80年代は洋楽黄金時代!アルバムとシングルとミュージックビデオの幸せな関係  40年前の今日 - 1981年8月1日 MTVが米国で開局

レコード会社にあった、シングルカットの決定権

私のレコード会社の現役洋楽ディレクター時代は、まさに80年代。戦後以降、日本の洋楽マーケットは、そのほとんどがアメリカヒットシーンのスライドでした。

ビジネスの基本ツールは60年代はシングル盤、いわゆるドーナツ盤です。そして70年代に入ると、自作自演系アーティストが増え始めてアルバムの時代になりました。この頃からシングル盤の位置づけが変わり、アルバムからの “シングルカット” という用語が普通に交わされるようになったのです。つまり、発売されるシングル盤はアルバムをリードするためのもので、これがヒットすればアルバムはよく売れる… というわけです。

“リードシングル” という言い方も、以前は使っていたこともあります。

アメリカのレコード会社とアーティストの契約も、基本形は “何年間でアルバム何枚。これに対して印税アドバンスがいくら”… という風に契約年数とアルバム制作枚数が重要になってきました。そもそも契約の中でシングル盤のことについて触れられることはなく、どの曲をシングルカットするかの決定権は、レコード会社にありました。

我々日本のレコード会社洋楽部でも、アルバム発売時には、アーティストのタイプによりますが、シングルカットする曲の選定は、基本的にアメリカの編成方針に合わせていました。とは言え、日本でも洋楽ヒットはラジオがつくっていました。ですから、“あまりにもラジオフレンドリーでない” とか、“日本のマーケットに合わない” などの場合には、アメリカを無視して日本独自のシングル曲で発売することもありました。

洋楽黄金時代を生み出した原動力、画期的だったMTVの登場

としても、アメリカで大ヒットし全米チャートNo.1などになったら、面倒です。本国から “何故発売してないんだ” とか、”なんとかしてくれ” などの突然のプレッシャーがかかってくることもあるし、実際ヒットの話題で販売チャンスも増えるので、こういう時は、アメリカの曲をカップリングにして両A面的な見え方で保険をかけておくこともありました。

ただ80年代に入り、本国でMTVがスタートすると状況は一変します。シングルカットされた曲にほとんどミュージックビデオ(MV)が作られ始めたのです。それまでも映像はあったのですが、それは予算も十分なプライオリティものや大物の場合だけのことでした。

MVの24時間放送というMTVの登場は画期的でした。これがロックに映像を与え、いわゆる洋楽黄金の80年代を生み出す原動力になったのは紛れもない事実です。アルバムをリードするためにマーケットに投入されたシングル盤は強力に武装され、ますますその役割に磨きがかかったのです。

新人ジョン・エディ、プロモーション来日の機会に日本でMV撮影

シングルカット曲に、ほぼ毎回MVが作られるとなると、実は困ったことも起き始めたのです。今度は、いくら日本のマーケットに合わないからと言って、日本独自に別曲でのシングルカットを決めるとMVがありません。

本国MTVは24時間放送でしたが、日本にも、いずれも週一ですが、1981年には『ベストヒットUSA』が、1984年には『ポッパーズMTV』もスタート。同じ頃大阪ABCが契約したなんちゃってMTV、『MTVミュージックテレビジョン』なんてのもありました。地方局にも沢山お世話になっている洋楽番組があったのですが、MVがないことにはお付き合いできません。MVがないなら、これはもう作るしかありません。

実は、それなりの予算投入してMV制作したアーティストがいます。新人ジョン・エディ。当時私は係長でこのチームの責任者。担当者は後輩。1986年発売ですから、スプリングスティーン大成功をうけ、各社が競ってネクストロックンローラーを売り出そうとしていた頃です。

