京都市伏見区の京都アニメーション第1スタジオが放火され、36人が死亡した事件は、18日で発生から2年となる。犠牲者の中には、憧れの京アニに入社したばかりの人もいた。「自分の絵で皆を楽しませたい」。自身の力を信じ、夢を追い続けた若手クリエーターの足跡をたどる。
■口癖は「面白いことをしましょう」
元社員の大村勇貴さん=当時(23)=は大学生の時、1冊の絵本を作った。
「うーちゃんのまつざき」
舞台は伊豆半島西海岸にある静岡県松崎町。幼いうーちゃんが、自然豊かな集落で精霊たちと遊んでいるうちに迷子になり、最後は竜に助けられて両親の元に帰るという、温かくもミステリアスな物語だ。
大村さんは絵本の完成後、こんなメッセージを残した。
「ざわざわと生が騒ぎ立てる情景を、畏怖と敬愛の念を込めて色鉛筆やアクリル絵の具を用いて描きました」
大村さんは幼い頃から絵を描くことが大好きだった。学生時代はその手に鉛筆とクロッキー帳を携え、お気に入りのマッシュルームヘアーを揺らして歩き回った。口癖は「面白いことをしましょう!」
持ち前の明るさとその画才で今も多くの人を引きつける青年は、ふるさとでどのような日々を過ごし、アニメーターになる夢を育んだのだろう。手掛かりを求め、記者はまず、絵本の舞台となった町を訪ねることにした。
大村さんが憧れのアニメーターになるまでの軌跡をたどるため、記者が最初に向かったのは静岡県松崎町。大村さんが大学時代、絵本「うーちゃんのまつざき」の舞台として描いた町だ。「自分の絵で皆を楽しませたい」。そんな願いを抱き、夢に向かって走り続けた大村さんの熱い思いは、今もこの地に息づいていた。
取材で滞在したのは、「うーちゃんのまつざき」の自費出版から約1カ月が過ぎた5月8日~10日。ちょうどこの時、町中心部にある伝統建築「伊豆文邸(いずぶんてい)」で、出版報告を兼ねた展覧会が催されていた。
会場に並んでいたのは、優しいタッチと鮮やかな発色が特長の絵本24ページ分の原画。「これ、うちの近所の棚田」「展望台から見た景色だ」。地域の日常が情感たっぷりに表現された作品に住民たちは興味津々で、あちこちから感嘆の声が聞かれた。
■息子のことを大事にしてくれた町
来場する1人1人に声を掛け、展示作品を解説する人がいた。大村さんの父親だった。
大村さんの家族は昨年2月にも、大村さんが生前に手掛けた作品の展示会を出身地の菊川市で催していた。「家族が先頭に立って展示会を開くのは、これで最後にしようと思っている」。そう語る父親に、最後の展示会を松崎町で催した理由を尋ねると、穏やかな口調で答えた。
「松崎の人たちは本当に勇貴のことを大事にしてくれた。勇貴も松崎のことが大好きだった。松崎に暮らす人たちに勇貴のことをもっと知ってもらいたいし、勇貴が描き残したものに触れてほしいと思った」
大村さんは常葉大(静岡市)に在籍していた2017年9月、過疎化が進む松崎町の魅力を絵本で発信する大学と町の連携プロジェクトに参加するため、約20人の学生とともに松崎町を訪れた。
町企画観光課長の深澤準弥さん(53)はこのとき、役場の担当者として、学生たちを連れて町内を案内したり、町民にインタビューする段取りを整えたりした。
「『きゃっきゃ』と終始にぎやかでね。自分の生まれ育ったこの町が、町外の若者たちの目にはどんな風に映るんだろうって、こっちもわくわくした」
中でも、大村さんが残した印象は強かった。
「マッシュルームの髪型をした好青年。町民のレクチャーにものすごく関心を示してね。一言一言を聞き漏らすまいと、身を乗り出すように『うん、うん』とうなずいていたよ」
大村さんが創作した「うーちゃんのまつざき」には、松崎の自然や特産がふんだんに登場する。そのうちの一つ「なまこ壁」は、土蔵の壁面などに施される伝統的な壁塗り様式で、海からの強風や大火から人々の暮らしを守ってきた松崎のシンボル的存在でもある。
伊豆文邸から200メートルほど離れた所に、大村さんも足を運んだ建物群「なまこ壁通り」がある。そこを訪ねると、強い日差しの下、壁面修復に汗を流す1人の男性がいた。左官職人の中村一夫さん(80)。4年前、大村さんたちになまこ壁の魅力を伝えた当人だ。
■かきたてられた創作意欲
中村さんには、かねて「神様」とあがめる存在がいた。松崎町出身で、左官の技術を芸術にまで高め、漆喰(しっくい)で絵を描く「鏝絵(こてえ)」と呼ばれるジャンルを完成させた入江長八(1815~89)。中村さんも20年前に鏝絵を始め、草花や動物、仏像を題材に数え切れないほどの絵を描いてきた。
職人としてのこだわりをとつとつと語り、アートにも造詣の深い中村さんから、大村さんはどんな刺激を受けたのだろう。当時撮影された写真には、身ぶり手ぶりを交えて説明する中村さんの前で、少年のように目を輝かせる青年の姿があった。
