【吉田兄弟】<吉田健一さんインタビュー第1弾>津軽三味線との出会い、兄とのユニット結成秘話、注目を浴びたキッカケや活躍する為の努力

津軽三味線の第一人者として活躍する吉田兄弟の弟、健一さんに迫るインタビュー。

ヒーローを夢見るヒト応援メディアの『HiRTo』では健一さんに三味線との出会い、注目を浴びたキッカケ、活躍する為の努力、数多くの作品とのコラボ、そして第一人者としてヒーローを目指す方々へのアドバイスなどをたっぷりと語ってもらったインタビューを2回に分けてお届けします。

【三味線との出会い】

―― まずは三味線との出会いを教えてください。

吉田 5歳の時に兄(良一郎さん)が先に始めているんですけれども、当時家の周りでエレクトーンとかみんな習い事を始める中で、父親に『自分も何か始めたいんだけど』という話を兄がしたらしいんですね。その時に父親から言われたのが、全然他の洋楽器とかではなくて、『三味線どうだ?』という話でした。

―― お父さんから三味線どうだ?という話だったんですね。

吉田 そうなんですよ。じゃないとやっぱり出会わないですよね(笑)そもそも。

―― 三味線というともっと年齢が経たないとできないものなのかなという勝手なイメージでは思うんですけれども、そうじゃないんですね。

吉田 やっぱり全然楽器の方が大きいです。子供用ってないんですよ。バイオリンとかあるじゃないですか。長さは全部一緒なんですよ。短くできないから、結局短くしちゃうと三線(さんしん)になっちゃうので。だから同じ大きさのものを大人も小さい子もみんな同じものを使うんです。小学校5年生ぐらいにならないとそもそも(手が)届かないんですよね。

―― それでもチャレンジは続けたということですね。

吉田 そうですね。チューニングに関しては、上に”ねじめ”というものが付いていて、そこに糸が巻いてあるんですけれども。それをやるところに手が届かないのでチューニングするたびに下ろして、チューニングをして、また持ってというような感じで昔はやっていましたね。

―― 継続された理由というのはどういう所だったんですか?

吉田 1番は父親の熱意ですよね。

―― お父さんがすごく熱心だったんですね。

吉田 そうですね。周りにはそういう三味線をやっている人達は全然いなかったですし、稽古場に行った時にジュース飲めたりお菓子を食べれたりそういうような感覚で、子供ながらに週に1回楽しいことがあるよねっていう感じだったんです。 だから習い事という感じではなくて、その当時は自宅から自転車で20分ぐらいのところにある稽古場があって、女性の先生だったんですけれどもおばあちゃんで、 兄弟弟子は全部おじいちゃんおばあちゃんだからかわいがってくれたんですよね、周りが。環境としてはすごく居心地は良かったですよ。

―― 自分が1番年下ですよね、言ってみれば。

吉田 そうですね。兄弟弟子ですけどね(笑)おばあちゃんからするとすごい孫のように可愛がってもらい、ただ幼稚園から始めているのでそれこそ小学校5、6年生になるとやっぱり恥ずかしさも覚えてきて、あとはやっぱり周りにいないということに気づくんですよね。学校のプロフィールとかに趣味特技とか書くところ結構あったじゃないですか。そこに三味線って書けなかったですもんね。書きたくないっていう…

―― じゃあ野球とかサッカーとか?

吉田 そうですよね。やっぱりサッカーとかスポーツとかゲームというような感じで隠そうという感じに段々なっていったんですよ。 やっぱり地元のお祭りとかに演奏で駆り出されるんですよね。

―― やはり教室でやられているから?

