストのオルタナティブ・ソングのいくつかをご紹介しよう。

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1. 4ノン・ブロンズ(4 Non Blondes)「What’s Up?」(1992年)

**Twenty\-five years and my life is still
Tryin’ to get up that great big hill of hope for a destination
25年も人生を生きてきたのに
未だに目的地に辿り着く希望を胸に あの大きな山を登ろうとしている**

4ノン・ブロンズの「What’s Up?」のオープニングでボーカルのリンダ・ペリーがこう歌う時、まるで25年どころではなくもっと長く生きてきたかのように、彼女の声は失望感でいっぱいだった。カラオケでこの曲に挑戦した人達が、みんな同じようにこの世界に疲れ切ったような気持ちになるといいのだが。

2. エイミー・マン(Aimee Mann)「You Could Make A Killing」(1995年)

エイミー・マンの1995年のシングル「You Could Make A Killing」は大金を稼ぐことについての歌なのか、それとも文字通り殺人についての歌なのか?(*Make A Killには大儲けするという意味がある) おそらく前者なのだろうが、この曲の最初の数秒で聞こえる、タイヤのきしむ音とパトカーのサイレン音を思わせる効果音や、何やら口に出すのも憚られるようなことを暗示しているように思える歌詞には何か不安を思わせるものがある。そして実際この曲は1998年の『デッドマンズ・カーブ』や1999年の『クルーエル・インテンションズ』といった気味の悪いティーン映画のサウンドトラックに収録されている。

3. エール(Air)「La Femme d’Argent」(1998年)

同じフランス出身のダフト・パンクとは対照的に、エールはクラブ仕様ではなく、ラウンジ向けにデザインされたエレクトロニック音楽を産み出した。穏やかでダウンテンポなこの曲は、スペースエイジのポップ音楽や、過去に作られた“未来の音”に回帰しているように感じられる。「La Femme d’Argent」は7分間にわたって宇宙を巡る歓喜のクルーズであり、耳を傾ける必要がないくらい完璧なので、ただ音に身を任せてチルアウトすればよいのだ。

4. アラニス・モリセット(Alanis Morissette)「You Oughta Know」(1995年)

アラニス・モリセットの最初の2枚のアルバムは自国カナダ以外ではリリースすらされなかったが、彼女は世界中で3300万枚以上を売り上げた3rdアルバム『Jagged Little Pill』で金鉱を掘り当てた。その成功に火を付けた火花が、自ら規制をしない性表現と身勝手な元彼への残酷な攻撃がない交ぜになったリードシングルの「You Oughta Know」だった。

**And every time I scratch my nails down someone else’s back
I hope you feel it
そして私が誰かの背中に爪を立てて引っ掻くたびに**
あなたがそれを感じるといいのに

男性アーティストが多かった90年代のオルタナティブロックの中で、アラニスの発する女性の怒りのサウンドは無視できないものだった。

5. ビースティ・ボーイズ(Beastie Boys)「Sabotage」(1994年)

ビースティ・ボーイズは、自身のパンクのルーツに戻った「Sabotage」で、怒りとノイズの激しい爆発を起こし、ロックやラップのラジオでも同じように聞こえるほどだった。とはいえ、この曲は3人の表現スタイルの後退を意味するものではなく、むしろ彼らの休むことなき音楽的好奇心と、自らのサウンドを変化させることへの意欲を更に証明するものだった。

6. ビューティフル・サウス(The Beautiful South)「I’m Your No.1 Fan」(1992年)

ビューティフル・サウスはそのキャリアを通じて、辛辣なユーモアで彼らのメロディアスなインディ・ポップに刺激を加えてきた。おそらく「I’m Your No.1 Fan」は彼らが作れる純粋なラブソングに一番近いものだろうが、それでも彼らの語り口は斜に構えたものだった。

**I was handed down a bike  with a crooked old wheel
But I rode it on a million lanes
The way that you made me feel
古くてホイールが曲がった自転車をお下がりでもらった**
でも私はその自転車で数え切れないほどの道を走った
ちょうどあなたが私に感じさせてくれたように

こうした歌詞にはロマンスの雰囲気が込められているように聞こえるが「I Love You」といった直接的な言葉は決して語らない。そこにあるのは、ただ純潔な「私はあなたの一番のファンなの」という言葉のみだ。

7. ベック(Beck)「Loser」(1993年)

これはフォークなのか?それともヒップホップなのか?そしてこのシタールのループは何だ?ひょっとしてラガ・ロックなのか?

この曲をどう呼ぼうと、ベックのユニークな「Loser」は大ヒットとなり、それまで苦境に瀕していたソングライターにメジャーレーベルからの関心を集め、オルタナティブロック界の次の大物にした

8. ベリー(Belly)「Feed The Tree」(1993年)

ベリーの曲「Feed The Tree」の中心には思わずグッとくるような隠喩(メタファー)が含まれている。ここに歌われている木とは、愛する者を埋葬した上に植えられる木なのだ。ボーカルのタニヤ・ドネリーが「be there when I feed the tree / 私がその木に肥料をあげている時にはそこにいて」と歌うとき、それは彼女が死んだ後もなお彼女を愛し続けて欲しい、という切なる願いが込められている。しかし「Feed The Trees」をチャートに送りこんで、ベリーのあまりに短いキャリアでの最大のヒットにしたのは、この曲の夢見るようなギターの音色だろう。

9. ベン・フォールズ・ファイヴ(Ben Folds Five)「Brick」(1997年)

ベン・フォールズは高校時代のガールフレンドの中絶とそれによる二人の関係の解消について歌というよりは4分半の短編小説ともいえる「Brick」を書いた。ヘビーなテーマだが、ベン・フォールズはその重さにふさわしいシリアスさでこの歌に取り組んでいる。そして賢明にもこのテーマを政治的に扱うことはしなかった。彼自身で責任を取ることもできず、ガールフレンドもサポートできないだけでなく、起きたことを秘密にしようとする努力も尽きてしまった、そんな状況が生んだ感情的激しさにひたすら焦点を当てて迫っている。

10. ビョーク(Björk)「Human Behaviour」(1993年)

厳密にいうと、ビョークの1993年のアルバム『Debut』は彼女のデビューアルバムではない。その頃までに彼女はアイスランドのロック・バンドに15年ほど在籍し、子役歌手としての短い経歴もあった。しかしこのアルバムは、彼女を真のビジョンを持つソロ・アーティストとして世界に紹介し、ハウス・ミュージックとエレクトロニック・ミュージックをプリズムのような輝きを持つポップ・ミュージックとして再構築してみせた。ビョークがその後更により実験的サウンドを創り出すようになるまでそう時間はかからなかったが、彼女の最初のシングルである「Human Behaviour」の時のビョークほど楽しそうでダンサブルに聞こえることはあまりなかった。

11. ブラインド・メロン(Blind Melon)「No Rain」(1992年)

このリストに挙げられている他の数曲同様、ミュージック・ビデオ抜きでは語れない「No Rain」のビデオは、自分で作った蜂の着ぐるみを着た少女がタップダンスするという、おバカながら微笑ましいものだ。曲そのものはオルタナティブ・ロック・ラジオ時代以前の遺物っぽくも聞こえるが、それは一つにはブラインド・メロンの太陽の光を浴びたような、さりげなくサイケデリックなプロダクションによるところもあった。だが、かすれていながら緊張感ある、少しジャニス・ジョプリンを思わせるボーカルのシャノン・フーンによるところはもっと大きかった。それだけでなく「No Rain」を怠け者の賛歌というよりも、憂鬱な気分を表現しているように聴こえるのはシャノンの声のおかげなのだ。

12. Blink-182「All The Small Things」(1999年)

パンク原理主義者達はBlink-182がメインストリームに迎合することを厭わない点をバッシングした。しかし、そういうカビの生えたようなイデオロギー信奉者達が、こんなわかりやすく、共感を覚えるような歌詞を書いたことがあるだろうか?

