16歳少女が見たヒロシマ、手記ににじむ原爆詩作者の思い

原爆詩「ヒロシマの空」作者の林幸子さんが書き残した膨大な手記

 お母ちゃんの骨は 口に入れると さみしい味がする―。原爆詩を代表する作品の一つ「ヒロシマの空」。作者で被爆者の林幸子さん(2011年に81歳で死去)の手記が、東京都の遺族宅で見つかった。76年前のあの日、16歳の少女は原爆が投下された広島で一体何を目撃したのか。今年で没後10年。詩に込めた思いを追った。(共同通信=山上高弘)

 1945年8月6日、高等女学生だった林さんは、爆心地から約2・5キロの学徒動員先の工場で被爆。戦後は原爆詩人の峠三吉(17~53年)らと活動し、詩を通して反戦平和を訴えた。

1950年10月、記念写真に納まる林幸子さん(中列左から3人目)。前列左端は原爆詩人の峠三吉=広島市(広島文学資料保全の会提供)

 ヒロシマの空は、50年に発表された120行ほどの長編で、原爆投下から約1カ月の間に肉親を亡くした悲哀を描いた。林さんは戦後しばらくして東京に移り、詩作をやめたが、ヒロシマの空は俳優吉永小百合さんが30年以上にわたり朗読し、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の朗読事業などでも活用されている。

 原爆詩「ヒロシマの空」は同館のホームページ(https://www.hiro-tsuitokinenkan.go.jp/project/readers/sachiko-hayashi.html)にも掲載されている。

 ▽手記に残した「あの日」の出来事

 「ピカッ!その一瞬、ドーンと、大轟音(ごうおん)が大地をゆるがす。『熱いっ』と感じたのを覚えている」

 学徒動員先の工場で被爆した林さんは飛散したガラス片で重傷を負った。その後、爆心地近くの自宅を目指し廃虚をさまよう。

 「るいるいと横たわる砂や灰にまみれた鮪(まぐろ)のよう…もうそれは人間ではない」

 全身が焼けただれ、膨張した「裸形」の人で街はあふれた。ぼろぼろになって横たわる女性の近くでは、赤ん坊が泣いていた。

 父惣一さんと翌7日に再会。母シズ子さんと弟祐一さんは自宅の下敷きになり、炎に巻かれて死んだと聞かされた。遺骨を探しに行くと、祐一さんはシズ子さんのそばで半分骨になり、内臓が焼け残っていた。

 軽傷とみられた惣一さんも髪が抜け始め、体中に紫の斑点が現れた。原爆症特有の症状とみられ、9月1日に病床で息を引き取った。手記には火葬の様子もつづられた。

 「まだ焼けていない、父の姿が見える。私は、はっとして、眼を反らし、青空に上る白煙を見つめた」

 林さんは骨箱に入りきらない骨を雑木林の小屋に運んだ。「お父さん、ごめんなさい」。無造作に積まれた遺骨の山に向かって合掌した。

 ▽「ヒロシマの空」への言及、随所に

 手記は長男が保管していた。清書とみられるA4判約100枚のワープロ打ちの他、数え切れないほどの手書き原稿やメモが残り、ヒロシマの空に関する記述も多い。

林幸子さんの手記には代表作「ヒロシマの空」についての記述も随所に見られる

 林さんは1980年代に書いたとみられるくだりでヒロシマの空に触れ「あの詩では、多くの死んでいった人たちのこと、いちばん苦しい事、醜くい事、そうした諸々(もろもろ)のことをろ化したうわずみを詩にしている」(原文ママ)と説明。「そのどろどろとした諸々(中略)を凝視してこそ、あの醜悪の極みである原爆に肉薄出来る最短距離ではないだろうか」「あれは嘘(うそ)ではない真実だという思いを、今も変えていないことを知っていただきたい」とつづった。

 また米ソ冷戦下で核兵器が使われる危機感も強くにじませ「自分の生きてきた軌跡を書き残す事が、この先何代まで続くかわからない絶望な状況の現代にあって何かのお役に立てるのではないか」と思いを記した。

 広島原爆資料館学芸課の菊楽忍(きくらく・しのぶ)さんは「原爆投下時、林さんのような高等女学校の上級生の中には、郊外の工場に動員され、奇跡的に自分だけが助かったという人たちが多い。感受性が強い年頃でもあり、原爆に対してより繊細なとらえ方をする世代とも言える」と説明する。ヒロシマの空については「林さんが原爆投下後の約1カ月間の体験を詩にしており、直接的な表現はないものの、無差別攻撃の悲惨さや、原爆症といった被害の特徴が伝わる。詩につづられた家族を失った悲しみは普遍的であり、戦争や原爆を知らない今日の世代にも共感してもらえるはずだ」と話す。

 ▽非核の思い、孫が継承

 「祖母が詩に込めた思いを伝えていきたい」。林さんの没後10年となった今、孫の中山涼子さん(28)=東京都=が林さんの非核の思いを継承し、歩み始めている。

詩の朗読などを通し、林幸子さんの非核の思いを伝える孫の中山涼子さん=2020年12月、東京都内

 林さんは生前、家族に被爆体験を語らなかった。中山さんは「祖母の体験を深く知りたい」と、仕事で広島に勤務したのを機に足跡をたどり始めた。市民団体主催の朗読会で林さんの詩を紹介する他、共に活動した原爆詩人の峠三吉を題材にした劇では、林さんの青年期を自ら演じた。

 中山さんは「つらい記憶を文章で書き残すことが祖母なりの方法だった」と推し量る。「16歳の少女があの日何を体験したのか。祖母の残した言葉を足掛かりに、戦争の恐ろしさや命の尊さを伝えることができたら」と話している。

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 原爆詩 1945年8月6日に広島へ、9日に長崎へ投下された原爆のことを詠んだ詩。広島では「ちちをかえせ ははをかえせ」とつづった峠三吉(1917~53年)の「序」や、重傷者が集まる地下室での出産を描いた栗原貞子(1913~2005年)の「生ましめんかな」などが広く知られる。長崎でも福田須磨子(1922~74年)らが活躍。俳優吉永小百合さんは86年から原爆詩の朗読を続け、林幸子さんの「ヒロシマの空」は、12編を選んだCD「第二楽章」に収録された。

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