吉田 そうなんですよ。そうしたら浴衣で演奏しなきゃいけないんですよ。その時に同学年の友達が目の前で遊んでいるわけですよ。それで見られるわけですよね。そして次の日冷やかされるという。これの繰り返しですね。

―― そういう時代がありましたけれども、吉田兄弟がそこにある意味革命を起こしたんじゃないかなと思うんですね。お2人が出てかっこいい演奏をすることによって、恥ずかしいものではなくてすごいなと思われるようなそこにチェンジできたというのは吉田兄弟のお2人のおかげなんじゃないかなという風に思います。

吉田 当時ちょうど2002年から中学校の選択授業に和楽器が取り入れられた年だったんです。それが決まったのが僕らがデビューする直前だったんですよ。それで学校で演奏する若い奏者が必要だろうということで、当時文科省(文部科学省)と僕の最初のレーベルがビクターだったんですけれども、ビクターに伝統文化振興財団というのが今もあるんですけれども、そこがタッグを組んで、誰か若い子にデビューさせようというので、僕らがデビューしたんです。やっぱりそういう役割はどこかにあるんですよね。

―― 運命的なものをそこは感じますね。

吉田 同じ時期に東儀秀樹さん(雅楽)とか和楽器でそういう方がワーっとデビューした年だったんです。

―― そういう奇跡的なタイミングにも恵まれていますよね。

吉田 そうですね。それは確かにタイミングですよね。

―― 動画を拝見させていただいたら中学生になったら、お兄さんと一緒にやめようみたいな話がありましたね(笑)

吉田 そうですね(笑)小学校4年生と6年生の時に中学校に入ったらやめようと相談してて、母親に話してたんですが、母親から『父親が勧めたものだから私じゃなくてお父さんに話しなさい』と言われてしまい、それを言ったら追い出されるんじゃないかぐらいの感じだったので、ずるずるずるずるやっていたら、父親が津軽って男性っぽい楽器なので地元の先生よりも、男性の師匠に習いに今度は札幌まで行くことになりました。

今は女性もたくさんいますが当時は男性の方が多かったんです。昔、父親が憧れた奏者というか 炭鉱で働いていた時に民謡のツアーが回ってくるんですよね。その時に見た三味線の演奏というのが素晴らしくて父は仕事を辞めて奏者になりたかったんですよ、20代の頃に。 それで一時期習ったんです、って。でも習ったんですけどもその年齢で稽古とか周りから反対を受けて断念するんですけれども、やっぱりその夢を子供達にということだったのでその男性の師匠に今度は登別から札幌まで毎月1回通うようになるんですよ。それが流派の1番トップの家元だったという。

それまでは近所の先生がその流派の名取さんで、今度は家元のところまで月に1回習うという生活が4年くらい、その日は学校休んで行ってました。

―― その時は苦痛には感じなかったんですか?

吉田 もう流れに任せるしかなくて、父親も何回も断られていたんですよ。名取だけで100人抱えているので子供なんかに教えてる暇がないんですよ。

―― なるほど。お父さんの情熱がめちゃくちゃ強かったんですね。

吉田 しかも1個だけチャンスがあったのが、実は師匠って昔父親が少し習った先生だったんです。

―― そういう繋がりがあったんですね。

吉田 まさかのという。でたまたま全部の会が集まるのが 年に1回あるんですけれども温泉地とかで。その時に家元から僕が目をつけられて、子供ながらに一生懸命弾いているものだから。どこの会の子なんだいって聞かれた時に父親がたまたま横にいて、それで父親が『お久しぶりです』というのがあったんです。父親はチャンスだと思って(笑)やめたい気持ちも全然無視というか、それも知らずに何回も札幌までお願いに上がりに行って、3回目ぐらいでじゃあ1回おいでと言われて。

―― 本当に今となってはお父さんの熱意のおかげで今があるということですね。

吉田 本当にそうなんです。結局その時もまだじょんがら節という有名な曲とかは全然弾けないので結局父親が、座頭市っていう映画があるじゃないですか勝新太郎さんの。あそこに津軽じょんがら節が出てくるんですよ。それを見てそれを覚えて家元の前で弾こうという発想になり、兄貴が当時レンタルショップまで行って座頭市を借りてきて、小学校5年生ぐらいの時に。

―― 渋いですね(笑)

吉田 渋いですよね(笑)でも座頭市ってめちゃくちゃシリーズいっぱいあるじゃないですか。どこにじょんがら節が入っているか分からないんですよ(笑)

―― 全部見ていかないといけない。

吉田 たまたま金曜ロードショー的な感じで再放送になっていたんですね、何日か前に。それを店員さんに話したら探してくれたらしくて。それを今度ビデオテープから僕が全部音を録って、覚えて楽譜に書いて、それを持って行ってやっと OK もらったという感じでした。

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―― お父さんの熱意とお2人がそれを受け入れて頑張ってきたというところがすごいですね。その後、大人になったお二人はお父さんに御礼をされたんですか?