**Work sucks / I know
仕事なんてクソだ / わかっているけど**

Blink-182は、ポップ・パンクというスタイルを矛盾とは思わず、ポップのキャッチーさとパンクの無鉄砲なエネルギーを見事に融合した楽曲を次々に書いた。中でも最高だったのは「All The Small Things」で、今でも聞くと一日が明るくなるそんな歌だ。

13. ブルース・トラヴェラー(Blues Traveler)「Run-Around」(1994年)

ブルース・トラヴェラーによるグラミー受賞曲「Run-Around」のように、片想いの歌がすべて楽観的に聞こえればいいのに。この曲は、ヴァン・モリソンの「Brown Eyed Girl」やグレイトフル・デッドの「Touch Of Grey」と同じようなところに響いてくれる、爽やかでジャムのような珠玉のポップ・ソングだ。

14. ブラー(Blur)「Song 2」(1997年)

UKのブラーがグランジをパロディしたかのようなこの曲はアメリカでの自身最大のヒットになった。ヴォーカルのデーモン・アルバーンのお茶目なウィットがバンドをブリット・ポップの頂点に引き上げた一方で、グレアム・コクソンは聴く者の頭蓋骨と歯がガタガタ鳴るくらいの大音量のディストーションをかけたギターを鳴らして、バンドに新しい聴衆と新しい命を与えたのである。

15. ボディ・カウント(Body Count)「Body Count’s In The House」(1992年)

初期ギャングスタ・ラッパーとして有名なアイス-Tがボディ・カウントを結成した時、このグループはメタル・バンドだと言って譲らなかった。しかしバンドのデビューアルバム『Body Count』の1曲目である「Body Count’s In The House」は、アイス-Tがギターのアーニー・CとD-ロック、ドラムのビートマスター・V、そしてベースのムースマンとバンドメンバーを紹介するヒップホップでいうところのポッセ・カット(4人以上のラッパーが順番にパフォームするスタイルの楽曲)の役割を果たしている。

16. ブリーダーズ(The Breeders)「Cannonball」(1993年)

ブリーダーズの前身だったピクシーズのサウンドは当時では先進的過ぎて、時代を先取りしすぎていた。ニルヴァーナからレディオヘッドまで誰もがピクシーズに影響を受けたと言っていたが、オルタナティブ・ロックが広く人気を得た頃には既にピクシーズのピークは過ぎた後だった。しかしベーシストのキム・ディールは、彼女と双子の妹のケリーのバンド、ブリーダーズで、ピクシーズの絶頂期と同じような耳障りな大音量と静かな音の組合せと奇妙な歌詞を持ったヒット曲「Cannonball」を発表し、1990年代のオルタナティブ・ロック・ブームに乗るチャンスをものにしたのだった。17. ブッシュ(Bush)「Glycerine」(1994年)

英米の間で“オルタナティブ・ロック”の意味合いがかなり違っていた90年代に、ブッシュは“ブリティッシュ・グランジ・バンド”という一種の逆説的な存在だった。「Glycerine」のヒットでアメリカでの成功の足がかりを得たブッシュのデビュー・アルバム『Sixteen Stone』は最終的に600万枚を売り上げた。

18. バットホール・サーファーズ(Butthole Surfers)「Pepper」(1996年)

バットホール・サーファーズは元々パンク・バンドとして80年代に活動をスタートしたが、サイケデリックな効果音やどす黒いユーモアを採り入れて、ある悪名高い曲では牛の鳴き声まで使っており、急速に奇妙なバンドに進化していった。彼らの初期のライブでは炎の立ち上るシンバルやバラバラになったテディ・ベアが登場し、頻繁に裸体が登場するという完璧に常軌を逸したものだった。90年代になってやっとオルタナティブ・ロックが彼らの異常さに追いつき、バンドはベックになりすましたような語り言葉による「Pepper」でヒットを記録した。

19. カフェ・タクーバ(Café Tacvba)「Cómo te extraño mi amor」(1996年)

メキシコで最も有名なロック・バンド、カフェ・タクーバはその2作目のアルバム『Re』で国際的に高い評価を集めて、ある評論家などはこのアルバムのスタイルの多様性をビートルズの『The Beatles (White Album)』に例えたほどだった。その次のアルバムでは、バンドは彼らにインスピレーションを与えてくれた曲の数々に敬意を表することを決め、アルゼンチンの有名シンガー、レオ・ダンのほろ苦いラブソング「Cómo te extraño mi amor(あなたをどんなに恋しく思っているか)」の忠実なカバーはカフェ・タクーバ自身の大ヒット曲となった。スペイン語がまったく理解できなくても、ボーカルのルベン・アルバランの情熱たっぷりの歌声には魅了されるに違いないし、その歌を支えるギター、トランペット、ピアノの相互効果にも引き込まれるだろう。

20. ケイク(Cake)「The Distance」(1996年)

ケイクは「I Will Survive(恋のサバイバル)」のそこら中にFワードが登場するカバーで悪名高いが、「The Distance」の方がケイクにとっての大ヒットとなった。ヒットとなったのは恋愛対象を探し求めることの例えにカーレースを使った語り口とメキシコのマリアッチ音楽を思わせるトランペットのおかげだ。多くのグランジが陰気でユーモアの欠片もないことを考えると、ケイクの真顔でおどけてみせるようなスタイルは歓迎すべき息抜きになっていた。

21. カーディガンズ(The Cardigans)「Lovefool」(1996年)

スウェーデン人が誰よりも優れていることがあるとすれば、それは完璧なポップ・ソングを書く才能だろう。有名なポップ・ソングライターのマックス・マーティンやABBAのビョルン・ウルヴァースとベニー・アンダーソンらの系譜に連なるカーディガンズの「Lovefool」は、とても洗練された陽気な曲なのでシンガーの恋に破れた絶望感を見逃してしまうほどだ。

22. ケミカル・ブラザーズ(The Chemical Brothers)「Block Rockin’ Beats」(1997年)

サブジャンルとしてのビッグ・ビートは通常のエレクトロニック・ミュージックの領域にすっぽり収まってしまうのだが、ケミカル・ブラザーズはそのビートをもっとビッグにして、ヒップホップとサイケデリアとファンク・ロックの領域にまで広げてしまった。「Block Rockin’ Beats」のような数小節ごとにその形をどんどん変えていくように聞こえる曲は、他にどう表現したらいいのだろうか。

23. ザ・チルズ(The Chills)「Heavenly Pop Hit」(1990年)

一体全体どうやって、ニュージーランドの人口13万人の街、ダニーデン出身のバンドが米ビルボードのオルタナティブ・エアプレイ・チャートのトップ20に曲を送り込むなんてことが起きたのか?

「望む者がいればこの曲はこの世のものとも思えないようなポップ・ヒットなんだ / It’s a heavenly pop hit if anyone wants it」という皮肉っぽい歌詞にもかかわらず、ザ・チルズの傑作シングルは間違いなくこの世のものとは思えないほど素敵なポップソングだった。あのブライアン・ウィルソンが水中の大聖堂の教会でオルガンを弾いている姿を想像してみるといい。「Heavenly Pop Hit」の神々しさはその更に上を行くものだ。

24. チボ・マット(Cibo Matto)「Sugar Water」(1996年)

チボ・マットのことを、食べ物にやたらフォーカスした歌詞を歌う単なるノベルティ・アクト(コミック・バンド)だと切り捨てるのは愚かなことだ。彼女達のデビューアルバム『Viva! La Woman』は確かに安っぽいキッチュさ満点だが、生き生きして独創的でもある。そしてトリップ・ホップとポップ・ソングの眠気を誘うような混合体である「Sugar Water」はその中でも最もキッチュで生き生きしていてかつ独創的なのだ。

25. コクトー・ツインズ(Cocteau Twins)「Cherry-Coloured Funk」(1990年)

コクトー・ツインズの作品全体においてもそうだが、ボーカルのエリザベス(リズ)・フレイザーのアルバム『Heaven or Las Vegas(天国、それともラス・ヴェガス)』での歌は、ほとんどがとても英語で歌われているようには聞こえない、しかし彼女の声には尋常でなく感情に訴えてくる力がある。暗闇の中でぼんやり光っているような「Cherry-Coloured Funk」で、彼女の言葉にならないヴォーカルがロビン・ガスリーのギターの回りを旋回するのを聴くと、ほとんど歓喜のような感情を覚える。評論家が時にリズの声を評して“神の声”と言うのにはちゃんと理由があるのだ。

