多くのアーティストに影響を与えたJ.J.ケイルのソロデビューアルバム『ナチュラリー』

『Naturally』(’71)/J. J. Cale

エリック・クラプトンが檜舞台に引っ張り出さなければ、おそらくJ.J.ケイルの名前は一部のファンのみが知るだけで終わっていただろう。ケイル本人も「自分は裏方として、名前を知られずに金を稼ぎたい」と語っていたことがあるが“事実は小説より奇なり”で、今ではケイルの名前を知らないロックファンのほうが少ない。発端はクラプトンの初ソロ作『エリック・クラプトン』(’70)にケイルの書いた「アフター・ミッドナイト」が取り上げられたことにある。この曲は長いキャリアを持つクラプトンの代表曲のひとつに挙げられるもので、ケイルはまずソングライターとして知られることになった。その後も、レーナード・スキナードが「コール・ミー・ザ・ブリーズ」をヒットさせ、キャプテン・ビーフハート、ブライアン・フェリー、ボビー・ブランド、ポコ、サンタナ、ウェイロン・ジェニングスといったアーティストがケイルの曲を取り上げるなど、70年代の彼はまさしく“裏方として金を稼ぐ”ことに成功したのである。今回取り上げるのは彼の1stソロアルバム『ナチュラリー』(’71)で、サウンドとしてはブルースをベースにしたルーツロック(アメリカーナ)作品である。本作は当時のルーツ系ロックとしては珍しく、リズムマシンを使うなど異色とも言える内容になっているのだが、歌、演奏、曲のどれをとっても最上級の仕上がりだ。本作こそクラプトンをはじめニール・ヤングやダイアー・ストレイツなど多くのアーティストに影響を与えた、ケイルの最高傑作と言っても過言ではない。

オクラホマ出身の ロックアーティストたち

60年代後半から70年代初頭にかけて流行した泥臭さが持ち味のスワンプロックは、黒人のR&B;やゴスペルと白人のカントリー音楽をミックスした今で言うアメリカーナサウンドのひとつである。スワンプロックの歴史はポップス界のヒットメーカーとしてロスで名を挙げていたレオン・ラッセルのもとに、J.J.ケイル、ジェシ・デイヴィス、ロジャー・ティリソン、デビッド・ゲイツ(ブレッド)のちのデレク&ドミノズのメンバーとなるカール・レイドルら、オクラホマ出身のミュージシャンたちが集まり大挙して西海岸に移住した頃に始まる。ラッセルは多くのポップスセッションをこなしながら、泥臭いスワンプロックをさわやかなカリフォルニアで仕上げていくのである。その頃の成果としては、69年にリリースされたデラニー&ボニーの傑作『オリジナル・デラニー&ボニー(原題:Accept No Substitute)』があり、このアルバムはジョージ・ハリスン、エリック・クラプトン、デイブ・メイスンらをはじめ、ジョー・コッカーといったブリティッシュロッカーたちに大きな影響を与えることになる。

オクラホマへの帰郷

64年に西海岸に移ってきたケイルは、生活のためにレオン・ラッセルのスタジオでエンジニアとして働きながら、ラッセルの口利きもあってリバティ・レコードから「ディック・トレイシー」(’65)、「アウトサイド・ルッキン・イン」(’66)、「アフター・ミッドナイト」(’66)の3枚のシングルをリリースする。しかし、まったく売れず、67年にはオクラホマのタルサへ戻っている。そして、しばしばナッシュビルに出向きデモテープを作成するかたわら、いくつかのカントリーアーティストのプロデュースやエンジニアリングも担当している。もう少し西海岸で我慢していればスワンプロックの誕生を目の当たりにできたはずなのだが、そうなると彼の唯一無二の特徴的なサウンドが生まれたかどうか微妙なところなので、この時点での帰郷が以降の彼の人生を決定づけたとも言えるのだ。

カール・レイドルの功績

クラプトンがデラニー&ボニー・アンド・フレンズに加わっている時、デラニーからケイルという注目すべきアーティストがいることを聞かされる。ちょうどフレンズにはケイルと同郷のカール・レイドルが在籍しており、彼がケイルの「アフター・ミッドナイト」をクラプトンに紹介する。

こういう経緯でエリック・クラプトンのソロ第1作『エリック・クラプトン』で「アフター・ミッドナイト」が取り上げられることになるのだが、そのことをケイルは知らず、彼はすでに西海岸での活動を諦めていて数年前にタルサに引き上げていたのである。クラプトン版の「アフター・ミッドナイト」はシングルカットされビルボードのホット100で18位になり、ケイルは自分の曲をラジオで聴くまで、レコーディングされたことすら知らなかった。

