沖縄米部隊、核実弾訓練半年で150回

変わらぬ要衝、常に有事

© 株式会社全国新聞ネット

 冷戦期、米軍統治下にあった沖縄に配備された米空軍の核兵器管理部隊。その活動の詳細をつづった米軍記録の内容がこのほど判明した。核爆弾の実弾を使った搬出入訓練は1957年前半だけで少なくとも約150回。訓練に多く使われたのは、日本に投下された原爆をはるかに上回る破壊力を持つ核爆弾だ。台湾有事などでの核の実戦使用を想定した出撃基地として使われていた沖縄では、住民が日常生活を送る傍らで常に“有事”が展開してきた。来年は沖縄返還から50年。現在に至るまで、米軍戦略の要衝と位置付けられてきた沖縄が負う安全保障のコストは、決して低減していない。(共同通信=豊田祐基子)

米軍嘉手納基地で戦闘機に装着される核爆弾。写真は水爆「MK28」で撮影日は1962年10月23日となっている(国家安全保障公文書館提供、米国立公文書館所蔵)

 ▽核運搬は「成果」

 文書は、嘉手納基地(沖縄県嘉手納町など)を管理・運営していた米空軍第313航空師団(現在の第18航空団)の年次報告で、琉球大の我部政明名誉教授がその55~64年分を入手していた。

 年次報告は米アラバマ州のマクスウェル空軍基地に保管されていたが、現在は閲覧できなくなっている。我部名誉教授が入手した資料に、核兵器の組み立て、搬出入を専門とする第12航空貯蔵中隊、核兵器・弾薬を管理する第7戦術貯蔵中隊に関する記載が含まれていた。両中隊は嘉手納基地に配備されていた。

 米公文書では、機密解除されても核に関する記載は安全保障上の理由から黒塗りだ。しかし、年次報告は、通常黒塗りの対象となる「核」という言葉だけでなく、「スペシャル・ウエポン(特殊兵器)」「ホット・ウエポン(熱い兵器)」といった核兵器を明示する記載が残されている点でも特異といえる。

 57年の報告によれば、第12航空貯蔵中隊は米本土やグアムから飛来する爆撃機から嘉手納基地に核爆弾を運び出し、点検後に機内に積み入れるなどの訓練を実施。同年前半だけでも約150回の実弾を用いた訓練が確認された。57年3月には、嘉手納基地を核戦争時の出撃拠点に想定した戦略空軍の大規模演習「ホワイトホース(白馬)」を実施している。

 一連の訓練では、広島に投下された原爆の100倍以上の破壊力を持つ水爆「MK15」や爆撃機搭載用の「MK6」など複数種類の核爆弾が用いられていた。

 有事作戦計画を確実に実行するため多様な核爆弾を素早く運搬することが求められており、「平均約1時間14分でのMK15の搬出入を59回成功させた」「平均1時間5分でのMK6の運搬に84回成功し、おおむね満足できる結果だった」などと訓練の“成果”を誇った箇所も多い。

 この年の報告には、全面戦争の際に第7戦術貯蔵中隊が管理する嘉手納の核兵器を使う作戦計画や、硫黄島の核兵器を使った作戦計画を策定していたことも記されている。

 報告からは、核分裂物質を含む「核コンポーネント」と呼ばれる核兵器の中核部分が米本土との間で頻繁に搬出入されていたことも確認された。

 高温多湿の沖縄では兵器を覆う防護カバーが腐食しやすく、核兵器を“虫干し”していた安全管理の内情も記録されている。「沖縄の最悪な点は多湿であることだ」との記載があるように、沖縄の基地は米軍にとって利用価値が高い一方、弾薬庫に貯蔵した兵器の管理は「深刻な問題」だったようだ。湿気による劣化が早いとして、核兵器を定期的に弾薬庫から出し外気にさらしていたとしている。

沖縄返還後も継続使用された米軍嘉手納基地で、金網越しに爆撃機を見つめる住民ら=1972年10月

 ▽焦土でも反撃

 極東最大の出撃拠点とみなされていた沖縄の基地は、有事には敵国の最大の標的となる。米空軍第313航空師団の年次報告からは、沖縄が焦土と化しても敵の追加攻撃を封じるのに十分な反撃能力を維持できるよう、米軍が核ミサイルを分散配置した経緯も明らかになった。

 60~63年の年次報告によると、米軍は50年代後半に、中国や旧ソ連をにらむ核巡航ミサイル「メースB」の沖縄配備を内部決定。沖縄が1メガトン(広島原爆の約60倍に相当)の核攻撃を受けた後「敵の第二撃を弱体化させ、第三撃を不可能にする」反撃能力を持つには、ミサイルの集中配備を避けることが必要だとして、読谷村、恩納村を含む県内4カ所へ分散配備を進めた。

