【新宿ゴールデン街交友録 裏50年史】舞台に出演のたこちゃんだったが…チラシに「但し出演不可の日もあり」

たこちゃんと友川(左)

たこちゃん(たこ八郎)は1980年代、フジテレビの「笑っていいとも!」レギュラーとなり、人気者となった。が、ボクシングチャンピオンから引退して、由利徹の内弟子時代にはそのパンチドランカーの後遺症で悩み、コメディアンの仕事も無い時代が続いていた。

経営していた飲み屋「たこ部屋」も数年で閉じ、山本晋也監督のピンク映画によく出ていて、独特の存在感を発揮していた。その頃知り合ったのだ。1970年前後か。

私の「はみだし劇場」の舞台にも出演して貰っていた。「但し出演不可の日もあり」とチラシに書いておいた。実際、楽屋で酔って寝てしまい、出られない日や“出トチリ”も数知れず。

ゴールデン街を徘徊して夜中連れだって帰る仲間に、漫画家の滝田ゆうが居た。たこちゃんや友川かずき(現・カズキ=フォークシンガー)、当時一緒に暮らしていたとも子などと大久保のアパートに帰り、飲み続け、私らが翌日用事で出かける時も、ゆうさんは「いってらっしゃい」と言い、留守番をしていた。帰るとそのまま、又酒…。

当時、ゆうさんが出演していたNHKの番組「脱線問答」の日には国立の家から奥さんが出演用の着物を大久保まで届けに来てた。お金がなくなると出版社に電話して編集者が前渡しのギャラ(バンス)を届けに…。

78年頃の「小説現代」の連載漫画「泥鰌庵閑話」95話には「真昼の子守唄」としてそのアパートの雑魚寝の様子が活写されている。「日照権はとうの昔に放棄したようなアパート…」。勿論、たこちゃんも登場している。

ゆうさんは1979年の中上健次・脚本の「父のみのちちはいまさず」(初演。その後「かなかぬち」と改題)のチラシにも記事とイラストを寄稿してくれた。

ゴールデン街の「まえだ」界隈で飲み歩いていた直木賞作家、長部日出夫にもわが劇団の脚本を描いて貰った。山本晋也監督が2本。作家、立松和平にも3本。今思えば豪華な脚本主筆陣だな…。勿論、脚本料は払った事もない。それが許された時代だった!(敬称略)

◆外波山文明(とばやま・ぶんめい)1947年1月11日生まれ。役者として演劇、テレビ、映画、CMなどで活躍。劇団椿組主宰。新宿ゴールデン街商店街振興組合組合長。バー「クラクラ」オーナー。椿組花園神社野外劇「貫く閃光、彼方へ」は20日まで上演中。

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