レイドルと同じく『エリック・クラプトン』のレコーディングに参加していたラッセルは、同時期にイギリス人プロデューサーのデニー・コーデルとシェルターレコードを設立しており、ここでもレイドルはラッセルにケイルのデモテープを手渡すなど、ケイルがシェルターと契約できるように橋渡し役を買って出ている。レイドルはそれだけケイルの音楽を買っていたわけだが、ラッセルもまたケイルの独特の音楽性を大いに気に入っており、シェルターはケイルと契約を交わすこととなった。

本作『ナチュラリー』について

そして、ナッシュビルでケイルとプロデューサーチームを組んでいたオーディ・アシュワース(彼とは長い付き合いになる)にプロデュースを任せ、アルバム制作に入る。録音はボー・ブラメルズのアルバムタイトルでもお馴染み、ナッシュビルのブラドリーズ・バーンで行われている。バックを務めるのは盟友のカール・レイドルと、ナッシュビルのエリアコード615のメンバーのほか著名なスタジオミュージシャンたちだ。レイドル以外の同郷のミュージシャンが参加していないのは不思議ではあるが、これは単純にケイルの目指すサウンドが得られるかどうかで決まったのだと思う。曲によってはホーンセクションが入るが、そのクレジットはない。

収録曲は全部で12曲。このうちリズムマシンが使われているのは4曲で、それはずっと彼の先進性(他のルーツロックとの違いを際立たせるため)だと僕は思っていたのだが、ケイルによれば「予算が足りずドラマーに支払うお金がなかったから」と、あるインタビューで語っていて唖然とした。

「コール・ミー・ザ・ブリーズ」「アフター・ミッドナイト」「クレイジー・ママ」(全米22位、ケイル最大のヒット曲)「マグノリア」など、よく知られた名曲をはじめ、全ての曲が文句なしの仕上がりだ。ケイルの音楽について金太郎飴と揶揄するリスナーもいるが、少なくともこのアルバムに限ってはその言葉は当てはまらない。ケイルの音楽は、ブルース、カントリー、R&B;などが混ざってはいるがスワンプロックとは違う泥臭さが身上であり、ある意味ではメロディの美しいブルースの一種だと言っても間違ってはいない気がする。だからこそケイルの音楽は唯一無二だと言えるのだ。

また、ニール・ヤングは「世界で最も偉大なロックギタリストはジミヘンとケイル」と言い、マーク・ノップラーに至ってはケイルのそっくりさん(ギターだけでなくヴォーカルも)だ。ケイルのギターワーク(リズムもソロも)は饒舌ではないが、簡潔かつ的確に情感のこもったプレイが特徴である。クラプトンをはじめ、ジョン・メイヤーやデレク・トラックスなど、ケイルのギタープレイをリスペクトしているアーティストは多い。

タルサ・サウンドとは

アメリカでは本作(というかケイルの音楽)のことを“タルササウンド”と呼ぶ向きもあるが、カントリーやブルースの背景を持ったレイドバックしたブギやシャッフルのことを指すのであれば、アメリカーナと呼ぶほうが分かりやすいかもしれない。余談だが、この“タルササウンド”を完成させたのは、ジェイミー・オールデイカー(70sのクラプトンサウンドを支えたドラマー)の在籍したタルサ出身のザ・トラクターズで、もちろん彼らの傑作デビューアルバム『ザ・トラクターズ』(’94)にはケイルもゲスト参加していた。

最後に、本作のジャケットの誤表記について。LP時代の裏ジャケットに載っているクレジットではティム・ドラモンドがドラムと表記されているが、ドラモンドはベースプレーヤーである。

2008年、ケイルとクラプトンのコラボ作品『ザ・ロード・トゥ・エスコンディード』(’06)がグラミー賞を獲得、ケイルは世界的な有名人となるのだが、心不全で2013年に逝去している。

TEXT:河崎直人

アルバム『Naturally』

1971年発表作品

<収録曲>
1. コール・ミー・ザ・ブリーズ/Call Me The Breeze
2. コール・ザ・ドクター/Call The Doctor
3. ドント・ゴー・トゥ・ストレンジャーズ/Don’t Go To Strangers
4. ウーマン・アイ・ラヴ/Woman I Love
5. マグノリア/Magnolia
6. クライド/Clyde
7. クレイジー・ママ/Crazy Mama
8. ノーウェア・トゥー・ラン/Nowhere To Run
9. アフター・ミッドナイト/After Midnight
10.リヴァー・ランズ・ディープ/River Runs Deep
11. ブリンギング・イット・バック/Bringing It Back
12. クライング・アイズ/Crying Eyes

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