コロナ禍のしんどさに寄り添う「おもかげ復元師」  震災犠牲300人の遺体が教えてくれたこと

 見つかった遺体はどれも、津波による損傷や腐敗で変わり果てていた。1万5千人を超える死亡が確認された2011年3月の東日本大震災。岩手県北上市の納棺師、笹原留似子さんは「生前の良い顔でお別れすることが、遺族の生きる力になる」と信じ、ボランティアで復元し続けた。その数300体以上。生前の姿を笑いじわに至るまで再現する姿から、いつしか「おもかげ復元師」と呼ばれるようになった。現在は新型コロナウイルス禍に直面する介護関係者らを支援。10年前の経験が、思わぬ形で求められている。(共同通信=山口恵)

 ▽絶対断らない

 震災発生の数日後、笹原さんは甚大な被害が出た沿岸部の岩手県陸前高田市にいた。安置所の体育館には3歳くらいのかわいい女の子が横たわっている。腐敗が始まっていたものの「元に戻せる」と直感した。しかし、家族や親族からの依頼のない遺体に納棺師が触れることは許されない。後ろ髪を引かれる思いで安置所を後にし「遺族に復元を頼まれたら、絶対に断らない」と誓った。

笹原留似子さんが描いた安置所で出会った女の子のイラスト=笹原さん提供

 被災地に通う日々が始まった。自宅は内陸部にあり、片道2時間以上かかる。遺体の修復に使うファンデーションなどのメーク用具や使い捨ての手袋などを車のトランクに詰め込み、安置所を訪ね歩くうち、口コミで知った遺族から依頼が入るようになった。

 髪や顔に付いた泥は丁寧に取り除く。顔のこわばりはマッサージし、手のぬくもりを伝えて和らげる。特殊なファンデーションを混ぜ合わせ、皮膚のつやを再現する…。当時は春から夏に向かう時期。遺族が手や頰に触れられるよう、ハッカ油などを使い、においも極力取り除いた。

 通常は生前の写真を見ながら復元することも多いが、津波ですべてを失った人が多く、写真がある方がまれだった。

 「あ、お母さん、お母さんだ!」。遺体の顔を見た遺族が、いつもの名前で呼んでくれる。生前の姿に近づけた何よりの証拠だ。

 新生児から90歳代のお年寄りの遺体まで、5カ月近くの間、連日復元を続けた。自宅を流された被災者も多く、実施場所は安置所の体育館が大半。遺族の信頼を得ていく姿や、その技術を目の当たりにした現場の警察官らが、積極的に協力してくれるようになった。

 「遺族、遺体を搬送した自衛隊や消防、安置所を見守った警察…。みんな犠牲者を思うチームだった」と振り返る。

東日本大震災の犠牲者の復元に取り組む笹原留似子さん=2011年3月下旬、岩手県釜石市(笹原さん提供)

 ▽しょっぱいおにぎり

 それでも、現地に向かう足が止まったことが一度だけある。「子どもを置いて毎日、被災地に行って…」。周囲の人が話す声が聞こえてきた。シングルマザーで、長女は当時、中学2年。長男は小学4年。同居の父が子どもたちの面倒を見てくれていた。被災地へ行くのをやめて自宅にいると、長男が話しかけてきた。

 「今日は被災地に行かないの」

 「あなたたちのそばにいようかなと思って」

 「ママが行かないと、泣いている人は困るんじゃない。困っている人を放っておくママは嫌いだ」

 長男は小さな手でおにぎりをたくさん握り、笹原さんを送り出してくれた。「あの時のおにぎり、すごくしょっぱくて」。忘れられない味と笑う。

 長女はその後、医学部に進学。救命救急医を目指している。長男は陸上自衛隊に入り、災害救助に携わる。「後ろ姿を見ててくれたのかなあ。家族の理解が被災地で活動を続けるエネルギーになった」

納棺師の笹原留似子さん

 ▽遺族の電話、今も

 家族が集まるようなクリスマスやお正月、震災が起きた3月11日が近づくと、今でも多くの遺族から電話がかかってくる。亡くした存在の大きさを突き付けられ、当時を思い出して気持ちが不安定になる人も多いという。

 「笑っても、幸せになっても、いいんでしょうか」「娘はもういないけど、ケーキを買ってあげたい。駄目かなあ」

 そのたびに「いいんだよ!やっちゃ駄目なことなんて、何一つないんだよ!」と明るく返すが、胸はいつもぎゅっと締め付けられる。

 「死を無理に受け入れる必要はない。共に生きていくための方法を一緒に探していくのが、私の役割かなと思う」。13年には、遺族らと共に亡き人の思い出や被災地の今を紹介する一枚紙「いのち新聞」を発行。20年12月で12号となった。

笹原留似子さんが編集長を務め、遺族らと発行する「いのち新聞」最新号

 被災地では、いまだに計2500人以上の行方が分かっていない。「ちゃんと探してもらえているのだろうか」「そもそも、遺体や遺品の捜索ってどのように行われているんだろう」。家族がいなくなった実感がいまだに湧かず「まだ信じたくない」と、もやもやした気持ちを抱え続けたままの人もいる。

 笹原さんは「疑問に可能な範囲で答え、安心してもらうことが遺族の気持ちの整理につながる」と考える。つなぎ役になろうと、警察や海上保安庁などに疑問をぶつけるのが難しい遺族に代わり、自ら警察などの捜索活動に参加し、経験を伝えるようにしている。

 逆に警察などの災害対応訓練に呼ばれた際は、遺族に説明する言葉遣いや、安心できる安置所の動線などを助言する。命やグリーフケア(死別による悲嘆への寄り添い)をテーマにした介護や看護職向けの講演会に呼ばれることも多い。

東日本大震災から10年を前に、警察などの行方不明者捜索に加わる笹原留似子さん=2021年3月10日、岩手県釜石市(笹原さん提供)

 ▽深まる断絶

 新型コロナウイルス禍は、笹原さんの活動にも大きな影響を及ぼした。講演は軒並み中止や延期に。本業の納棺でも、客足が途絶えたために自ら命を絶ったとみられる自営業者の遺体を請け負ったこともある。

 コロナ禍の特徴として、「大切な人の死に区切りを付けられない遺族が多くいる」と感じている。多くの医療機関や高齢者施設では、感染防止のため家族のみとりが許されず、日々の訪問や見舞いも満足にできない。介護や看護の現場では、通常のケアができずに苦しむ専門職も多い。

 緊急事態宣言の合間を縫って行った看護関係者ら向けのセミナーでは、参加した女性が終了後、駆け寄ってきて「つらいんです」と突然泣きだした。

 「ソーシャルディスタンスを徹底するあまり、あちこちで断絶が生まれている。コロナもまさに『災害』だけど、集まったり、触れ合ったりして心を通わせられない分、震災よりしんどいかもしれない」

 ▽死の専門職

 収束が見通せない中で、震災時の笹原さんの経験をヒントにしたいという講演依頼が増えてきた。「10年前の話をこんなに求められるとは思わなかった。終わりの見えないコロナ禍で、みんな『次はどうなるのか』を知りたがっている」と受け止めている。講演では「記録を残し、学びを周囲と共有して。今の苦労はきっと10年後の誰かを支えるはずだよ」と伝えている。

 自らを「死の専門職」と表現する笹原さんが大切にしていることがある。「明日も生きられる保障はないから、後悔しないように今をひたすら全力投球で生きる。周囲に『ありがとう』や『ごめんなさい』をきちんと言う」。遺体や遺族から教わったことを胸に、今も走り続けている。

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