吉田 御礼というか返せるものがないかなといった時に、言葉では当然あるんですけれどもすごく楽器ってお金がかかるんですよね。しかも2人分じゃないですか。三味線って1番安いのでも20万円クラスなので、 1番良いとされるものでやっぱり200万円前後するんですね。家の状態とかもあまり良くなくて、建物自体が。それで兄貴と話をして建て直したという。

―― 素晴らしい!これはいい話ですね、親にとって1番嬉しいのはそれだと。 でもよくお父さんの熱意に応えて頑張りましたね。

吉田 そうですね。でも本当に師匠との出会いが1番大きくて、初めてかっこいいと思える奏者に出会えた。あと奏法が素晴らしかったですね。音色がすごくて。

―― 小さいながらに違いが分かるんですね。

吉田 それは分かったんですよね。分かったので、『この人について行こう』と感じたのと、あとはやっぱり今まで普通にやっていた民謡とかとの大きな違いは、民謡は楽譜がある程度書かれていて、 洋楽器の楽譜をちょっと真似た3線譜というのがあって3本線の上に数字が羅列してあるんですね。なんですけれども津軽民謡というのはそもそもアドリブで弾いているのでないんですよ、楽譜が。存在しないんです。

―― 初めて知りました。

吉田 なので流派によって内容が全然違うんですよね。それを僕らは知らずに師匠のとこに行って教えられるんですけれども、津軽なんとか節というのを教えられるじゃないですか。それで次の月に全く同じものを僕たちは完璧に暗記して行くんですよ。なんですけれども師匠はアドリブで弾いているから次の月に行っても同じタイトルなのに全然違うんですよ。

―― そういうこともあるんですね(笑)

吉田 (笑)曲が違うなって。タイトル同じなんだけれども。そういう感じで体験をさせられて覚えさせられる。

―― 耳でってことですか?

吉田 耳です。 師匠を目の前にして、『先月と違います』って言えないじゃないですか。

―― 言えないですよね。でもアドリブですよねとは言えますか?

吉田 言えるわけないじゃないですか(笑)基本的に、師匠に足を向けるような行為は名取さんも許されませんし、すごい厳しいので。

―― 絶対的なピラミッドがあるんですね。

吉田 あるんですよ。どっちかと言うと先生よりも名取さんが厳しいんですよ。僕らみたいなのが来ると『なんで子供がここにいるんだ?』と思っているんです。そもそも嫉妬があるんです。1人子供 OK にしてしまうと名取さんのお子さんっていっぱいいるじゃないですか。じゃあうちも、うちもとなるから、だからそれもあって取りたくないという気持ちもあったみたいですね、家元は。ただやっぱりそこに対する僕らの父親も含めて熱意というか、ついていくスピードが名取さんよりも全然早いんですよ。子供だから吸収力があるんで、めちゃくちゃ耳がいいからスポンジのように吸っていくわけです。だから、いつもは稽古って本当は1時間ぐらい終わりで、しかも名取さんの稽古って団体で3、4人でやるんですけれども、僕らは2人だけの稽古で、それも2時間とか3時間近くになるんですよ。家元が乗ってくるんです。

―― 気持ちよくなっていくんですね。

吉田 教えたらどこまでも覚えていくんで(笑)ついにご飯まで食べさせて頂いたり。そういう稽古が4年ちょっとぐらい。その間に全国大会に出場する機会があって、全国大会は青森県であるんですけれども、そこで初めて同年代がいるということに気づいて、ライバルができ始めるっていう感じです。

―― その時のライバルの人というのは技量的には同年代でどうだったんですか?

