「地球の医者になる」 サンゴ礁に経済的価値を生み出す、イノカが目指す未来とは

「このままでは、2040年には9割のサンゴ礁が消滅してしまう」――。水槽内にサンゴ礁の生息環境を再現する「環境移送技術」を研究する東大発スタートアップ「イノカ」。実現すれば日本初となるサンゴの人工産卵プロジェクトに臨んで抱卵に成功したほか、モーリシャス島沖での日本国籍貨物船の座礁事故に際して現地視察メンバーにも加わるなど、実績を上げている。同社の高倉葉太CEOは「サンゴ礁に経済的にも価値を感じる人が増えないと、本気で守ろうとはしてくれない。まず人の意識を変える必要がある」と、サンゴ研究の発展を医療など他分野の研究につなげることで、自然が持つ経済的な利益自体も高めようとしている。技術開発、生態研究、そして小学生向けの教育も手掛けながら、社会の変革を目指す若き起業家の素顔に迫る。(横田伸治)

海洋生物の約25%を占める約9万3000種の生物種が生息するサンゴ礁。海洋生態系の中心とされ、近年では、大気中の二酸化炭素を吸収する「ブルーカーボン生態系」としても注目されている。しかし、地球温暖化、環境悪化、埋め立てなどにより、2040年までに9割近くのサンゴ礁が死滅するとも予測される。そんなサンゴ礁の保護に取り組むのが、「地球の医者になる」というパーパスを掲げる東大発スタートアップ、イノカだ。

IoT・AI・アクアリウムを融合し、サンゴを人工飼育

サンゴ礁生態系を未来に残すためにイノカが取り組んでいるのが、IoTとAI、アクアリウム技術の融合により、サンゴを人工的に飼育する研究だ。水槽に取り付けられたセンサーやカメラ、ヒーター、照明などを駆使し、独自に開発したプログラムにより、沖縄県の海の▽水温変化▽太陽光▽波など水の動き――などの情報を24時間、リアルタイムで取得し、自動的に水槽内に再現するもので、「環境移送技術」と名付けられている。東京・虎ノ門にあるイノカのオフィスでは、この技術の高度化を目指して設置された多くの水槽で美しいサンゴ礁が育てられている。高倉さんは「これまでは、国内でサンゴの生態を知るためには沖縄まで行かないといけなかった。環境移送技術を確立すれば誰でも・どこでも、サンゴ礁を育てることができるようになり、研究のハードルが下がる」と意義を語る。さらに、水槽内での研究は、実際の海と比べ、変数以外の条件を正確に一致させることができるため、研究の精度自体を高めることにもつながるという。

サンゴはこれまで、その研究ハードルの高さから、未知の領域が多く残されてきた。だが近年では、サンゴから抽出される化合物に人間のがん細胞を死滅させる効果があることが発見されるなど、新薬開発分野で注目が集まっている。「環境移送技術によりサンゴ研究が進めば、製薬業界にとってサンゴのニーズが高まり、サンゴに経済的な付加価値が生まれる。そうすれば、サンゴ礁の保全に取り組む企業の姿勢が変わる。『きれいだから守る』ではなく、『価値があるから守る』にならないと、本気で取り組む企業は増えない」と、人と自然の双方に利益を生む社会を目指す。

水槽だらけの部屋から生まれた「イノカ」

高倉さんは祖父・父の影響で、幼少期からアクアリウムに親しんできた。中学時代以降は自らも熱帯魚などの飼育を始め、「学生時代のアパートは水槽だらけで、夜も水槽のエアーやヒーターの音が鳴り続けていた」。また、大学入学後は「アップルを超える会社を作る」という目標を周囲に公言。同社創業者の故スティーブ・ジョブズ氏のように、アイデアと最新技術を駆使して社会に変革をもたらしたいと考え、プログラミング技術を磨き、AI研究にも没頭。在学中にも、水槽や魚の写真、情報を入力することで、飼育環境の記録や管理に役立つアクアリスト向けアプリを開発、アクアリウム最大手の「GEX」(東大阪市)とのコラボレーションでのリリースを実現させた。

だが当時は起業への憧れが先走り、「このままアクアリウムに人生をささげるのか?」と漠然とした不安もあったという。大学院に進学しAI研究を続ける中、家計簿のIoT化など他分野のサービス立ち上げも行ったが、「これは自分じゃなくてもできることだ」と迷いが深まるばかりだった。趣味で続けていたアクアリウムも、管理に時間を割けず魚たちが次々と死んでしまうなど、飼育放棄状態に陥ってしまった。
 