26. コンクリート・ブロンド(Concrete Blonde)「Joey」(1990年)

「Joey」は、その響き渡るドラムと最初はゴシックなサウンドなのに最後にはヘア・メタルのようなソロに変貌してしまうギターのサウンドで、80年代の名残を感じさせる(そのソロの前までであれば、ジーザス&メリー・チェインの曲だと言っても通るだろう)。コンクリート・ブロンドのリーダーであるジョネット・ナポリターノは、彼女の愛人とアルコール依存症との戦いについてこの曲の歌詞を書いたので、この歌はキャッチーながらその中心に闇を抱えている。

27. コーナーショップ(Cornershop)「Brimful Of Asha」(1997年)

影響を受けたスタイルが多様であるにもかかわらずブリット・ポップは圧倒的に白人が多かったため、インド音楽と同じくらいインディ・ミュージックに影響を受けたというティジンダー・シンと彼のバンド、コーナーショップが収めた成功はよけいに大きな意義を持っている。ティジンダー・シンからボリウッド(インド映画界)の吹替え歌手であるアシャ・ボスレへのラブレターである「Brimful Of Asha」はそれ自体はマイナーなヒットだったが、ファットボーイ・スリムことノーマン・クックの、テンポを速めてドラッグでハイになったようなビートを加えたリミックスによってイギリス以外の聴衆にも聴かれることになった。

28. クランベリーズ(The Cranberries)「Dreams」(1992年)

「Dreams」は、おそらくビートルズの「A Hard Day’s Night」以来ではないかと思われるほど素晴らしいギター・コードで始まる。クランベリーズが完璧に決めたこの最初のシングルは、今でも最初にテープに録音された日と同じくらい我々を魅了してくれる。仮にこれが我々の聴いたクランベリーズの最初で最後の作品だったとしても、今でも我々は「Dreams」の話で持ちきりだろう。

29. ディオンヌ・ファリス(Dionne Farris)「I Know」(1994年)

自作の曲を歌う前は、ディオンヌはTLCの曲をプロデューサーのジャーメイン・デュプリと共作し、エクスケイプやアレステッド・ディベロップメントといったアーティスト達のバック・シンガーを務めていた。彼女がソロになった時、自分のソウルやヒップホップの影響を受けた生い立ちとロックのリフやリズムを組合せ、結果出来上がったのが彼女のデビュー・シングル「I Know」だ。

30. ディヴァイナルズ(Divinyls)「I Touch Myself」(1990年)

ディヴァイナルズのリーダー、クリッシー・アンフレットは1989年にシンディ・ローパーと一時一緒に活動していた。しかし、その時の経験にインスピレーションを受けてその翌年に書いたのが、シンディの「She Bop」同様、自己快楽を歌った歌である「I Touch Myself」だった。クリッシーが2013年に乳癌で他界した後、この歌は今度は乳癌への理解を高めて乳房の健康を促進するために、再び脚光を浴びたのだった。

31. イールズ(Eels)「Novocaine For The Soul」(1996年)

イールズはグランジ・バンドではなかったが、カート・コバーンやクリス・コーネルのように、リーダーのマーク・オリヴァー・エヴェレットは醜い感情についての醜い歌を書くコツを会得していた。ただ彼の場合、多くの同時代のミュージシャン達と違って、面白みも備えていた。カート・コバーンが「Novocaine For The Soul」のような暗いオチのある曲を歌ってるのを想像するのはなかなか難しい。

**Life is good / And I feel great
‘Cause mother says I was a great mistake
人生はすばらしい 俺の気分も最高**
だって母さん曰く 俺を生んだのは大きな間違いだったらしいから

32. エラスティカ(Elastica)「Connection」(1994年)

エラスティカは、フック満点でパンクなエネルギーを次々に繰り出す一曲のヒットを含む同名アルバムで、ブリット・ポップに取って目に見えないガラスの天井を突き破って、米ビルボード・チャートに食い込んだ。その中でも、ワイヤーの「Three Girl Rhumba」からギター・リフを頂いた「Connection」は最も話題を集め、アメリカだけアルバムを50万枚売り上げる原動力となった。

33. エリオット・スミス(Elliott Smith)「Between The Bars」(1997年)

薬物依存のことを歌っているのにラブソングのように聞こえる、そんな歌を書けるソングライターはそう多くはいない。「Between The Bars」は、エリオット・スミスの作品で最も愛されている曲の一つで、この曲を「大好きな曲」と言うマドンナをはじめ多くのアーティスト達がカバーしている。しかしエリオット自身が歌ったヴァージョンを超えるものはなく、彼の囁くようなヴォーカルと柔らかくつま弾かれるアコースティック・ギターはこの歌の中心にある静かな絶望感を表現している。

34. エヴァークリア(Everclear)「Santa Monica」(1995年)

エヴァークリアのセカンド・アルバム『Sparkle And Fade』で、リーダーのアート・アレクサキスは自分のトラウマ的な生い立ちに向き合った。「Heroin Girl」のように明確に自伝的な曲、または「Pale Green Stars」のようにフィクション化したヴァージョンの楽曲群に反映させた。この「Santa Monica」も、アルバム全体につきまとうドラッグと死というテーマから完全に逃れられてはいないが、少なくともそれらを超えた人生の可能性を描いている。

35. ファストボール(Fastball)「The Way」(1998年)

ファストボールの1998年のヒット曲「The Way」にはちょっと気味の悪い背景がある。ヴォーカルのトニー・スカルゾは、地元の新聞で読んだ、音楽フェスに行く途中で迷ってしまって、乗っていた車が何週間も後まで見つからなかったという年配のカップルの話から曲のアイデアを取ったのだ。ただトニーは悲劇的なストーリーをハッピーエンドに書き換えて、そのカップルは自分達の人生を後にして“歩く道が全て金で舗装されている”場所に冒険に出かけた、という歌詞にしたのだった。

36. フィオナ・アップル(Fiona Apple)「Criminal」(1996年)

フィオナ・アップル「Criminal」の最初の歌詞は、もし彼女があれだけ確信を持って歌っていなければ、うわべだけの嘘っぽいものに聞こえたかもしれない。

**I’ve been a bad, bad girl
I’ve been careless with a delicate man
私はずっと悪い、悪い女の子だった**
私はずっと繊細な男の人に対して不注意だった

評論家達が彼女のウィットと誠実さを理解するには何年もかかるのだが、僅か18歳の時にフィオナが既に完璧なポップ・ソングを創り上げることができることは明らかだった。

37. フー・ファイターズ(Foo Fighters)「Everlong」(1997年)

デイヴ・グロールは世が世ならトム・ペティのハートブレイカーズのメンバーになっていたかも知れない。ニルヴァーナの悲劇的な終焉の後、デイヴはトム・ペティに誘われてドラムスを叩いたのだが、自分のバンドを始めるのでハートブレイカーズ加入の誘いを断ったのだった。憧れの情感に満ちた「Everlong」は、最高の状態にあるデイヴがカート・コバーンと同じくらい強力なソングライターになれるし、ギターをアンプにつないで苦悩に満ちた燃え上がるようなラブソングを歌うこともできることを証明している。

38. ガービッジ(Garbage)「Stupid Girl」(1995年)

“オルタナティブ”という言葉がまだ音楽を表現するのに使われていなかったとしたら、グランジっぽいリフとぼんやりとしたエレクトロニックな質感をポップなサビにまぶしたようなガービッジの作品を表現するためには、マーケティング担当の誰かが“オルタナティブ”という言葉を思い付かねばならなかっただろう。20年以上経って聴く「Stupid Girl」は、ニルヴァーナ以降のオルタナティブ・ロックの世界にあっても未だに完全にユニークなサウンドだ。

39. ジン・ブロッサムズ(Gin Blossoms)「Hey Jealousy」(1992年)

傑作でないアルバムに収録するにはもったいない曲が時にはある。ジン・ブロッサムズはデビュー・アルバム『Dusted』に「Hey Jealousy」を収録したが、その後メジャー・レーベルのA&Mレコードと契約すると、そこからリリースする2作目のアルバム『New Miserable Experience』に収録するためにこの曲とその他の何曲かを再録音した。そのアルバム発売から1年後にこの曲をシングルとしてリリースしてやっと、ジン・ブロッサムズの成功が始まったのだ。