吉田 自分達は初め分からないじゃないですか。そもそも競い合うのが僕と兄貴しかいないから。今までなんとなく仲良しこよしでやってきたんですけれども、やっぱり初めて点数が付くというか、順位が分かるというふうになるので。でもほとんど僕らよりも上の人達なんですよ。

―― 年長者の方ばかり?

吉田 そうなんです。小学校5年生ぐらいで出ている人はほとんどいないんです。 A 級、B 級、 C 級があって、 A 級が1番うまい、経験年数で分かれているんですけれども。1番下の級に僕が初めて5年生で出た時に特別賞に入ったんですね。そこからは兄との関係が一気に変わりまして、お互いライバルとして1年に1回の大会のために、しかも曲を作らなければいけないんですよ。

―― オリジナルですか?

吉田 そうです。津軽じょんがら節を大体みんな弾くんですけれども、さっきも言ったようにタイトルだけあって内容が決まっていないので。やっぱり上手い人達の演奏をテープに録音して、そのテクニックをまず盗むんですよ。座頭市と一緒で聞いたものをこの人の分はここ、この人の分はここって感じで組み合わせていくんですよ。 そこから手を盗むことが始まるんですよ。あと兄貴が真似したフレーズは僕が真似できないですし、違うものにしなければいけないので、フレーズの取り合いですよね。

―― そうなんですね。では一緒にこれを聞いて一緒にやるというのは無くなっていったのですか。

吉田 それからはなくなりましたね。壁1枚挟んでお互い曲を作るから。でも丸聞こえじゃないですか。

―― あっちあんなのやっているなみたいな。

吉田 これは真似できないな、違うの考えるみたいなのがそこから10年間。デビューの直前まで大会に出てましたから。

―― 例えばもう辞めてしまってバイク乗ろうとか、違う楽しみに切り替えようとかもなかったのですか?

吉田 学校に行く、部活をやるというのは普通にやっていたんですね。遊びも普通にやっていたので家に帰ってからの生活が”ご飯を食べる前に弾く、食べたらまた弾く”なんですよね。

―― そういうのが当たり前になってたのですね。

吉田 毎日でした。父親は『稽古をしなくてもいいけれども、まず触るのだけは毎日やれと、10分でも。』と言われていたんですけど、本当にその通りで、3日弾かないと手元がかなり狂ってくるんです。

―― 3日ですか?!

吉田 3日弾かないと戻すのにかなり時間がかかります。あとは叩く力が強いので手首へのショックの感じ方が抜けていくんですよね。体が忘れていくというか。なのでそれをやらなければいけないので、父親は全然残業とかをする人ではなかったので定時に帰ってくるんですよ5時から6時に。楽器を練習していないとうるさいから、家の前が畑だったので二階から双眼鏡で調べて帰ってきたら三味線を出してやってるふりというのは母親と結託してやってましたね(笑)

―― (笑)そういうところを頑張ってきたからこそ今があると思うので、ご自身の中では当たり前だったかも分からないですけれども、 それはすごい努力の結晶でなられたんだなというのが分かりました。

吉田 その与えられたタイミングというのが本当によかったなというか、今考えればさっきおっしゃったように奇跡的なもので、辞めようと思ったら師匠が変わるとか、全国大会に出会ってみたいなのが、本当にそれがなかったら絶対に辞めていますし、やっぱり全国大会で優勝するという1個目標がそこでできたという。 優勝しているのがじいちゃんばあちゃんじゃなかったんですよ。相手も20代だったんです。 すごい上手い先生方は出ないんですよ、大会には。若いお弟子さん達が出るんですけれども、そういう姿を見て、あんな風になりたいというのがひとつ近い目標というか。師匠はものすごく遠い天の上の人なのでそこにはなれないけれども、ここだったらたどり着けるかもしれないなって思えた瞬間だったんですね。

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【注目を浴びたキッカケ】
―― そして吉田兄弟として世の中に出てきた時に起点となったタイミングって何かあったんじゃないかなと思うんですよね。

吉田 まず兄弟でやってたというのがひとつあって、あまりそれほど多くはなかったんですよね。あと賞にお互いが入り始めるようになって地元紙とかメディアに結構取り上げられるようになって、そこで初めて吉田兄弟と呼ばれるようになるんですよ。

―― 小さい時から地元の人からは注目されたのではないですか?

