山縣亮太、人生で「想像し得る最大の底」から復活できた理由。リオ銀から苦難の連続も辿り着いた、9秒台と東京五輪

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9秒台スプリンターが4人走った日本陸上競技選手権大会。6月25日に行われたこの“史上最高”の大会で3位に入り、東京五輪代表の座をつかんだ山縣亮太。わずか1センチ差で手にした1枠。それは「想像し得る最大の底」を経て、それでも前を向いて、努力を重ね、幸運を引き寄せた先にあった――。

(文=守本和宏、写真=Getty Images)

日本選手権欠場。「想像し得る最大の底だった」

実は、男子100mでオリンピック3大会連続出場は、日本史上初のことである。
それだけ、短距離でトップを維持するのは難しい。

陸上男子、最注目の100mで日本代表を勝ち取ったのは、山縣亮太だった。桐生祥秀、サニブラウン・アブデルハキーム、ケンブリッジ飛鳥、小池祐貴など並み居るライバルを抑えての個人種目代表。特に、今年6月6日まで9秒台を出していなかった山縣は、世間的に見れば“代表から遠い存在”だったともいえる。

実際に彼は、2019年「想像し得る最大の底だった」と語る状態から、V字回復で代表まで上り詰めた。

SEIKOが彼のために陸上競技部をつくり、地元の広島では“日本陸上競技選手権大会欠場”が夕方のニュース番組のトップニュースになるほど愛される人格者。今回の東京五輪では、日本選手団主将も務め、開会式では選手宣誓を行った。そんな山縣は、常に苦境と戦い、そして乗り越えて、自身の価値を高めてきた選手である。

出生時は1730g。低出生体重児として生まれて

1992年、山縣亮太は広島で生まれた。出生時の体重が1730g。低出生体重児として生まれた小さな命に、生後2日の父親の手記には、「生まれてすぐの子どもを見て、瞬間、(頭が)真っ白になった」「どうか無事に育ってください」と書かれている。その2週間後には、「今、息を止めたらしい」との記述もあった。「肺の形成が非常に未熟で、願ったり祈ったりしかできなかった」と父親は当時を振り返る。

初めて母親に抱っこされたのは、誕生から37日後。1年間は外出できず、その後の成長も同級生に比べて体は小さかった。

しかし、父親が亮太少年の足の速さに着目。息子のために陸上競技を研究し、独学でメニューを作成。自宅内でのトレーニングに、毎日取り組んだ。

結果、小学5年生の頃には短距離で全国大会出場。「父親は考え方の根っこをつくってくれた。美学を持って生きる。芯が強い。自分もそういう性格は似ている」と、山縣本人はテレビの取材で語っている。

山縣亮太のために陸上部をつくったSEIKO

山縣は広島の進学校、修道中学・修道高校で陸上を続け、慶應義塾大学に進学。20歳の時には最初のオリンピック、2012年ロンドン五輪に出場した。この時は個人で準決勝進出を果たし、4×100mリレーで4位に輝いている。

大学在籍当時から、すでにオリンピアン。しかし、当時から彼を知る人は、「山縣は誰に対してもおごることはなかった。後輩にも気さくに声をかけていた」と話す。本人は、一時的に「きつく言うこともあった」と話すが、元々の人間性がにじみ出ていたのだろう。その人格を高く評価する声は多い。

一つ面白いトピックがある。

山縣の大学卒業後の就職先として、手を挙げたのは時計メーカー「SEIKO」だった。スポーツ計測器で有名なメーカーだが、実は当時、陸上部がない中で決めたトップアスリート採用だった(退社したがフェンシングの三宅諒がSEIKOにアスリート社員として初入社しており、山縣は2人目)。

ただ、大学時代の主務だった友人をマネージャーとして迎え、山縣をサポートする形で、社会人選手としてのキャリアをスタート。これもまた、大学時代の彼の人徳が、周囲の人々の動かした結果といえる。

2019年、病気で崩れ去った東京へのプラン「想像し得る最大の底」

陸上界ではすでに有名選手だった山縣が、世間的に大きな認知を獲得したのが、2016年リオデジャネイロ五輪だった。個人では準決勝進出を果たし、4×100mリレーでは銀メダルを獲得。リレー入場時、飯塚翔太の発案で行った「リレー侍」ポーズ(刀を抜くパフォーマンス)が有名だが、山縣は一人だけ刀を抜き遅れている。「試合に集中していて、本当はやりたくなかった(笑)」と本人は出遅れた理由を説明する。彼のマイペースさを表すエピソードの一つだ。

