秀吉がミッションインポッシブルな身分違いの結婚を成功させた秘密

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秀吉と寧々の出会い

私が藤吉郎と結婚したのは、永禄4年(1561年)8月のことでございました。桶狭間の戦いの翌年で、清洲の御城下でのことです。数えで14歳でした。当時としては、普通の結婚年齢でよろしいかと存じます。

大名の場合、子ども同士の祝言を挙げて、実際に夫婦の関係になるのは、ずっとあとということもございましたが、庶民の場合はそういうことはありません。有名な武将の奥方が初めてお子を産まれた年齢をみてまいりますと、15歳から16歳くらいからが多くなっております。ですから、14歳での結婚は普通のことだったとわかっていただけるかと存じます。

前田利家さまの奥方の「まつ」さまのように、数えで12歳、満年齢だと11歳で初産をされている方もおられます。おふたりの場合は、従兄弟同士ですし、まつさまも前田家で一緒に住まわれて、いずれは結婚するということになっていたそうでございます。

▲前田利家 出典:ウィキメディア・コモンズ

それを利家さまが、どうせ夫婦になるのだからと手をつけられたら妊娠してしまった、とお聞きしております。まつさまは、そのあとさらに10人もお子を産んで、私たちの大好きな娘になる豪姫を養女にくれたくらい頑丈な女性ですから、特別でございます。

藤吉郎と初めて出会ったのは、妹のやや(良々)が養女にいっていた浅野長勝の家でのことでございます。のちに豊臣政権で五奉行の1人を務め、広島藩浅野家の祖となる長政の父親で、その長勝夫人の姉が、私たちの母である朝日なのです。

浅野家に同僚が集まって酒宴をしているときに、桶狭間の戦いの少し前から織田家に仕え、なかなか役に立つ若者だというので、組頭に取り立てられたばかりの藤吉郎がそこにいたのでございます。

のちほど詳しく説明いたしますが、信長さまの父上である信秀さまは、守護代だった織田大和守家の家老でいらっしゃいましたが、主君をしのぐ尾張第一の実力者になっておられました。

ところが、42歳で亡くなられたので、信長さまが跡を継がれると、有力者たちは言うことを聞かなくなりました。

しかし、信長さまは巧みに一族の有力者をねじ伏せて尾張を完全統一する勢いでしたので、その前に叩いておこうと今川義元さまが攻めてこられたのが、あの「桶狭間の戦い」でございました。

このとき信長さまは、文句ばかり多いが言う通りに動かない土豪たちなどを頼りにせずに、流れ者であろうが農民出身であろうが役に立つ若者を集められました。それを親衛隊として機動力がある軍団に育て上げ、勝利を手にされましたが、そのなかに藤吉郎もいたというわけでございます。

この戦いに勝利を収められた信長さまは、本物の尾張一国の支配者になられたのです。そこで、それまでほとんどが尾張の各地に散らばって兼業農家のような生活をしていた土豪たちも、清洲城下に移ってまいりました。

そして、現代でいえば社宅に当たる武家屋敷で、サラリーマン生活をするようになり、清洲の城下もおおいに賑わうようになったのでございました。

▲清州城 出典:PIXTA

寧々と結婚したかった秀吉の“あの手この手”

こんな変化の時代でしたから、普請も盛んですし、新しく雇われた者たちの統率も必要でございましたから、藤吉郎のような頭が柔らかく機敏な新参者にもチャンスが巡ってきていたのです。

藤吉郎は、小柄で身のこなしが軽く、黒くて小さな顔に頬骨と顎がとがり、ぎらぎらした小さな瞳は目立ち、どうみてもハンサムではありませんが、どことなく愛嬌はございました。声は大きくよく通り、台所にやってきては軽妙な話ぶりで女たちを笑わせておりました。

買い物などで出かけたときに会うと、荷物を持ってくれたり、ともかく“まめな人”でした。愛情あふれる人であるのは、のちに天下人になっても変わらなかった美点でございます。

そのころ、母の朝日は、年頃になった自慢の娘だった私に良縁を求めて動き出しておりました。それを聞いた藤吉郎は、猛然と! 得意の「調略」を始めたのでございました。母の朝日は、出自もよくわからない藤吉郎との結婚など承知するはずがありません。父の杉原家利は、大人しくて何事も母の意向に逆らえるような人でありません。

そこで藤吉郎は、義理の叔父の浅野長勝に的を絞って攻勢をかけました。そのころの藤吉郎は、信長さまのお気に入りで少し頭角を現し始めておりましたから、長勝も藤吉郎は有望株だから悪い話でもないと思ってくれたようでございます。

結局、藤吉郎はさらに目上の上司からも浅野長勝に口添えしてもらったので、杉原家から藤吉郎などに嫁にはやれぬという朝日を説得するために、妹のややと同じように、自分の養女だということにして、この結婚を取り計らってくれました。

▲私との結婚のため“あの手この手”を尽くす秀吉 イラスト:ウッケツハルコ

結婚の仲人は、信長公の母方さまの従兄弟である名古屋因幡守さまが務めてくださいました。蒲生氏郷や森忠政に仕えて美男として知られ、出雲の阿国の恋人などという噂がある名古屋三郎は、因幡守さまの息子らしいとか私の侍女たちが噂していたような気もいたします。

ところで、木下藤吉郎が名乗っていた木下姓ですが、藤吉郎の言うこともよく変わるので当てにはなりませんが、少なくとも私が最初に会ったときには、そう名乗っておりました。現在と違って戸籍などありませんから、主君や世間が認めてくれればそれでよかったし、とくに養子になったりしなくても、親戚の名字を名乗ることだってあったのでございます。

なんでも、織田家に仕官する前にお仕えしていた松下加兵衛さまからいただいたもので、松下に因んで名付けられたものだとか言っておりました。しかし、ときには自分の父親が「木下弥右衛門」だったとも言っていたので、よくわかりません。

私は、信長さまに仕官するときに、松下さまに似せて勝手に名乗ったのでないかと想像しております。人によっては、私の父が木下を名乗っていた時期があり、藤吉郎が婿入りして名乗るようになったとか仰いますが、私が結婚したのは、信長さまに藤吉郎が仕官して何年か経ったあとで、すでに組頭とかいったお役目ももらっていたのでございますから、名字なしではありえませんでした。

私の兄で姫路城主などを勤めた家定が、木下家定を名乗ったのは、長浜城主に藤吉郎がなったころに、一族であることを強調するために、杉原姓から変えたものでございます。

それでは本日はこのあたりで、ごめんくださいませ。

※ 寧々の実父の杉原家利が一時、木下祐久という信長の奉行として活躍した人物で、そこへ藤吉郎が入り婿のかたちで次いだという説がある。しかし、家利と木下祐久が同一人物であることを確実と言えるような材料はないので、ここでは採用しなかった。

※ 織田家の重臣たちの出自もいい加減なもので、柴田氏は越後新発田出身で斯波氏の末流、丹羽氏は桓武天皇と百済永継(百済の東城王の子孫とされ桓武天皇の後宮に入る前に藤原内麻呂との間に藤原冬嗣を生んだ。彼女を通じて摂関家に百済王家のDNAがもたらされている)の子である良岑安世の末裔、佐久間氏は桓武平氏である安房の三浦氏一族、前田家は菅原道真の子孫、池田氏は多田源氏だとかいうが、いずれも怪しい。