吉田 小さい子で三味線をやってる子がまずいないですし、しかも兄弟でやっているから、吉田兄弟と言うと周りもあそこの兄弟ねみたいな感じにはなっているような状況ですね。

―― そうなりますよね。

吉田 イベントとかに呼ばれてよく演奏していたんですけれども、大体呼ばれるのは吉田兄弟。コンサートをやるときでも横断幕とかは吉田兄弟って書いてあるし周りがそうやって呼んだだけでデビューする時もそうでしたね。この名前で行くんだなと後から見て分かって。

―― そうなんですか?

吉田 間違ってはいないんですけれども(笑)誰も疑わないんですよ。違う名前を付けようとかならないんですよ。

―― 確かに幼い子が頑張っているだけでも注目されるのに、それが兄弟となったら余計に注目度が高くなりますよね。

吉田 やっぱり全国大会に行くとすごく兄貴は嫌だったみたいなんですけれども、周りは僕と兄貴をすごく比べるんですよ。 今年はお兄ちゃん頑張れよとか、今年は弟頑張れよみたいな。余計なお世話なんですけれども、結構一般の人は注目して見てくるから。

―― それは当人同士はすごい嫌ですね。

吉田 嫌でしたね。それを10年間ずっとやらなきゃいけないので自分たちが思っている以上に周りの注目度というのはありましたね。あとは優勝した時にメディアに出た時の反応とか、そういうので自分が中学生ぐらいの時には三味線でやっていこうと決めていたので。

―― そこで人生の道を決めたわけですね?

吉田 まさに師匠に出会って4年経って辞めたぐらいの時にある程度演奏活動があって、毎週それこそ札幌に行くだったりとか全道ですよね、北海道の中を走り回っていた中でこれを職業にしたいなという気持ちはもうあって、だから進学は大学に行くとかではなくて、友達を作りに行こうと思って適当な高校に(笑)一気に学力が下がっていきましたね、勉強しなくなったので(笑)

―― (笑)でも一つ道が決まればもう進むだけですね。

吉田 兄貴は高校生になって決めたみたいです。高校の時も普通に部活動ガンガンやっていた人だったのでそういう感じでやっていました。

―― お兄さんと仲が悪くなった時期はなかったのですか?

吉田 あんまり変わらなかったですね。普通に兄弟喧嘩とかもありましたけれども、三味線をやっていたからそれが理由で何かあったとか、そういう三味線をやっていたから特別なものは一切なく。分けていましたね、三味線をやっている時の2人とそうじゃない時を。僕はもう兄貴にくっついて遊んでもらっていましたから、兄の友達とかに。年上の友達ばっかりだったので。

―― そういう時はお兄さんをリスペクトで、弾く時はライバルみたいな感じですか。

吉田 そこはもう関係ないので容赦なしに(笑)。でも僕は気が楽ですよね。弟だから負けても理由があるんですよ。

―― お兄さんが確か言っていたのが弟さんはリズムでお兄さんはメロディーをやっているというお話をされていましたよね。

吉田 兄の方が民謡的なそういうメロディーは強いですよね。でも全国大会に出ている頃はそれほどそういった個性はまだなくて、 どっちかというと技術。とにかく技術で攻めるという大会なのでさっきもお話しした通りマックスのスピードで弾ける、今聞いてもその当時の演奏残っているんですけれども、めちゃくちゃ速いです。今はもう弾けない。ちょっと無理です(笑)

―― 今は弾けないくらいなんですか?

吉田 大会の演奏は分数が決まっているんですよ。3分とかなんですけれども、オーバーすると太鼓がポンポンと鳴るんですよ。これは減点なんです、この時点で。収めなきゃいけないというのがあるんですけど、どこにもタイマーはとかもないんですよ見えるところに。

―― じゃあもう脳内タイマーで?