アルバム邦題は『青春の鼓動(JOHN EDDIE)』。「ジャングル・ボーイ」がアメリカのシングル曲。もちろんMVも到着しています。残念ながらいまひとつ我々の心に刺さりません。アルバムの中にポテンシャル高そうな曲がありました。それが「ハイド・アウト」で、強気に “日本独自でヒットつくろうぜ!”、とこちらにチェンジ。プロモーション来日の機会をとらえて日本でMVを撮影。カップリングには、前述の如く、保険をかけてアメリカ発売の曲を入れて両A面的な文字の扱いで処理。とは言え、結果はご存知のように、彼は有名人ではありません。つまり日米共に打ち上げ失敗だった… というわけです。

日本独自のシングルカット、ビリー・ジョエル「今宵はフォーエバー」

日本独自のシングルカットの例では、珍しくビッグアーティストでもありました。それは私が担当したビリー・ジョエルの1983年の大ヒットアルバム『イノセント・マン』からのシングルカットです。

そのファーストシングルは、ご存知「あの娘にアタック」で全米No.1に輝いて日本でも大ヒット。これに続くセカンドシングルが実はアメリカの「アップタウン・ガール」とは違うのです。

日本では2枚目に「This Night~今宵はフォーエバー」を発売しています。実はこの曲、ベートーベンの悲愴をモチーフにしたバラードで、うちのクラシック好きな部長のお気に入り。さっそくSONYに持ち込んで、秋の商品のTVCM曲に決めてくれたのです。ビリーに関しては「ストレンジャー」以降、親会社のSONYも大歓迎で何度もTVCMのチャンスをもらってました。

気を付けなきゃいけないカップリング曲

このTVCM、商品は年末の商戦期に向けてのものですが、スポット10月から流れます。曲のイメージも晩秋の夜にぴったり、というところで、これはこれで嬉しい機会でしたが、日本で編成会議にかける8月には、アメリカでは既にアルバムは大ヒットモード。立て続けに9月には「アップタウン・ガール」をカットする情報もあったのですが、こちらも、それなりの出稿量のTVスポット付きもの。このシングルを10月に発売せざるをえないのです。

これを「アップタウン・ガール」とのカップリングにするには、もったいない。それぞれが強い曲で、シングルとしての売り上げもある程度期待できるので、その選択肢はなし。

実は日本独自シングルカットの時に気を付けなきゃいけないのが、このカップリング曲です。アルバム収録曲の中から、シングルカットされない可能性が一番高い曲を選ばないといけません。もしその曲が将来カットされたら後々面倒ですよね。このシングルに関しては、私は「ケアレス・トーク」と言う曲を選び、以降の怒涛のシングルカット攻勢から無事逃げ切りました。

本国でのセカンドシングルの「アップタウン・ガール」は日本での3枚目として翌11月に続けて発売しました。実際、この曲はアメリカでは9月に発売され、1枚目のNo.1に次いで、この曲もNo.3まであがり、アルバムセールスにターボをいれてます。

MVで強くユーザーにアピール、日本の洋楽マーケットが拡大!

同じく担当したブルース・スプリングスティーン『BONE IN THE USA』の千数百万枚というモンスターセールスには劣りますが、ビリーのこの作品も全10曲収録で1年以上に亘っての7枚のシングルカットを経て、700万枚越えという立派なスーパーセールスを記録しています。

『BONE IN THE USA』にしても全12曲収録で7枚のシングルをカットしています。そのほとんどがTOP10ヒットになったわけですから、アルバムが売れないわけないですね。

アルバムから何枚ものシングルカットがなされても、MVの存在により、ラジオだけのプロモーションでなくなり、今まで以上にきっちりと、強くユーザーにアピールできるようになりました。ひとつのアルバムから沢山のヒット曲が生まれています。これにより、それまでの時代より遥かにアルバムセールスの数字が大きくなりアメリカの音楽産業も伸びましたし、同時に日本の洋楽マーケットも拡大傾向にはいったのです。

カタリベ: 喜久野俊和

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