【加藤伸一連載コラム】98年オフ オリックスとの初交渉で驚くべき人物が同席!!

西鉄時代から盟友だった仰木監督と河村コーチ(右)

【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(38)】広島を自由契約となった1998年オフ、6球団との入団交渉を進めていく中で、想定外の展開となったのは10月19日、オリックスとの初交渉の席でした。それまでも電話での話し合いはしていましたが、とりあえず一度お会いしましょうということで福岡市内の和食店を訪れたときのことです。

オリックス側は編成担当の流(ながれ)敏晴さんと矢野清さんがいらっしゃると聞いていたのですが、いざ指定された店の座敷席に上がろうとしたら、なぜか靴が3足ありました。不思議に思いながらも「失礼します」と言ってふすまを開けると、まず目に飛び込んできたのは10代のころからよく知る大きな顔。プロ入り時に南海の投手コーチだった河村英文さんの同席には心臓が止まるかと思うほど驚きました。

英文さんは公私ともお世話になってきた恩師です。九州最大の歓楽街、中洲で経営されていたスナック「MEET15」で進路に関する相談もさせていただき「やっぱり野球は巨人。俺も小さいころは憧れていた」とのアドバイスをもらい、巨人か古巣ダイエーに絞り込んでいたほど。それなのに、目の前の英文さんは「お2人は遠く神戸から来ていらっしゃる。今、返事しなさい。俺も仰木から投手コーチを仰せつかって、お土産を持って来いと言われとるんや」と言うのです。英文さんにとって、オリックス監督の仰木彬さんは西鉄時代からの盟友。2人がタッグを組んでチーム再建に乗り出すにあたり、お前も手を貸せというわけです。

頭の中は無数の「?マーク」で埋め尽くされました。もちろん即答などできません。妻とも相談して悩みに悩みました。子供たちとも満足に触れ合えない3年に及ぶ単身赴任生活にも疲れていたし、そうかと言って、それだけで新たな職場を決めていいものなのかという思いもあったり…。

一方で、大事なのは人の縁かな…とも考えました。お世話になった人のために一肌脱ぐのも人生なんじゃないか…と。そうこうしているうちに、僕から要望した条件面の見直しを認めてもらえたこともあり、オリックス入りを決めたのですが、そこには「恩師に請われたのでオリックスに決めました」と言えば、他の5球団に申し訳が立つんじゃないかという計算もありました。

聞くところによれば、結婚より離婚の方が大変だといいます。各球団との入団交渉の過程ではフランス料理や中華のコース料理を振る舞われることもありましたが、ラブコールを送った相手から「ごめんなさい」と言われたらどうなるか。それまでの敬語はぞんざいな物言いに変わり「一体、うちの何がダメだったわけ?」と問いただされることもありました。

愛をささやくより、別れ話を切り出す方が神経を使うという点で、FAも含めた自由契約になっての入団交渉は恋愛や結婚と似ているとも言えるでしょう。2001年オフ、FA宣言した際に代理人を立てたのは、この時の苦い経験があったからです。

☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。

© 株式会社東京スポーツ新聞社