吉田 そうです、体の中で時間を測ってやっているから、やっぱり本番になるとより速くなりますよね。

―― 緊張しますもんね。

吉田 巻いてやろうという気持ちになるから。

―― 手もその分速く動いている。

吉田 そうなんですよ。それでも弾けていたんですよ。

―― すごいですね。

吉田 あとは目標として大きかったのは全国大会でA級という1番トップで入賞すると当時コロンビア(日本コロムビア)から CD を出せたんですよ。

―― A級で賞を取ると?

吉田 A級でトップ6に入ると個人の名前で収録されて、スタジオ録音でしかも全国発売されるという。その年代で全国発売される三味線奏者なんていないから、やっぱり登竜門なんです。ここでとらないと名前が出せないので自分達が。だからどうしても優勝したいというのがすごい気持ちとして強かったですね。

―― よく若い時に変に寄り道せずにこれで食っていこうと思えたのはすごいなと思いました。

吉田 もちろん他のギターをやったりも色々としていましたよ。

―― ギターもやられていたんですか?

吉田 やっていましたね。だから当時は高校生ぐらいの時にちょうど奥田民生さんがソロでやり始めてコピーしてましたよ。なんですけれども結局、三味線ってコードがないんですよ。ギターってコードがあるじゃないですか。それを弾いている時はいいんですけれどもソロパートで自由に弾こうと思った時にギターは6弦なのに僕は3弦しか使っていなくて。三味線を弾いているかな6本使うという感覚が僕にはないんですよ。だから結局これだったら三味線でいいじゃんという発想になって(笑)。コードが弾けないけど三味線、でもソロになった時に結局半分しか使っていないってなったら意味がないですよね。ギターのいい音を出せていないから、それで辞めようと思いましてそこから触っていないです。

―― ありがとうございます。すごい色々と経験されていらっしゃるなと思います。

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【表舞台で活躍する為に努力してきたこと

―― そして先ほど言って頂いたことと被ってしまうかもしれませんが、表舞台で活躍するために努力をしてきたことというのは、やはり日々触り続ける事なのでしょうか?

吉田 それが大前提で、あとはやっぱり高校卒業した時に兄貴の方が2年先に東京に出ていたんですね。兄は浅草にある『追分』という民謡酒場があってそこで修行していたんですよ。それが最初に個性が生まれた時なんですけれども。三味線で食べて生活していくのっていうのは、奏者一本で食べていくかもしくは民謡の伴奏者として唄い手さんがいて、本当に縁の下の力持ちでやっていくかなんです。でも唄付けというのがちゃんとできないと1人前じゃないという考え方が今でもあるんです。だから三味線だけギャンギャンギャンギャン弾くというのはそれは違うと。ちゃんと歌付けが、伴奏ができて一人前だと。元々伴奏楽器なので。でも今は逆にそういう人が少ないんですけれども。ただ1発で分かります民謡をやっているかやっていないかというのは。

―― 分かるものですか?

吉田 すぐに分かります。

―― 全然違うんですか?

吉田 弾き方がうるさいので、三味線だけやっている人は。強弱がないんですよ。ただ弾けばいいというそういった唄付けをしていない子はだいたいそういう奏者なんです。でも兄貴はそこ(追分)に行って唄とずっと一緒にやってきたからやっぱりメロディアスなものが好きで、あとは北海道の自然を題材にしたものを曲にしたりとかなんですけれども、僕はやっぱり普段聞いていたものがJ-POP とかロックとかばっかりだったので、そういうものがないんですよね。しかも伴奏があまり好きではなくて(笑)