40. グリーン・デイ(Green Day)「Basket Case」(1994年)

「何が起こっているのかを知るには、それを歌にするしかなかった」と、グリーン・デイのリーダー、ビリー・ジョー・アームストロングは神経質な内容の「Basket Case」を書くきっかけになった不安感の発作について語っている。彼はそのテーマについてユーモアを交えて歌っている。しかし、そうは言っても愛すべきパンク・バンドが、メジャー・レーベルからのデビュー盤『Dookie』でメンタル・ヘルスについて歌っているのを聴くのはインパクト充分だった。

41. ホール(Hole)「Doll Parts」(1994年)

ホールのアルバム『Live Through This』は、カート・コバーンの遺体が発見されてから4日後にリリースされた。これはこのアルバムとホールのリーダーでカートの未亡人、コートニー・ラヴのカートの死という悲劇に飲み込まれてたまるか、という強い気迫を表している。彼女がこのアルバムのために書いた最初の曲の一つが「Doll Parts」で、将来夫になる男へのラブソングというよりは、不安感と欲望を生々しく表現したものだ。コートニーがこの曲の「いつかあなたも私が感じた痛みと同じ痛みを感じる」というリフレインを叫ぶ時、それはまるで過去に彼女を蔑んだ全ての男に対する呪いのように聞こえる。

42. ジェイムス(James)「Laid」(1993年)

まずできる限りこの曲「Laid」と、これが主題歌に使われた映画『アメリカン・パイ』シリーズを切り離して考えて欲しい。ジェイムスの最も有名な曲は、心配そうなセラピスト、恋人が壁を殴って開けた穴、そして“情熱的な愛で”燃え上がるベッドといった、ロマンティックな妄想の鮮烈なイメージを想起する圧倒的なバラードなのだ。

43. ジェーンズ・アディクション(Jane’s Addiction)「Been Caught Stealing」(1990年)

この曲で聞こえる犬の吠え声はまるで品質保証の印のような機能を持っている。犬の鳴き声はビーチ・ボーイズの「Caroline, No」やビースティ・ボーイズの「Sure Shot」、DMXの「Stop Being Greedy」や最近ではフィオナ・アップルの「Fetch The Bolt Cutters」などに登場するが、これらはどれもほぼ完璧な楽曲だ。そしてそのリストに加わる資格のあるもう一つの曲が盗み癖の喜びを歌ったジェーンズ・アディクションの「Been Caught Stealing」だ。

44. ライヴ(Live)「Lightning Crashes」(1994年)

ライヴは「Lightning Crashes」のクライマックスまで5分半かけて辿り着く。そのクライマックスに辿り着くともう最高。ノコギリのようなギターリフ、落雷のようなドラムス、そしてボーカルのエド・コワルチックの魂を揺さぶるような「俺には感じることができる!」という高らかな宣言だ。

45. リヴィング・カラー(Living Colour)「Type」(1990年)

もしプリンスがヘヴィ・メタルにトライしたらどんなサウンドになるだろうか? 考えられるベストのシナリオとしては、そのハード・ロックのリフとファンキーなグルーヴが渾然一体となったサウンドで1980年代終わりにメインストリームの成功を勝ち得たリヴィング・カラーのようなサウンドになるだろう。

そんなリヴィング・カラーはセカンド・アルバム『Time’s Up』と、欺瞞と文化の退廃を歌った炎のようなリードシングル「Type」でそのレベルを一段と上げたのだ。

46. リズ・フェア(Liz Phair)「F__k and Run」(1993年)

リズ・フェアは、彼女のデビューアルバム『Exile In Guyville』はローリング・ストーンズの名盤『Exile On Main St.(メイン・ストリートのならず者)』への回答だと主張した。しかし「F__k and Run」にはミック・ジャガーが滅多に歌詞にしない、突き刺すような赤裸々な感情が満載だ。この曲のリフレインでリズは問いかける。

**And whatever happened to a boyfriend
The kind of guy who makes love ‘cause he’s in it?
それでボーイフレンドに何が起きたっていうのか**
付き合ってるからっていってセックスしたがるような類の男

そして自分に自分で答えるリズの声はあきらめたかのように重たい。

**I want a boyfriend
I want all that stupid old shit
Like letters and sodas
ボーイフレンドが欲しい**
相も変わらぬあの間抜けなやつを
手紙とかソーダとかと同じ

47. スウェード(Suede)「The Drowners」(1993年)

ブリット・ポップのバンド達は、1960年代と1980年代のイギリスのギター・ポップから多くの要素を取り入れているが、そもそもブリット・ポップとはみなされていなかったスウェードは1970年代のグラム・ロックの重厚さを好んでいた。彼らはデビューシングルをリリースする前からイギリス史上最も評判を集めたバンドの一つになっていたが、そのデビューシングル「The Drowners」の堂々としたギター・リフと、ブレット・アンダーソンの魅惑的なボーカルでその期待に応えてみせたのだ。

48. リンダ(Lynda)「Maldita Timidez」(1999年)

ふつう「Maldita Timidez(恥じらいなんてクソくらえ)」というタイトルの曲がこんなに楽しそうな曲だとは思わないだろう。メキシコのポップ・スター、リンダがこの曲を歌った時はまだティーンエイジャーだったが、この曲はティーンエイジャーの女の子以外がレコーディングしてもこれほどピッタリくるとは思えない。誰かに恋することの興奮とその魅力を封印したくなるような緊張感の両方を彼女が表現できることが「Maldita Timidez」の魅力につながっている。

49. マヌ・チャオ(Manu Chao)「Bongo Bong」(1998年)

“ワールド・ミュージック”という用語を批判する者は、この用語がしばしば非西洋のすべての国の音楽を十把一絡げで表現していると主張する。しかしマヌ・チャオとそのデビュー・シングル「Bongo Bong」の場合、そのレゲエからサルサからアフリカ風ブルースまでをカバーする彼の音楽スタイルを一つのジャンルやサウンドで言い表すことはほとんど不可能だ。

50. マーシー・プレイグラウンド(Marcy Playground)「Sex And Candy」(1997年)

マーシー・プレイグラウンドのリーダー、ジョン・ウォズニアックは「Sex And Candy」の歌詞がまったく意味をなしていないことは進んで認めるだろう。彼はかつて、そもそもこの歌が何を歌っているのか彼自身もよく判らないと告白している。「この歌はいろんな違うものを意味しているんです」とはいえ、“ダブル・スエード革のプラットフォーム・シューズ”とか“ディスコのレモネード”といったフレーズは、1990年代にはなかなか経験できない1970年代のクールさを表すには刺激的な言い方だ。

51. マッシヴ・アタック(Massive Attack)「Teardrop」(1998年)

「Teardrop」はそのタイトルのように流れる涙のようには聞こえず、まるで暗く、うずく傷のように聞こえる。この曲にはコクトー・ツインズのエリザベス・フレイザーがフィーチャーされ、死を悼みながら恐れおののき、かつ魅惑するようなボーカルを聴くことができる。マッシヴ・アタックは最初マドンナにこの曲を歌うよう依頼したというが、考えただけでも理解に苦しむ。今や「Teardrop」を聴けば、エリザベス以外の歌は想像もできないはずだ。

52. マジー・スター(Mazzy Star)「Fade Into You」(1993年)

夢のように眠りを誘い、頭から離れない。最も陳腐な表現を使うならば、まるでデヴィッド・リンチの映画から抜け出してきたような曲だ。こうしたどの言葉を使っても、マジー・スターの「Fade Into You」の深部でくすぶり続けるような美しさを的確に表現することはできない。この曲の特筆すべきところは、自分の気持ちが報われないことを自ら気付かせようとしていながら、ホープ・サンドヴァルのつぶやくようなボーカルでこの曲がまるでラブソングのように聞こえてしまうことだ。

53. メレディス・ブルックス(Meredith Brooks)「Bitch」(1997年)

**I’m a bitch, I’m a lover, I’m a child, I’m a mother
I’m a sinner, I’m a saint, I do not feel ashamed
私はビッチ、私は恋人、私は子供で私は母親**
私は罪人で私は聖人 何も恥じるところはない

