日本共産党と志位委員長の「同調圧力」|松崎いたる 「同調圧力が強まれば少数意見や異論が排除され、自由のない全体主主義的な社会に陥ってしまう」と、政府や自民党を批判している立憲民主党の枝野代表!それこそまさに御党が共闘している日本共産党に対して言うべき批判だ。日本共産党を支配する異常な「同調圧力」を元共産党員が告発!

1997年の「援助交際」問題

最近「同調圧力」という言葉をよく聞くようになった。
新型コロナの感染拡大で、マスクの着用やワクチン接種など「しなくてはならない」ことが増えたせいもあるだろう。

「同調圧力」を辞書で引くと「集団において、少数意見を持つ人に対して、周囲の多くの人と同じように考え行動するよう、暗黙のうちに強制すること」とある(小学館『デジタル大辞泉』)。

マスクやワクチンはコロナウイルスから自分自身と社会の多数の人々を守るために必要なことで、本来は一人一人が自主的に実践することが望ましい。だがどうしても多数者と同じように行動できない人が出てくるのも仕方がないことだ。そうした少数者に多数者と同じ考えや行動を強制できないし、してはならない。

しかし一方で多数者が共有する考えや行動を「同調圧力」の結果だと決めつけるのもおかしい。圧力や強制がなくても個人が最善と考えた選択が、他の者にとっても最善であることが多いのは当然のことだ。だからこそ、社会という結びつきが形成・維持できる。

国民の信託を受け、国民の意思にもとづいて国の針路を決める政治の場でも最近、「同調圧力」が多用されるようになってきた。

いつから「同調圧力」という言葉が使われるようになったのだろう? 試みに国会会議録検索システムのサイトで検索するともっとも古いヒットは1997年で、意外にも発言の主は政治家ではなかった。
参議院で当時問題になっていた未成年のいわゆる「援助交際」問題が議論された際に、参考人の宮台真司東京都立大学助教授の発言に「同調圧力」があった。

「大変興味深いのは、例えばこういう共有パパ化に見られますように、以前は少女の売春というものは、たとえやっているといたしましても、友達同士でそのことを告白したりするということはめったになかったことなのでございますけれども、特に九三年のブルセラ、九四年のデートクラブ、そして九五年以降の援助交際がマスコミで語られるようになった結果でありましょうか、友達同士でそういうことを話すことは心理的な抵抗感がなくなりました。その結果、私は同調圧力というふうに申し上げておりますが、英語で言いますとピアプレッシャー、同輩集団、仲間集団からの圧力というものが非常に重要な動機の要素になって援助交際に乗り出してきている少女たちかおります」(1997年6月17日参議院・地方行政委員会暴力団員不当行為防止法及び風俗営業等に関する小委員会)。

「援助交際」=売春という犯罪行為の解説が「同調圧力」の国会デビューだったわけである。

民主主義の大切な要素

その後「同調圧力」は国会で政治家たちによって、どんな風に使われてきたか。

そのネガティブな言葉の印象のために相手を批判する際に使われることが多い。たとえば2019年2月4日の衆議院予算委員会では立憲民主党の長妻昭議員が自民・公明の現政権を批判して次のように述べている。

「今の政治では、異論が排除され、集団同調圧力が強まるばかりです。それが、組織において、不正まがいの指示がおりてきても、誰も疑問の声を上げることができないという空気の支配を強め、そんたくがはびこる現状を生み出しているのではないでしょうか」

さらに2020年11月4日の衆議院予算委員会では同じく立憲民主党の逢坂誠二議員が、総理大臣による日本学術会議の会員任命拒否を非難して、次のように発言している。

「これは私の理解ですが、人事権といえども、自由に勝手気ままにやってしまいますと、それは社会が萎縮しますよ。それから、物言わぬ社会になってしまいますよ。同調圧力が強まりますよ。全体主義的な傾向が強まりますよ」

立憲民主党は、同調圧力が強まれば少数意見や異論が排除され、自由のない全体主主義的な社会に陥ってしまうと、政府や自民党を批判している。

だがそうした批判が自由にできること自体が全体主義とは対極の民主主義の姿ともいえる。

政府・与党が意思決定するまでのさまざまゴタゴタが日々のニュースを通じて国民に伝えられている。なかには「醜態」と思える姿すらさらされることもある。私なども「なんでそんなことをしちゃうかな」と呆れることもしばしばある。