 「基地を強化しない場合、核攻撃に耐えられるのはミサイル48基中1基」といった記載が並び、被害想定やミサイル基地強化に要する費用を巡り、さまざまな試算をした様子がうかがえる。

 50年代にはメースBの前身となった核搭載可能な地対地ミサイル「マタドール」の配備先として日本本土を検討したが、根強い反核感情を理由に断念した経緯もつづられている。配備先候補地には福岡が挙がったが「日本政府にとって政治的自殺だ」と判断、米統治下で核兵器を無制限に運用できる沖縄なら「住民は反対するだろうが、何もできない」として最終的に配備を決定していた。

 ▽自由に使える基地

 一連の文書には「アジア最大の核兵器庫」と称された沖縄で、実戦さながらの核爆弾の搬出入が恒常的に行われていた様子など「米国の戦争」の舞台裏が生々しく記録されている。52年発効のサンフランシスコ講和条約で日本本土から分離され、米軍統治下に置かれた沖縄の最大の価値は、米国にとって一貫して「自由に使える基地」にあった。

 「日本には核兵器を国内に持ち込むことにかなりの反対があり、そうした兵器の基地として沖縄に米国の地位を維持する必要性を完全に理解している」。61年の日米首脳会談で沖縄の軍事的重要性を強調するケネディ米大統領に、池田勇人首相はそう応じている。

1961年6月、ワシントンで会談する池田勇人首相(右)とケネディ米大統領(UPI=共同)

 沖縄は第2次大戦直後から、核戦争の司令塔となる米戦略空軍の出撃基地となることが想定されていた。「大量報復戦略」の下、ソ連など共産勢力の侵攻に核で応戦する政策を取ったアイゼンハワー政権は同盟国に核を実戦配備したが、最もあからさまな核基地化が進んだのも沖縄だった。

 50年代半ば以降、約20種類の核兵器が持ち込まれ、核爆弾投下訓練などを行うための土地の接収が強行された。嘉手納基地に隣接する一帯には5万トン分の弾薬貯蔵施設を保持する核管理部隊が配備された。

 沖縄の核は、50年代に2度にわたり起きた台湾海峡危機を受けて増強され、米公文書によれば、58年の2度目の危機時には嘉手納基地から中国を核攻撃する計画が検討されていた。当時の統合参謀本部議長は中国が核攻撃で退かなければ、上海に至るまで核攻撃をする以外の選択肢はないと主張。「(ソ連が)ほぼ確実に台湾へ核による報復攻撃を行い、沖縄も対象となる可能性がある」との認識を示していた。

 日米史家の新原昭治氏の研究によれば、ベトナム戦争時には沖縄から原子砲がベトナムに持ち込まれたほか、ベトナムに派兵された米軍が担当者を沖縄に派遣して核使用準備の訓練を行っていた。67年には沖縄の海兵隊基地で核地雷を使用した訓練中に事故が起き、米兵が被ばくしていたことが明らかになっている。

 ▽戦争の要、変わらず

 69年の日米首脳会談で沖縄の「核抜き本土並み」返還が決定したことを受けて、これらの核兵器は撤去された。だが、当時の佐藤栄作首相の密使を務めた若泉敬氏の証言で、有事の際に沖縄への核再持ち込み・貯蔵を認める密約が日米で交わされていたことが判明した。

1969年11月、米ホワイトハウスで会談する佐藤栄作首相(左)とニクソン米大統領。2人は沖縄返還に合意した(共同)

 沖縄の「負担軽減」を掲げる日本政府は普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古沿岸部への移設にまい進する一方、軍縮に向けた具体的な対応は見えてこない。現在も米ロの中距離核戦力(INF)廃棄条約が失効したのを受け、米国による地上発射型中距離ミサイルの配備先に沖縄が取り沙汰される。

 我部名誉教授は「航空力競争で圧倒的優位に立ってきた米国のパワーを体現するのが、自由に使える嘉手納基地だった。将来、台湾海峡有事となれば、最も近接する嘉手納基地からの直接出撃が行われるだろう」とする。

 4月の日米首脳会談では共同文書としては52年ぶりに「台湾の平和と安定」を明記。菅政権からは「日米で台湾を防衛する」との発言が飛び出し、出撃拠点のみならず防衛最前線と化した沖縄での戦力強化は既定路線であるかのようだ。しかし、そのコストを日本全土でどう負うのかは、議論される気配はない。

 第313航空師団の年次報告は琉球大学島嶼地域科学研究所のホームページで公開中。