メレディス・ブルックスは彼女のヒット曲のサビでこう歌う。メレディスのレーベルは当初こんな挑発的なタイトルの曲をシングルとしてリリースすることには後ろ向きだったが、この曲を一聴したレーベルの上層部達は、「Bitch」がこの言葉をこれまで攻撃に使っていた連中から取り戻そうとしている曲であることにすぐに気が付いたに違いない。

54. マイティ・マイティ・ボストーンズ(The Mighty Mighty Bosstones)「The Impression That I Get」(1997年)

マイティ・マイティ・ボストーンズは1983年に結成され、映画『クルーレス』にチョイ役で出演したり、1995年のロラパルーザで重要なパフォーマンスを見せるなどの活動をしていたが、苦節14年間の後ついに初めての(そして唯一の)大きなラジオヒット曲「The Impression That I Get」をものにした。

ボストーンズ結成当時はイギリスでスカ人気がピークを迎えていた頃で、彼らはその後アメリカのスカ・シーンのゴッドファーザー的存在となって、ノー・ダウトやサブライムといったバンドに影響を与えた。パンチの効いたホーン・セクションからスパイスの効いたグルーヴまでを備えた「The Impression That I Get」は、このリスト中最もキャッチーな曲かもしれない。

55. マイ・ブラディ・バレンタイン(My Bloody Valentine)「Only Shallow」(1991年)

「Only Shallow」の最初数秒を聴いただけで、マイ・ブラディ・バレンタインが他に類を見ないロックバンドであることは明らかになる。アルバム『Loveless(愛なき世界)』のオープニングを飾る吠え狂う壁のようなフィードバック音は、ボブ・ディランの「Like A Rolling Stones」のスネアドラムの音や、マーヴィン・ゲイの「What’s Going On」の話し声やサックスの音色同様、聴く者をたちまちのうちにこのアルバムの新しい音世界に没頭させるような完璧なイントロだ。噂によると『Loveless』の制作でマイ・ブラディ・バレンタインのレーベルは破産してしまったらしい。それが本当なら、「Only Shallow」はそれだけでもそれだけの費用をかけた価値があったのだ。

56. ネナ・チェリー(Neneh Cherry)「Woman」(1996年)

ネナ・チェリーがフェミニストとしての資質充分であったことに疑いはない。今となってはやや古くさい話だが、妊娠7ヶ月で彼女がイギリスBBCのテレビ番組『トップ・オブ・ザ・ポップス』でパフォーマンスした時は一部から非難を浴びたものだ。そしてこの曲「Woman」は彼女が最も鋭く女性の権利を主張した作品だった。「Woman」ではジェームス・ブラウンの「It’s A Man’s Man’s Man’s World」を逆にしたようにこう誇らしげに歌っている。

**This is a woman’s world…
There ain’t a woman in this world, not a woman or a little girl
That can’t deliver love in a man’s world
ここは女性の世界…**
この世界で男の世界で愛を届けられないような女性は
大人の女性だろうが少女だろうが一人もいない

57. ニュー・ラディカルズ(New Radicals)「You Get What You Give」(1998年)

1990年代の終りを冷笑的な態度や大量消費主義が暗くしていた頃に登場した、ニュー・ラディカルズの「You Get What You Give」は暖かく、明るくそして人生を肯定する一筋の陽の光のようなポップ・ソングだった。ニュー・ラディカルズは一発屋としてのみ人々の記憶に残っているが(そしてアルバム1枚で解散してしまった)、この曲は強く印象に残るヒットだった。

58. ナイン・インチ・ネイルズ(Nine Inch Nails)「Closer」(1994年)

ここでよくある誤解を正しておこう。

You let me violate you / You let me desecrate you
君は僕に蹂躙されることを許し / 僕に汚されることを許す

こうした冒頭の一節やコーラスの歌詞は明らかに欲望を露わにしているものの、ナイン・インチ・ネイルズの「Closer」はセクシーな曲ではない。この歌詞は欲望のことを歌っているのではなく、他の誰かを自分自身の壊滅の手段として利用したくなるような猛烈な自己嫌悪のことを歌っている。とはいえ「Closer」はまごうかたなく不安を呼び起こすようなグルーヴを持っている、いわばニヒリストにとってのジョージ・マイケルの「I Want Your Sex」だ。

59. ニルヴァーナ(Nirvana)「Smells Like Teen Spirit」(1991年)

「僕は究極のポップ・ソングを書こうとしていた」1994年にカート・コバーンは「Smells Like Teen Spirit」のことを語っている。ニルヴァーナの大ヒット曲は、新しいポピュラー音楽の時代の先駆けとなり、マイケル・ジャクソンをビルボード誌のチャートのトップから引きずり下ろし、ヘア・メタルを過去のものにしてしまった。レコーディングから30年経った今でも、この曲はポップソングの最高峰として君臨している。

60. ノー・ダウト(No Doubt)「Just A Girl」(1995年)

「Just A Girl」はいくつかの点でノー・ダウトにとってのブレイクスルー・ヒットだった。この曲はヴォーカルのグウェン・ステファニーが兄の手助けなしに書いた最初の曲で、ノー・ダウトにとって最初のチャート・ヒットだった。グウェンがヘソ出しのミニTシャツを着て眉間にビンディー(インドの女性が付ける丸い印)を付けた有名なビジュアルはその後彼女のイメージを長らく定義するのだが、そのビデオがなかったとしても「Just A Girl」は彼女とノー・ダウトをスターにするに充分だっただろう。

61. オアシス(Oasis)「Wonderwall」(1995年)

このオアシスの有名曲は、無数のアマチュア・ギタリスト達が楽器店やパーティーでヘマな演奏をしてきたために、ある意味ジョークのようになってしまっているが、「Wonderwall」自体は不朽の名曲だ。

**There are many things that I would like to say to you
But I don’t know how
君に言いたいことはいろいろあるけど
でもどう言えばいいか判らないんだ**

リアム・ギャラガーは、カート・コバーンが見せたティーンエイジャーの怒りと同じくらい永遠に変わらぬ恋に破れた男の誠実さで歌っている。

62. オフスプリング(The Offspring)「Come Out And Play」(1994年)

オフスプリングの3作目のアルバム『Smash』はインディ・レーベルからリリースされたアルバムとしては最高の売上を記録したレコードだ。そしてなぜこのアルバムが成功したかを理解するのは難しくない。1994年にはパンクはそれまでにないほど人気を集めていて、『Smash』からのリードシングル「Come Out And Play」はビルボード誌のオルタナティブ・エアプレイ・チャートに半年もの間チャートインしただけでなく、メインストリームのロックやポップのラジオ局でもヘビー・ローテーションのヒットとなったのだ。

63. OMC「How Bizarre」(1995年)

OMCの世界的ヒット「How Bizarre」が1990年代半ばの頃のラジオでかかるどの曲とも似ていなかったのは、OMCがグランジやブリット・ポップ、ギャングスタ・ラップといったその頃の音楽の震源地から何千マイルも離れたニュージーランド出身のバンドだったからだ。フィルとポーリーのフエマナ兄弟はポリネシア風の楽器演奏とアメリカのヒップホップとR&Bの要素をミックスさせて、まったくユニークなアーバンスタイルの太平洋諸島サウンドを作り出したのだ。

64. ペイヴメント(Pavement)「Cut Your Hair」(1994年)

**Songs mean a lot when songs are bought
And so are you
歌はそれを買ってくれる人がいると大きな意味を持つ**
君もそうだ

スティーヴン・マルクマスは、「Cut Your Hair」で悪質な音楽業界とそれに迎合する名声欲に飢えたバンドに対する皮肉たっぷりな一撃をお見舞いしている。「Cut Your Hair」はペイヴメントの曲で一番ヒットした曲で、米ビルボード誌のオルタナティブ・エアプレイ・チャートでトップ10まで上昇した。多分それが理由で、スティーヴンは次のアルバム『Wowee Zowee』ではペイヴメントのサウンドをよりゴツゴツとした一般受けしそうもない方向に変えたのだろう。

65. パール・ジャム(Pearl Jam)「Alive」(1991年)