メダル獲得以降、マネージャーの着信履歴が画面いっぱいになるほど注目を集め、短距離界のエースとして地位を確立した山縣。その後も、度重なるケガと付き合いながら、2018年日本選手権優勝など、実績を重ねていく。9秒台を出した桐生など、世界で戦えるライバルが増える中でも、“年間の成績が安定して速い”などの理由から、“最も強いスプリンター”ともいわれた。

しかし、大きな転機となったのが、2019年の病気とケガだろう。肺の穴から空気が漏れる「気胸」という症状を抱え、日本選手権を欠場。その他、年間の主要試合を欠場したのだ。

さらに、アメリカ合宿をスタートした11月には、右足首靱帯を断裂し全治3カ月。当初考えていたプラン、2019年世界陸上競技選手権大会代表→冬季トレーニング→翌年の東京五輪代表、という計画は、完全に崩れ去った(当時は東京五輪1年延期決定前)。

当時の気持ちを山縣は、「想像し得る最大の底だった」と語る。
ただ、前を向くことは、やめなかった。

「総括するとすごく苦しいシーズンでした。その中でも自分なりに前進した部分がある。体のコンディショニング、内面的なメンタルの保ち方とか、自分の中では進歩があった年」「開き直ってじゃないですけど、次に向けて失敗を恐れず、またチャレンジできるのはすごく良いこと」と未来を見た。

その前向きさは、何よりもアスリートにとって必要なものであろう。最善を尽くし、前を向いて進む者にしか、幸運は引き寄せられない。それが報われたのが2021年だった。

念願の9秒台と、0.001秒差での日本代表

コロナ過と1年のオリンピック延期を経て、迎えた東京五輪代表選考、2021シーズン。手始めに4月末、地元広島の織田幹雄記念国際陸上競技大会で10秒14をマークした山縣は、さらに6月6日の布施スプリントで偉業を達成する。ついに念願の9秒95を出し、日本記録を更新。「ここがゴールではない」と、オリンピック代表入りを誓った。

そして、6月末の日本選手権。史上最高レベルの戦いといわれた、男子100m決勝。レース終盤で粘りを見せた山縣は、多田修平、デーデー・ブルーノに続き、小池祐貴と同タイムの10秒27でフィニッシュ。分析の結果、山縣は10秒264、対する小池は10秒265。1000分の1秒差、わずか1センチ差で3位となり、代表の座を獲得した。

2019年からの2年間、ウェイトトレーニングを強化してトップスピード改善に取り組んだ。今までつけていなかったコーチを、今年2月から新しくつけるなど、多少の変化を加えた。しかし、「地に足をつけて」の山縣のスタンスは変わっていない。

「あまり力まず、地に足をつけてじゃないですけど、自分のやるべきこと・できることを見極めて、できることをしっかり積み上げていく。その先に東京五輪があればいいかなと考えています」と、常々語っていた成果が出た瞬間だった。

「この場に立たせていただけることに感謝」

あらゆる逆境を乗り越え、東京五輪を迎える山縣。大舞台での強さは光り、2012年ロンドン五輪でも、2016年リオ五輪でも、大会中に当時の自己記録を更新している。簡単ではないが同様に、東京五輪で自己新を記録すれば、目標とする100m決勝進出も現実味を帯びてくる。

日本選手団の主将として挑む今大会、開会式の選手宣誓で山縣は、以下の言葉を残した。

「開催にあたりさまざまなご意見があることは承知しております。この場に立たせていただけることに感謝し、精いっぱい走りたい」

たくさんの苦難を乗り越え、その場に立った彼に、似合う言葉だった。

そんな山縣の言葉を聞いて、思い出したことがある。
彼に、陸上のキャリアを問わず、今後の夢を聞いた時の言葉だ。
もし、それがこの東京大会で現実になれば。
それはそれは、素敵な話だと、思っている。

「ある知り合いの人が言っていたんですけど、“人生はどれだけの人を幸せにしたか選手権”なのだと。それ、いい言葉だなと思っていて。自分も、たくさんの人を明るい気持ちにできるかわからないけど、この人がいてくれてよかったなって思われるような、そんな人になりたい」

<了>