【新宿ゴールデン街交友録 裏50年史】87歳現役ママ・おみっちゃんの“解放区”に集った面々

72年頃の「ゴールデンゲート」で(右から)映画監督・崔洋一、佐々木美智子、故原田芳雄さん、筆者

新宿ゴールデン街の女傑といえば「まえだ」のママ、「しの」ママ、「唯尼庵」のキヨ…。そして佐々木美智子=おみっちゃんだろう! かつて1960年代後半に「むささび」をやっていて、その後数々の遍歴を経て、今は「ひしょう」のママに収まっている。御歳87歳。

北海道の根室出身。日活撮影所の編集の仕事をしている時、赤木圭一郎が撮影所内でゴーカートを運転中に鉄扉に激突した事故(1961年)にも遭遇。「撮影所に居て食堂付近がやけに騒がしいが…」とその時の様子を話してくれた事があった。

私が知り合ったのは「むささび」辞めて歌舞伎町にあった「ゴールデンゲート」をやっていた頃、1972年頃か? 当時の「ゴールデンゲート」はおみっちゃんの言葉を借りれば、まさに「解放区」だった。ゴールデン街の店が深夜2~3時に閉まった後、行き場のなくなった人達が続々と店に集まって来る。映画、演劇関係者、マスコミ、運動家、店のオーナー達。右翼から左翼まで入り乱れ、毎日がドンチャン騒ぎの祭り状態だった。

ゴジ(長谷川和彦)、ボン(高橋伴明)、若松孝二、黒木和雄、藤田敏八、崔洋一、荒井晴彦、石橋蓮司、原田芳雄、山谷初男、山下洋輔、坂田明、阿部勉(一水会、三島由紀夫の楯の会)…。ゴールデン街界隈が一番面白かった時代だったかもしれない。今思い返せば俺もまともにお金を払った事がないかも。喧嘩も日常茶飯事だった。皆、何かに怒っていた時代でもあった。

その後、彼女は1年間のスペイン放浪旅を経て再びゴールデン街の「黄金時代」のカウンターに入る。そこで徹底してお金を貯め、今度はブラジルを目指す。1979年1月15日。ブラジルに飛ぶのに新幹線で大阪に行き、伊丹空港から韓国経由で飛んでいった。成田闘争にも加担していたから「成田から乗りたくない」と強い意思を示していた。その東京駅までたこちゃん(たこ八郎)と見送りに行った。たこちゃんがおみっちゃんの手を握り「寂しいよ~」と。

1974年に彼女が創った映画「いつか死ぬのね」には当時のたこちゃんやゴールデン街仲間が映っていて、今見ても泣けてしまう!(敬称略)

◆外波山文明(とばやま・ぶんめい)1947年1月11日生まれ。役者として演劇、テレビ、映画、CMなどで活躍。劇団椿組主宰。新宿ゴールデン街商店街振興組合組合長。バー「クラクラ」オーナー。

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