1990年、エディ・ヴェダーの友人が彼に、シアトルで活動するストーン・ゴッサードという名のギタリストが録音したインストのデモ・テープを手渡した。エディは自分のボーカルを加えてテープを送り返したところ、ストーンはそれをえらく気に入り、当時結成したばかりのバンドにエディを誘った。そのバンドはその後オルタナティブ・ロックを代表するバンドの一つ、パール・ジャムとなり、エディが完成に手を貸した曲の一つが、今に至るまで彼らの曲の中で最大のアンセムであり、最も愛されている曲、「Alive」だ。

66. PJ・ハーヴェイ(PJ Harvey)「Down By The Water」(1995年)

PJ・ハーヴェイが彼女の名前と同名のバンド名義でレコーディングした2枚のアルバムは、1990年代のアルバムの中でも最も激しい作品だ。往々にしてパンク・ブルースと呼ばれているが、一音一音がグランジやライオット・ガールといったサウンドと同じくらいテンションが高い。彼女の初ソロシングル「Down By The Water」では、PJはパンクの要素を控えめにしてブルースの要素を強くし、レッドベリーやミシシッピ・ジョン・ハートといった伝説のブルースマン達がカバーしたアメリカのクラシックなフォーク・ソングを見事に自分のものにしたのだ。

67. ポーティスヘッド(Portishead)「Glory Box」(1994年)

「Glory Box」は音楽的なものであると同じくらい化学的な物質のように感じられる。ジェフ・バーロウによる陰湿な音風景、ベス・ギボンズの震えるようなヴォーカル、そしてエイドリアン・アトリーのギターフレーズが作り出す音の錬金術があまりに完璧なので、もしそれらのバランスを崩そうとすると曲が全く変化してしまうほどだ。それがポーティスヘッドがトリップ・ホップにおける最高のアーティストの一つであり、彼らを模倣しようとする者が決して彼らの暗いオーラを再現することができない理由なのだ。

68. プライマス(Primus)「Jerry Was A Race Car Driver」(1991年)

もしあなたが1990年代にベースを始めたとしたら、多分プライマスのベーシスト、レス・クレイプールの演奏を聴いてその気になった可能性が高い。レスはほとんどのギタリストが6本の弦で表現できるサウンド以上のものを4本の弦で引き出すことができる。このクレイジーなほどのベースのスキルがあったからこそ、プライマスは「Jerry Was A Race Car Driver」でメインストリームに参入できたのだ。そしてあなたがこの歌が何の歌だったかさっぱり覚えていないとすると、多分それはこの曲に合わせてエアー・ベースを弾くのに夢中になっていたからだろう。

69. ロス・プリジオネロス(Los Prisioneros)「Tren al sur」(1990年)

南米チリのバンド、ロス・プリジオネロスの有名なシングル3曲で特筆すべきなのは、それぞれの曲が音楽的に明確な特徴を持ちながら、そのどれもが鋭い社会的コメントを提供していることだ。

「El baile de los que sobran(残された者達の踊り)」は階級間の格差についてのガンガン鳴り響くニュー・ウェイヴの曲、ロカビリー調の「We Are Sudamerican Rockers」はチリのアウグスト・ピノチェト軍事独裁政権へのプロテスト・ソングだ。彼らの最後のヒット「Tren al sur(南に向かう列車)」はその元気いっぱいのシンセ・ポップな曲調とは裏腹に、子供の頃に乗った列車から見た人々の貧窮の光景を描いた曲だ。

70. プロディジー(The Prodigy)「Firestarter」(1996年)

先日他界したキース・フリントはプロディジーにダンサーとして加入したが、バンドの3作目『The Fat Of The Land』ではバンドのリーダーの役割も担うようになっていた。彼の威嚇するようでいて茶目っ気のあるヴォーカルが聴ける「Firestarter」は、誰が歌っていようと間違いなく世界的なヒットになったであるような屈折したドンチャン騒ぎのような曲だ。キースは威嚇的にこう吠えて自慢する。

**I’m the fear addicted, danger illustrated
俺は恐怖中毒者でヤバいのを絵に描いたような男さ**

だが彼があなたに炎を起こすようにそそのかす様子には、彼から目を離すのが不可能になるような何かがあるのだ。

71. パルプ(Pulp)「Common People」(1995年)

ブラーのデーモン・アルバーンよりは洗練されていて、オアシスのノエル・ギャラガーよりは階級意識を強く持つジャーヴィス・コッカーは、社会的コメントとしても解釈できる二重の意味を持った曲を書いた。「Common People」は特権階級を受け継ぐ女性の無関心さを痛烈に批判しているが、ジャーヴィスが最も辛辣なことを歌っている時でも、その曲はアンセム風であり喜びに満ちているようにさえ聞こえる。

**‘Cause everybody hates a tourist
Especially one who thinks it’s all such a laugh
だってみんな旅行者は大嫌い**
特に何事もすべて笑い話だと思っている輩は

この曲はただのパルプの最高作品ではない。間違いなく1990年代を代表する最高の曲だ。

72. R.E.M.「Losing My Religion」(1991年)

「Losing My Religion」はポピュラー音楽史で最も有名なマンドリンの使い方をしている曲だが、仮にあの忘れられないリフがマンドリンではなくオーボエやファゴットで演奏されたとしても、R.E.Mはこの曲をヒットさせていただろう。もともと彼らの歌詞は不可解なものが多いのだが、ヴォーカルのマイケル・スタイプが口の中でモゴモゴと歌詞を歌う癖があることを考えると、ここでの彼の歌は極めてクリアで、彼が感情の混乱を包み隠さず表現する様子には実際心を和ませるものがある。

73. レディオヘッド(Radiohead)「Creep」(1992年)

レディオヘッドと「Creep」の関係は控えめに言っても複雑なものだ。バンド最大のヒットなのだが、彼らは長年この曲をライヴで演奏することを拒んでいて、リーダーのトム・ヨークなどこの曲をリクエストする観客を叱りつけるほどだ。この曲のグランジっぽい轟音ギターにはその後のレディオヘッドの作品との共通点がほとんどないにしても、この曲は近代音楽史における最も有名曲として語られ続けるだろう。おまけに2008年にはコーチェラ・フェスティバルでプリンスが仰天するようなこの曲のカバーを演奏するという、最高の栄誉を勝ち得ている。

74. レイジ・アゲインスト・ザ・マシーン(Rage Against The Machine)「Killing In The Name」(1991年)

**Some of those that work forces / Are the same that burn crosses
力をはたらかせる者の中には / 十字架を燃やす者と同じ者がいる**

発売から何十年も経った今でも、レイジ・アゲインスト・ザ・マシーンによる警察の暴力と組織的人種差別に対する扇動的な告発は、火炎瓶のような熱を放ちながら燃え盛っている。

75. レッド・ホット・チリ・ペッパーズ(Red Hot Chili Peppers)「Under The Bridge」(1991年)

長靴下をあそこに履いただけの出で立ちでギグを敢行すること悪名高いバンドの曲にしては「Under The Bridge」は驚くほど美しく、傷つきやすさを感じるほどだ。この曲はレッド・ホット・チリ・ペッパーズのリーダー、アンソニー・キーディスが孤独と薬物依存について書いた詩から生まれたもので、彼自身は気が進まなかったが、バンドメンバー達が是非これを曲にしたいと考えたのだ。こうして生まれた「Under The Bridge」はトップ10ヒットになり、地元のパーティでロックするバンドだったレッチリをスタジアムを満員にする人気バンドに変貌させたのだった。

76. ロニ・サイズ/レプラゼント(Roni Size / Reprazent)「Brown Paper Bag」(1997年)

そのしなやかなベースと氷のように冷たく響くキーボードで、「Brown Paper Bag」は1990年代エレクトロニカと1970年代のマイルス・デイヴィスの中間点のように聞こえる。この9分にわたるエレクトロニックの旅のような曲は、ロニ・サイズとドラムンベースをメインストリームに導いたいくつかのシングルのうちの一枚だった。

77. スカンク・アナンシー(Skunk Anansie)「Hedonism (Just Because You Feel Good)」(1996年)