そんな中、2018年夏に出会ったのが、現在イノカでCAO(Chief Aquarium Officer、最高アクアリウム責任者)を務める増田直記さんだ。自宅に1トンサイズの水槽を設置し、独学で試行錯誤を続ける中で、水族館でも飼育が難しいとされるサンゴの生息環境を再現するまでに至り、国内有数のアクアリストとも評される。自らアクアリウムの難しさを体験していた高倉さんは「アクアリストは、学問では学べない『職人の技術』を持っている。このノウハウをAIに学ばせることができれば、生態研究のハードルを大きく下げられるはず」と確信。2019年3月に大学院を卒業すると、4月にはイノカを立ち上げ、以来環境移送技術の発展にまい進してきた。

注目を浴びるきっかけとなったのは、水槽内でのサンゴの人工産卵プロジェクトだ。実現すれば日本初、世界でも4例目の快挙となるが、イノカでは2020年に抱卵に成功、2021年3月の産卵を目指した。結果はサンゴの体調不良による失敗となり、高倉さんは「まだ完璧に海の環境を再現できているわけではなかった。より正確、かつ常に適切な状態を保たないと」と課題意識を持ったが、都心にオフィスを構えるスタートアップによる挑戦は新聞やテレビでも扱われ、手ごたえを残した。

さらに転機となったのは、2020年にモーリシャス島沖で発生した重油流出事故だった。生態系への深刻な影響の懸念が世界的に報道される中、商船三井が主導する「自然環境保護・回復プロジェクト」に、大学や研究機関と共に現地視察メンバーとして参画することになった。高倉さんは「世界での仕事も、実地調査も初めて。プレッシャーも大きく、日本を発つときには緊張で吐き気がしていた」と振り返る。だが想像と裏腹に、実際に目にしたのは、現地住民のサンゴ礁への関心の低さだった。事故の話題の少なさだけでなく、接触によるダメージを気にせずにサンゴ付近でマリンスポーツに興じる姿も見た。「ただ技術を高めて生態系を守るのではなく、自然を守る人々の意識を育てる必要がある」。研究開発だけでなく、教育の必要性を再確認するきっかけになった。

企業が動けば、世界は変わる

イノカは創業以来、小学校向けにサンゴ礁や生態系の仕組みを紹介する出張授業など、いくつかの教育事業を手掛けている。中でも、三井不動産グループと連携して2020年から継続している、同社の商業施設「三井アウトレットパーク横浜ベイサイド」での「よこはまサンゴ礁ラボ」はその目玉だ。高倉さんが「一緒に教育プログラムを実施したい」とアプローチを続けて実現させたもので、毎月1回、全4回で構成される。小学生などを対象に、生物のスケッチやサンゴの植え付け体験、そして生態系を守るためのアイデアを考えるワークショップなどを行っており、現在3期目を迎えた。

取り組む中で高倉さんが驚いたのは、参加した小学生たちの主体的な探究活動だった。例えば小学2年生が自主的に、通う学校の学年全員に対し「サンゴに興味ある?」と問うアンケートを実施し、結果を持ってきたほか、モーリシャスの環境や事故についてのレポートを作成してきた参加者もいたという。「子どもと一緒に楽しく学ぶ中で自分たちも気づかされることがあるし、将来の仲間を増やすことにもなる。自分たちだけでは研究は完成できないからこそ、取り組みを次世代に繋いでいきたい」と意義を感じたという。今後も、教育事業を全国に展開していきたいと意気込む。

創業2年が経過したイノカは現在、約10人の社員を抱えるようになった。髙倉さんは、「やればやるほど、自分たちが実現したいことの難しさを感じる。(サンゴ礁の9割が消滅するとされる)2040年までに、本当に間に合うのかと不安にもなる」と打ち明ける。だが一方で、サンゴ研究が他分野の研究に応用できる確信もつかんできた。イノカが目指すのは、テクノロジーによって人と自然の距離が縮まり、相互にメリットを生み出せる社会だ。「途方もない作業だが、道筋は見えている。イノカはこれからも大きくなって、何万人もの人が応援してくれる会社にならないといけない。そうすれば企業を動かすことができる。企業が動けば、国が動く。国が動けば、世界が自然を守ることへの意識を変えてくれるから」。

© 株式会社博展