―― (笑)個性が分かれますよね。

吉田 はっきりですね(笑)それで兄貴が東京に行っているから、東京は結構唄い手さんがいるんですよ。北海道っていないんですよ唄い手さんが。そもそも勉強できないんですよ、唄付けの。だから器楽として楽器を何か見本にしていかないと生活がそもそも成り立たない。やっぱり高校卒業してそんなに順風満帆に仕事が入ってこないので普通にバイトをセブンイレブンでしながらやっていたんですけれども。その中で他とセッションするという、挑戦として。 そこから何か見つけようということでパーカッションとのセッションを始めたんです。初めてそこで作曲をして、今までは津軽じょんがら節とかを作っていたんですけれども全然違うオリジナルを作るということにすごい興味が向いて。やっぱり三味線って津軽じょんがら節とかってみなさん多分聞いたことあると思うんですけれどもメロディーが出てこないじゃないですか。メロディーが出てこないということは多分覚えられていないんですよ。やっぱり覚えてもらうためには口ずさめるようなメロディアスな場所があれば、それってサビですよね。サビがあれば覚えてもらえるので、じゃあサビを作ろうと思って、それでサビを作ってそこからソロにいってみるとかその作曲の挑戦を始めたのがその時だったんですね。そしたらお客さんの反応が圧倒的に変わったんです。

―― そんなに違うものなんですね。

吉田 もう縦の動きで、このノリに三味線をはめていくという、民謡を。そしたらお客さんの反応も全く変わったので。

―― それでこれはいけるなと?

吉田 これは1つの器楽としての表現では絶対に必要だなってことを、なかなか生活がうまく回らない時期に1個考えて生み出したところだったんですね。ないものを作りたいという風に思ってできたものなんです。

―― そういうきっかけが1つ転機になったということですね。

第2弾は近日アップしますのでお楽しみに!

吉田兄弟Yoshida Brothers
吉田 良一郎 / 吉田 健一
2019年、デビュー20周年を迎えた、津軽三味線の第一人者、吉田兄弟。
北海道登別市出身。ともに5歳より三味線を習い始め、1990年より津軽三味線奏者初代佐々木孝に師事。
津軽三味線の全国大会で頭角を現し、1999年アルバム「いぶき」でメジャーデビュー。邦楽界では異例のヒットを記録し、現在まで15枚のアルバム他を発表。2003年の全米デビュー以降、世界各国での演奏活動や、国内外問わず様々なアーティストとのコラボレーションも積極的に行っている。

2015年には「連載完結記念NARUTO-ナルト-展」とコラボした楽曲「PRANA」がリリースされ大きな話題となった。また、良一郎は代表的な和楽器による学校公演を中心とした新・純邦楽ユニット『WASABI』を始動させ、健一は平成27年度文化庁文化交流使としてスペイン・バルセロナに滞在し活動したことをきっかけに、現在もバルセロナ高等音楽院で津軽三味線講義を毎年行っている。

2017年は映画『KUBO/クボ 二本の弦の秘密』日本語吹替え版主題歌として「While My Guitar Gently Weeps」で参加。また、2000万回再生を誇るレッドブル・アスリート、ジェイソン・ポールによるパルクール映像のBGM「Cool Spiral」を提供、配信。

2019年は世界10か国でレッスンと世界大会予選を行い、聖地秋葉原の神田明神ホールで世界大会決勝を開催したヲタ芸/サイリウムダンスの世界大会に、” 吉田兄弟×Tom-H@ck CYALUME DANCE WORLD BATTLE テーマソング「雷 –IKAZUCHI-」を提供、配信。『東京2020オリンピック1年前セレモニー ”1Year to Go! ” 』ではオープニングパフォーマンスを努めた。
同年、日本の有名クリエイターが「和」をテーマに世界に向かって創り上げる『GIBIATE(ジビエート)』プロジェクトへの参画が決定。
2020年7月から放送を開始する同プロジェクトのアニメオープニングテーマ曲「GIBIATE」を、LUNA SEAやX JAPANのギタリストとして活躍するSUGIZO氏と共同制作し発表した。

そして本年、デビュー20周年記念アルバム「THE YOSHIDA BROTHERS」を発売。
世界に通用する唯一無二の津軽三味線アーティストとして、日本伝統芸能の枠を超え、幅広い活躍が期待されている。
吉田兄弟公式サイトより

●公式サイト:
●公式Twitter:https://twitter.com/yoshida_kyodai
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●吉田健一さんTwitter:https://twitter.com/kenichi_shami

(インタビュアー:山口義徳)

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