スカンク・アナンシーのようなサウンドのブリティッシュ・ロック・バンドは1990年代にはそう多くなかったし、リーダーのスキン(本名デボラ・アン・ダイヤー)がいたために彼らのようなルックスのバンドは更に少なかった。黒人でスキンヘッドでバイセクシャルを公表していた彼女の感情的なボーカルは、怒りから一瞬にして傷つきやすいボーカルに一変することができた。「Hedonism (Just Because You Feel Good)」は、破局の後のスキンが、元彼に対して彼とその新しい愛人がハッピーだからといって、二人が完全に終わった訳ではないことを警告している様子をとらえている。

78. スマッシング・パンプキンズ(The Smashing Pumpkins)「1979」(1995年)

スマッシング・パンプキンズは90年代オルタナティブ・ロックの最前線にいたが、当時の多くのグランジ・バンドとは違い、パンクの影響は受けていなかった。代わりに、ビリー・コーガンは自分に対する自己嫌悪をヘヴィ・メタル、プログレッシブ・ロック、ドリーム・ポップそしてエレクトロニカまで使って楽曲としてパッケージした。「1979」を聴くとこうした全てのサウンドが不思議な醸造酒のようにあたりを漂っているように聞こえて、ビリーの怒りは、自分の思春期を思い返す時の切ないノスタルジーへと和らいでいくのだ。

79. ソニック・ユース(Sonic Youth)「Kool Thing」(1990年)

ソニック・ユースのファンにとってはこれ以上のショックはなかったに違いない。ニューヨークのアングラ・ロック・シーンの中心的存在だったソニック・ユースがメジャー・レーベルと契約し、そのDGCレコードからの最初のシングルではさりげなくLLクールJにジャブをかまし、おまけにパブリック・エナミーのチャック・Dのボーカルまでフィーチャーしていたのだから。

だが、ソニック・ユースがセルアウトしたとか、エッジを失ったなどというのはいわれもない意見だ。「Kool Thing」はソニック・ユースがそれから20年に亘って、自らが創り出したオルタナティブ・ロック・ムーブメントの最前線に立つことの始まりとなったのだ。

80. サウンドガーデン(Soundgarden)「Black Hole Sun」(1994年)

シアトルから登場したグランジ・バンドの中で、サウンドガーデンはクリス・コーネルのパワフルなヴォーカルと、キム・セイルの濁ったようなギターの音色でレッド・ツェッペリンやブラック・サバスが引き合いに出されるほど、最もヘヴィーなサウンドを持ったバンドだった。

「Black Hole Sun」を書いた時、クリスはサイケデリック・グランジとでもいうものを創るためにちょっと昔に遡ってビートルズにヒントを求めた。この曲がオルタナティブ・ロックのピークの年だと言っていい1994年の、ビルボード誌の年間オルタナティブ・ロック・ソング・チャートの1位を飾ったことは、クリスの作曲技術の高さの証明だ。

81. スパイダーベイト(Spiderbait)「Buy Me A Pony」(1996年)

スパイダーベイトは、「Calypso」が最高のティーンコメディ映画『恋のからさわぎ』に使われたことで一瞬アメリカでその名を知られることになったが、このとんがったオーストラリアのポップ・パンク・バンドのファン達の間でより知られていたのは「Buy Me A Pony」だろう。たった2分にもならない曲なのにこれだけ多くのフックをこの曲に詰め込むことのできるスパイダーベイトには驚かされる。

82. セイント・エティエンヌ(Saint Etienne)「Only Love Can Break Your Heart」(1990年)

ニール・ヤングの有名バラード曲のダンス・バージョンというアイデアは聞くからにうまくいかないように聞こえる。ところがセイント・エティエンヌは「Only Love Can Break Your Heart」のカバーで、オリジナルの情熱的な意味合いをそのままに、クラブではなく自分の寝室で踊るのにぴったりの、もの悲しくも素朴な魅力のカバーを作り上げたのだ。

83. ステレオラブ(Stereolab)「French Disko」(1993年)

ビョークやレディオヘッドなど厳しい競争相手がいたが、ステレオラブはフレンチ・ポップからジャーマン・ロック、そしてブラジリアン・ジャズまで駆使する1990年代で最もアヴァンギャルドなメジャー・アーティストだったのかもしれない。「French Disko」は、ドイツの前衛的ロック、クラウトロックの機械的な精密さと1960年代フランスのイエイエ・ポップの甘さを融合した、彼らの曲の中でも最も純粋なポップ・ナンバーだ。

84. ストーン・テンプル・パイロッツ(Stone Temple Pilots)「Interstate Love Song」(1994年)

ストーン・テンプル・パイロッツはその最盛期にあっても、ニルヴァーナやパール・ジャムらが受けたようなリスペクトを受けることはほとんどなかった。ローリング・ストーン誌は1994年に彼らを“最低の新人バンド”と評し、ペイヴメントのスティーヴン・マルクマスはそのアルバム『Range Life』の中で彼らのことを皮肉っぽく“エレガントな独身男達”と呼んていた。しかしストーン・テンプル・パイロッツのメンバーは、彼らの中傷者たちが考えていたよりずっと優れたソングライターで、「Interstate Love Song」はそのディストーションの効いたギターリフと、愛する人に嘘をつくことについての驚くほど優しい考えを提示した、間違いなく彼らの最高級のシングルだ。

85. サブライム(Sublime)「What I Got」(1996年)

サブライムの「What I Got」とそれを収録したアルバムの成功は間違いなくバンドとそのファンにとってはほろ苦いものだった。なぜならリーダーのブラッドリー・ノウェルはヘロインの過剰摂取でこのシングルのリリースわずか数ヶ月前に他界していたからだ。しかしその訃報がなくとも、ゆったりとしたギターと暖かいシンセのメロディで「What I Got」は間違いなくヒットになっていただろうから、この成功をブラッドリーの死と結びつけるのはあまりに単純というものだ。スケート・パンクやパーティ野郎達のためのグレイトフル・デッド的なマントラだと思えばいいのだ。

86. ザ・サンデイズ(The Sundays)「Here’s Where The Story Ends」(1990年)

スミスのギターを掻き鳴らすようなインディ・ポップは無数のブリット・ポップ・バンドに多大な影響を与えたが、彼らの特徴である物悲しさを再現しようとしたバンドはそんなに多くなかった。そしてそれに一番成功したのはブリット・ポップのバンドですらなかった。滑らかにかき鳴らされるギターからそのタイトルまで、ザ・サンデイズの「Here’s Where The Story Ends」は“スミスっぽいサウンド”プレイリストに何の違和感もなく溶け込むだろう。それでも、ハリエット・ウィーラーの天使のような歌声は彼女独特のものだし、スミスのモリッシーでは決して真似できないような純真さを表現している。

87. スザンヌ・ヴェガ(Suzanne Vega)「Blood Makes Noise」(1992年)

スザンヌ・ヴェガの4枚目のアルバム『99.9F°』は、いくつかのトラックでエレクトロニックなビートを取り入れるなど、フォーク系のソングライターとしての路線からはショッキングに逸脱していた。最初に際立っていたのは機械的ながら滑らかなサウンドの「Blood Makes Noise」で、それまでレコーディングしたどの曲よりもスザンヌというよりはナイン・インチ・ネイルズっぽいものだ。この新しい方向性に失望した長年のファンもいたが、この曲は多くの新しいファンを勝ち得て、米ビルボード誌のオルタナティブ・エアプレイ・チャートの首位を勝ち取ったのだった。

88. テンプル・オブ・ザ・ドッグ(Temple of the Dog)「Hunger Strike」(1991年)

マザー・ラヴ・ボーンのリーダー、アンドリュー・ウッドが1990年に他界した時、彼の以前のルームメイトだったクリス・コーネルは、アンドリューのバンド仲間2人、ギターのストーン・ゴッサードとベースのジェフ・アメンを集めて、彼らの亡くなった仲間の追悼のためにテンプル・オブ・ザ・ドッグを結成した。

その後メンバー達はサウンドガーデンとパール・ジャムのメンバーとしてさらなる高みに達することになるのだが、テンプル・オブ・ザ・ドッグは、グループ名をタイトルにしたアルバムとそのリードシングル「Hunger Strike」のチャートでの成功で証明されたように、それ自体が強力なバンドだった。この曲はグランジの初期の作品の一つであり、その中でも最も重要な作品の一つだ。

