東京五輪には、205カ国・地域と難民選手団を合わせて約1万1千人の選手が参加した。だが、政治的な理由で出場がかなわなかった選手もいる。パレスチナ自治区ガザの女性ランナー、イナス・ノファルさん(20)もそんな1人。ガザ境界を管理するイスラエルが渡航許可を出さないため、国際大会に出場できない。「ガザ最速」と言われながら、五輪代表選考の場にさえ立てなかった現実を前に、悔しい思いで東京五輪を見つめた。「海外に行けるチャンスがほしい。パレスチナ代表として五輪に出るのが夢なんです」と訴える。(共同通信=平野雄吾)
▽渡航できず
ガザ中部マガジに暮らすイナスさんが脚光を浴び始めたのは2017年。16歳のときに参加した7キロの大会で優勝、大学生以上の選手を圧倒した。その後もガザでは、800メートルや1万メートルの大会で次々1位となった。海外からも注目されるようになり、ドイツやデンマーク、アラブ首長国連邦(UAE)の大会の招待選手に選ばれたが、いずれも渡航できず、参加できなかった。
背景には、イスラエルが続けるガザの境界封鎖がある。イスラム組織ハマスが2007年にガザを武力制圧、実効支配を開始して以降、イスラエルは境界を封鎖する。物資の搬出入に加え、人の出入りも厳しく管理、それゆえガザは「天井のない監獄」と呼ばれる。
イナスさんはこれまでに10回以上、イスラエル軍当局に海外への渡航許可を申請したが、却下され続けている。「実は許可が出たことはあるんです。けれど、大会が終わった後でした」とイナスさんはあきれる。「それでは、何の意味もありません」。イスラエル軍当局は不許可理由を具体的に説明しないが、父ムハンマドさん(55)は「国際大会でパレスチナの旗が振られるのが嫌なのだろう」と推測する。ドイツの大会から招待された2017年秋には、イスラエル軍当局に渡航許可を申請し査証(ビザ)や航空券を入手、荷造りも終えた。「ひたすら自宅で電話が鳴るのを待っていました。飛行機に乗るため出発しなければならない時刻にイスラエル軍当局から電話があり、『渡航許可は出さない』と伝えられたんです」。イナスさんは悔しそうに、ドイツ当局発行の4年前のビザを見つめる。
▽二人三脚
小さいころから走ることが好きだったイナスさんは15歳のときに陸上競技を始めた。「女性ランナーが主人公だったトルコのドラマにはまってしまって…。当時学校の英語の先生だったサミ・ナティールさんが陸上選手で、私をトレーニングしてくださいと頼んだんです」と振り返る。ガザでの大会で優勝すると、自信を深め練習にも熱が入る。硬いアスファルトやでこぼこの芝の上、ときには砂浜のビーチ。ガザに専用の陸上競技施設はなく、厳しい環境で日々続けるトレーニング。合成ゴムでできた本格的な陸上トラックで走るのに憧れていると話す。
ガザは男性優位の保守的な社会で、女性スポーツへの偏見もある。「どうして父親は女の子を路上で走らせるのかしら」と嫌みを言う年配の女性。「イスラム教では、男性が女性を指導するのはタブーだ」とコーチのナティールさんを叱責(しっせき)する高齢男性…。それでもムハンマドさんは、自身が大学時代サッカー選手だったこともあり、イナスさんのスポーツへの挑戦を支援。練習の送り迎えをし、練習中はイナスさんの様子を録画する。そんなひたむきな親子の姿が地域の人たちをも変えつつある。「なぜ娘を走らせるのかと父を批判していた人たちが『がんばって』と応援してくれるようになったんです」とイナスさんは笑った。
▽空爆の影響
ガザを取り巻く環境の変化もある。ガザ南部ラファの検問所を管理するエジプト政府が最近、検問所を開放する日を増やしているのだ。ガザのパレスチナ人がイスラエル側からではなく、エジプト経由で海外渡航できる機会が増え始めている。
エジプトのシシ政権はハマスと関係の深いイスラム組織ムスリム同胞団と対立し、ハマスをも敵視してきたが、最近は関係を修復しつつある。発足から7年がたち、シシ政権の基盤が安定し始めたことが背景にあるとも指摘される。
しかし、一筋縄ではいかないのがパレスチナの現実だ。イナスさんはエジプトのスポーツクラブから、多くの陸上選手が集まる5月中旬から1カ月のトレーニングキャンプに招待された。「海外の選手と競える初めてのチャンスだ」と胸を躍らせ、エジプトの首都カイロに行く準備をしていたが、同月10日からイスラエル軍とハマスが戦闘を開始した。エジプト政府は急きょラファの検問所を閉鎖、キャンプ参加は幻になった。激しい空爆にさらされた11日間。練習どころか、自宅にこもり、空爆におびえる日々を余儀なくされた。「自宅から500メートルのところにも爆撃がありました」。イナスさんは唇をかんだ。「戦闘さえなければカイロでキャンプに参加できたのに」
戦闘は5月21日に停戦となり、ガザは現在、復興に向けて歩みを進める。エジプト政府はラファの検問所を週に4日開放。イナスさんは「今なら、エジプト経由で国際大会に出られます」と、国際大会やトレーニングキャンプからの新たな招待を心待ちにする。
「娘はガザでは最速だが、世界にはもっと速いアスリートがたくさんいる。国際大会やキャンプにどんどん参加して、例えば一流の選手がどんな食事をしているのか、そういうところまで学んできてほしい」とムハンマドさんはイナスさんにエールを送る。
これまで長距離も含めて練習を重ねてきたが、最近は取り組む種目を800メートルなどに絞り、本格的に五輪を目指すと意気込むイナスさん。「イスラエルという障害が大きければ大きいほど、闘争心が芽生えてきます」と力を込めた。「東京五輪には間に合いませんでしたが、次の五輪にはパレスチナ代表として出場したい。そのためにも多くの国際大会に出て実績を積みたいんです」