松崎町で暮らす人たちに故郷への誇りと温かな思いを届けた「うーちゃんのまつざき」。クライマックスには、入江長八の代表作「雲龍」をモチーフにした竜が登場する。中村さんが日焼けした手をさすり、ほほ笑んだ。
「自分が一生懸命に伝えようとしたことが本当にたっぷりと、丁寧に描かれていてね。ええなあって、うれしい気持ちになったよね」
■生きてきた証しを残したい
「絵本を出版するにはどうしたらいいでしょうか」
掛川城(静岡県掛川市)からほど近い高久書店にその女性がやって来たのは、昨年11月、夕暮れのことだった。
■お母さんの気持ちに応えたい
店主の高木久直さん(50)は真意を測りかね、質問を重ねた。想定する読者層、出版の動機、そして著者の思い―。できる限り具体的に話すようお願いすると、女性は自身が京都アニメーション元社員大村勇貴さん=当時(23)=の母親だと打ち明け、感極まったように続けた。
「息子が生きてきた証しを形にしたいんです」
高木さんは19年8月、京アニ事件を報じるニュースで、犠牲者の1人が静岡出身の大村さんだったことを知った。
6カ月後、隣町の菊川市で催された大村さんの展示会「ぼくの絵本 大村勇貴展」に足を運んだ。そこで、松崎町を舞台にした絵本「うーちゃんのまつざき」と出会った。
くしくも高木さんは松崎町の出身だった。「絵本の原画を鑑賞した時に『うわ、懐かしい』って、涙が出そうなぐらいに嬉しかった」。望郷の念にかられ、大村さんとの間に深い縁を感じた。
だからこそ、母親の願いに触れた時、「この気持ちに寄り添わないとだめだ」と強く感じた。高木さんは母親が店を出ると、すぐに旧知の出版関係者に電話を掛け、母親の思いを代弁した。
自費出版された「うーちゃんのまつざき」は発売直後から評判となり、高久書店では最初に仕入れた50冊が3日間で売り切れた。これまで経験したことのない反響に、高木さんは「ご家族の『生きた証しを残したい』という気持ちが伝わったのだと思う」
菊川市で育った大村さんは小中学校時代から絵を描くことが大好きで、同級生の似顔絵を描いては喜ばれるクラスの人気者だった。そんな大村さんが自身の将来を強く意識し始めたのはいつのことだろう。
手掛かりは大村さんの母校、掛川工業高(掛川市)にあった。高校3年の時につづられた原稿用紙5枚分の作文だ。
■母親への感謝と未来への思い
「高校を出た後の進路を考えているのだが、とても悩んでおり将来を考えるととても不安だ。(中略)自分の意志を貫けるよう強くなり、これからの人生どのようにしていくかよく考えて進路を選択しこの道を選んで良かったと思える人生にしたい」
そこには、温かなまなざしで成長を見守ってくれた母親への感謝とともに、目の前に広がる未来への率直な思いが吐露されていた。
京アニ事件が起きた後、同高教諭の杉山直康さん(54)たちが大村さんに関わる物が校内に残されていないか探し、作文が収録された生徒会誌を発見した。大村さんが当時から「絵を描く仕事に就きたい」と希望していたことを示す進路指導記録も見つかった。
「うちには大村さんのように絵の道に進もうとする生徒はほとんどいないから、進路を考える時に心配になることも多かったと思う。だけど、彼はぶれることなく自分の夢を追い続けた」
大村さんは常葉大造形学部に進学すると、大好きな絵を描き続けることで持ち前のセンスをさらに磨いた。
今年5月、「うーちゃんのまつざき」に続いて自費出版された絵本「どっくん どっくん」は、大村さんが、生物38億年の歴史をテーマに卒業制作で手掛けたもの。
完成間際まで真剣な表情で作品と向き合う姿が写真に残されている。眼前のノートも写っていて、「細い所まで注意」との文字が読める。線のつや感や色の彩度といった細部にまでこだわった作品は、卒業制作展の優秀賞に輝いた。
■その手につかんだ大きな夢
夢へと駆け抜けた青春時代。大学卒業を控える中、大村さんが父親に「アニメーターになりたい」と打ち明けると、こんな言葉が返ってきた。
「プロはスピードが命。納得いくまで時間をかけられる学生とは大違いなんだ。それができないと厳しいよ」
どれだけ性に合っていたとしても、息子が足を踏み入れようとしているのは、甘えの通用しない険しい世界。強い覚悟と信念を持って挑戦してほしいとの願いが込められていた。
父親の厳しい言葉にも、大村さんの気持ちが揺らぐことはなかった。アニメーターになる夢をその手につかみ、父親に告げた。
「僕、京都に行くよ」
(岸本鉄平)
※京アニ事件で命を奪われたのは、アニメの力を信じ、世界中のファンに夢と希望を届けた人たちでした。本紙企画「エンドロールの輝き」(随時掲載)では、クリエーターとして生きた一人一人の足跡をたどります。