日本じゅうが湧いた1949年のサンフランシスコ・シールズ来日

ジョー・ディマジオ

【越智正典 ネット裏】敗戦から4年、1949年、AAAのパシフィック・コーストリーグのサンフランシスコ・シールズの来日に日本じゅうが湧いた。10月12日、パンアメリカン航空のクリッパーズが羽田空港に着くと、田中絹代さんら日本のトップ女優さんらもお出迎え。オープンカーを連ねて京浜国道―銀座へパレード。シールズの監督、フランク・J・オドール(レフティ)は親日家として知られているが、1934年の日米野球及び巨人軍創立に尽力大と、正力松太郎から大日本東京野球倶楽部(巨人軍)の株を200株贈られている。

オドールのマッカーサー司令部の名目は「米極東将兵への慰問」。許可が下りないわけがない。日本占領の米第八軍将兵だけで5万6749人。銀座の露店で大会プログラムを200円で売っていた。銀座の街灯はまだ灯っていない。

見に行くと、もっと派手なチームかと思っていたが、地味でマジメなチームだったのに感心した。ユニホームの胸のSEALSがちいさかったのもよかった。

JR荻窪駅北口。カウンター席が10席ほどのちいさな店で千葉高校、早大捕手、立正大学の監督を務めた大野一成さんに会うと、イッパイやってご機嫌になると、大野さんはいつも「トビン、ホルダー、ブリスキー、スタインハウアー、ショフナー、ロデイジャーニー、ウエストレーク、ジャービス、9番ピッチャー・デンプシー」と、シールズの先発メンバーを愛唱していた。大野さんは走攻守に一生懸命な若い選手が忘れられないのだ。

そういえば、のちのニューヨーク・ヤンキースの至宝、ジョー・ディマジオは1935年、サンフランシスコ・シールズで3割9分8厘を打って首位打者になって、MLBに引き上げられたと聞いている。

あるとき、その店にNHKアナウンサー、このとき玉川大学文学部教授阿部喜充さんがひょいと立ち寄った。常連のひとりである。大野一成さんがまた、シールズを語れる…とよろこんだ。シールズの来日が決まったとき、このときの日米野球実行委員会は秀才校、東京府立一中(日比谷高校)の野球部に、ボールボーイ、バットボーイを務めてほしいと依頼した。

阿部喜充さんは10月17日、ナイターの神宮球場での第2戦、東軍対シールズ(0対4)のボールボーイを務めた。お客さんは5万人。10月29日の神宮球場での土曜日のデーゲーム、全日本対シールズ(0対1)のボールボーイも務めた。お客さんは6万人だった。阿部さんは語るのである。大野一成さんが改めて聴いている。

「オドールさんが、お礼に野球教室を…と学校に来てくれました。オドールさんはこう投げてこう打って…などとはいいませんでした。“1に練習、2に練習、3に練習”。このコトバはそれからわたしの宝となりました。生涯の教えとなりました」

=敬称略=

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