89. ザット・ドッグ(That Dog)「Minneapolis」(1997年)

ザット・ドッグはそのメンバーが生まれつき才能に恵まれていたと言っていいだろう。ヴォーカルでソングライターでギターのアンナ・ワロンカーはあの有名な元プロデューサーでレコード会社重役のレニー・ワロンカーの娘であり、バンドメンバー2人の父親は伝説のジャズ・ベーシスト、チャーリー・ヘイデンだったのだから。彼女達の血統は間違いなく多くの機会への扉を開いたが、多くの人々をバンドに結びつけたのは、アンナの作曲技術の高さだった。「Minneapolis」の場合、LAのライヴハウス、ジャバージョウでのロウ(Low)のコンサートに行った時にアンナが先に帰りたいと友達に告げた時のきまり悪さのディテールなどが聴く者をこの歌の物語に引き込むのだ。

90. トーディーズ(Toadies)「Possum Kingdom」(1994年)

「Possum Kingdom」の最初の4分くらいはごく普通のポスト・グランジの曲のように聞こえるが、トーディーズのリーダーのヴェイデン・トッド・ルイスは次に「君は死にたいか?(Do you wanna die?)」と尋ねかけてくる。この一言でこの曲は一気に不気味さを増すのだが、それには理由がある。ヴェイデンは「Possum Kingdom」を別の曲「I Burn」で書き始めた物語の第二部として書いたのだが、それは焼身自殺するカルト宗教のメンバーの話だった。それが原因でヒットしなかったわけではないのだが。

91. トーリ・エイモス(Tori Amos)「Cornflake Girl」(1994年)

トーリ・エイモスが「これまでコーンフレイク・ガールだったことはない」と歌った9年前に、彼女がケロッグの広告に出ていたというのはもの凄い偶然ではないか?もちろん「Cornflake Girl」は朝食のシリアルのことではなく、友人だと思った人が信頼を裏切ってしまうことについて歌ったものだ。この曲で使われたエレキギターの音色がオルタナティブ・ロック・ファンの琴線に触れ、この曲はトーリの最大のヒットの一つとなった。

92. ザ・トラジカリー・ヒップ(The Tragically Hip)「Little Bones」(1991年)

あなたがアメリカ人だとしたら、ザ・トラジカリー・ヒップがカナダであれほど崇拝されていることが理解できないだろう。彼らの音楽は、同郷のファンに国が同じで、その文化と歴史に触れているからということでアピールしているだけではなく、個人的なレベルでも誠実さと共感できる内容にあふれているから彼らの人気を支えているのだ。「Little Bones」はザ・トラジカリー・ヒップのベストの楽曲の一つであり、彼らに馴染みのないリスナー(とアメリカ人)には適切な入門曲だ。

93. トリッキー(Tricky)「Overcome」(1995年)

アルバム『Maxinquaye』以前に、トリッキーはマッシヴ・アタックの創設メンバーの一人であり、彼らの最初の2枚のアルバム『Blue Lines』と『Protection』に参加している。それらのアルバムのすぐ後にソロ活動を始めたトリッキーは、『Protection』に収録された「Karmacoma」を取り上げてより荒々しく陰鬱なバージョンに作り変えた。水面を叩くように聞こえるビートに乗ったマルティナ・トプリー・バードのボーカルをフィーチャーした「Overcome」があってはじめて『Maxinquaye』はトリップ・ホップの傑作となったのだ。

94. アンダーワールド(Underworld)「Born Slippy.NUXX」(1995年)

80年代後半にそこそこのシンセポップのレコードをリリースした後、アンダーワールドは1990年代半ばにハウス&テクノ・バンドとして自らをリブートした。シングル・エディットで聴こうが12分近い完全バージョンで聴こうが、全開で聴く者を突き動かす、熱狂的できらびやかなレイヴ・ナンバー「Born Slippy.NUXX」で彼らはそのパワーのピークを迎えたのだった。

95. ザ・ヴェルト(The Veldt)「Soul In A Jar」(1994年)

彼らのデビューアルバム『Afrodisiac』のタイトルを決めて、ジャケットに色を反転した黒人女性のイメージを載せることで、ザ・ヴェルトがどういう音楽を作っていたのかは明白だ。それはソウルフルなボーカルがフィーチャーされたきらびやかなシューゲイザーである。レーベルが彼らをどうやってマーケティングすればよいか結局判らなかったのは残念だ。というのも「Soul In A Jar」のようなトラックが証明しているように、ザ・ヴェルトはオルタナティブ・ロック・ラジオ局での定番となるべきバンドだったからだ。

96. ヴェルーカ・ソルト(Veruca Salt)「Volcano Girls」(1997年)

そのタイトルが示すように爆発的に弾けるようなグランジ・ポップ曲「Volcano Girls」はヴェルーカ・ソルトにとって米ビルボード誌のモダン・ロック・トラックス・チャートのトップ10に昇る2曲目のヒットになった。注意深いファンなら、サビの部分で彼女達のその前のヒット「Seether」に触れている部分があることに気が付いただろう。

**I told you ‘bout the seether before
You know, the one that’s neither or nor
Well, here’s another clue if you please
The seether’s Louise
前にシーザーのこと、話したよね**
ほら、あれでもなければこれでもないってあいつ
よかったらここでもう一つヒントをあげるね
シーザーってルイーズなの

そしてこの歌詞のスタイルはビートルズの「Glass Onion」へのオマージュなのだ。

97. ザ・ヴァーヴ(The Verve)「Bitter Sweet Symphony」(1997年)

リチャード・アシュクロフトは、「Bitter Sweet Symphony」トラックを構成する、ローリング・ストーンズの「The Last Time」のオーケストラ部分の録音ループのサンプリングのクリアランスをし損ねていたため、何百万ドルもの損失を被ることになった。だがこうしたいろんな法的紛争もこの曲自体の素晴らしさを損なうことはできなかった。「Bitter Sweet Symphony」はザ・ヴァーヴの傑作であり、ブリット・ポップ時代最後の名曲なのだ。

98. ウィーザー(Weezer)「Say It Ain’t So」(1994年)

KISSやスコーピオンズといったハード・ロック・バンドが好きなリヴァーズ・クオモの趣味は、そうしたギターソロに自己陶酔するような音楽を冷笑するような多くの1990年代のオルタナティブ・ロック・ファンとは完全に対立するものだった。ウィーザーの最初の同名タイトルアルバムの成功の決め手は、リヴァースがそういう演奏技術能力を、グランジ特有の感情の鮮やかな表現をもつ楽曲の中でうまく見せていたことだ。いい例が「Say It Ain’t So」だ。この曲はアルコール依存症と家族についてのティーンエイジャーの動揺した思いを、思わず聴く者がエアギターを弾きたくなるようなソロと結びつけている。

99. ホワイト・タウン(White Town)「Your Woman」(1997年)

違う違う、ホワイト・タウンの一発ヒット「Your Woman」の冒頭で聞こえてくるのはスター・ウォーズの「The Imperial March(帝国のマーチ〜ダース・ベイダーのテーマ)」じゃなくって、古いジャズの曲から取られたメロディだ(同じサンプリングは、デュア・リパの「Love Again」でも聴くことができる)。どちらかといえば「Your Woman」はローファイなプリンスのように聞こえるが、そう、この歌はそのサウンドと同じくらい素晴らしいものだ。

100. ヨ・ラ・テンゴ(Yo La Tengo)「Autumn Sweater」(1997年)

90年代にあなたが高校時代に惚れた彼女にミックステープを作っていたとして、この曲をトラックリストに入れたら間違いなくあなたの下心はバレてしまっていただろう。一時期のオルタナティブ・ロックやインディ・ロック・キッズの間でセックスのためのクラシック曲とされていた、ヨ・ラ・テンゴの「Autumn Sweater」はそのタイトルのセーターと同じくらい暖かでボンヤリとしていて、震えるようなオルガンと湧き上がるようなパーカッションの音が恥じらいと欲望の両方を喚起するのだ。

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Written By Jacob Nierenberg

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