だがそうした国民の批判にさらされることが政府や与党を鍛えている。一つの意思決定までの紆余曲折を国民と共有していることは民主主義の大切な要素だ。

共産党内の実態

私が疑問に思うのは、ここまで同調圧力を警戒する立憲民主党が日本共産党と共闘し政権協議までしようとしていることだ。

共産党こそ同調圧力によって党内を束ね、活動の動力源にしている組織だからだ。

その内部事情は、共産党や小沢一郎、森ゆうこなど野党政治家が関係する詐欺事件を追及したことで共産党から事件の調査をやめるようにさんざん圧力をかけられたあげくに共産党から一方的に除籍された私が身にしみて実感していることである。

長妻氏がいう「組織において、不正まがいの指示がおりてきても、誰も疑問の声を上げることができないという空気の支配」の実体験である(事件の詳細は月刊『Hanada』2020年3月号に「森ゆうこ議員は『除染詐欺』の広告塔」を書いているので読んでいただきたい。https://hanada-plus.jp/articles/336

私のような経験がない党外の人にも共産党の同調圧力的体質は感じることが多いのではないか。

他者が共産党を形容するときによくつかう「一枚岩」という言葉にそれが表れている。政策でも党内人事でも共産党では「全会一致」で異論なしで決定されている。

それが党外から見れば一枚岩のように見えるのだろうが、組織のなかで異論や反対意見がないということはまずありえない。共産党内でもさまざまな意見がある。

しかし共産党では党中央の意向に反することは声に出して言えない。言えば私のように除籍か除名で党から追放されるだけだ。

多くの党員は「個人は間違えることが多いが、党の決定は間違いを克服している」と思わされている。党の方針に違和感があっても「党が間違うはずがない。自分のほうが間違っているのだ」と考えてしまう。

私の除籍処分を決定した党板橋区地区委員総会では50人ほどの委員全員が「除籍」に賛成し、全会一致で処分が決定した。処分対象者の私は会議に参加しておらず、委員からの質疑もないまま、委員長が提案した除籍に全員が事情も知らずに賛成したのである。究極の「同調圧力」だろう。

だが物言わぬまま賛成した委員たちはそれを「圧力」と自覚していない。「党が決定したことだから、党が正しい」と、私は一方的に「裏切り者」「転落者」のレッテルを貼られてしまった。

私自身も、共産党の専従職員をしていた時、党の先輩や党幹部から「党の上に個人を置いてはならない」とよく言われたものだ。それは個人の利益よりも党の利益を優先しなければならないとい戒めの言葉だった。

党専従者は言うまでもなく党からの給与で生活している。一般の労働者と違うのは給与その他の待遇に不満があっても雇用主側と交渉することは一切できないことだ。労働組合もないし、そもそも「職業革命家」であって労働者ではないとされている。

生活がかかっているから党専従者は党幹部の指令に背くことはできない。逢坂氏がいうような人事権と生活を握られ萎縮した「物言わぬ」社会が共産党内の実態だ。

共産党が他の政党と違う特徴はそうした党専従者が異常に多いということだ。くわしい数字は不明だが、党本部だけでも1000人以上の党専従者が働いている。代々木界隈では一番の大企業だ。それに全国の地方組織で党に雇用されている党専従者が加わる。

操る仕組み

人数の問題だけでなく、一部の党専従者が、選挙で国民から選ばれた議員の上に立って「上司」として議員に指揮命令を下しているのも共産党の特徴だ。

日常的な党の意思決定機関である常任幹部会は26人で構成されている。そのメンバーは次のとおりだ(五十音順)。

市田忠義、岩井鐵也、浦田宣昭、太田善作、岡嵜郁子、緒方靖夫、笠井亮、紙智子、吉良佳子、倉林明子、小池晃、小木曽陽司、穀田恵二、志位和夫、高橋千鶴子、田中悠、田村智子、寺沢亜志也、中井作太郎、浜野忠夫、広井暢子、藤田文、不破哲三、山下芳生、山添拓、若林義春

このうち名前がわかる人物がどれくらいいるだろうか? 26人中、国会議員は半数以下の12人に過ぎない。大半が非議員で不破氏や緒方氏のように議員を引退している人物も含まれている。国民からの批判を浴びることのない経歴不詳の人物や引退した元議員たちが、国民から選挙された議員や全国の党組織、党員を、常任幹部会を通じて操る仕組みになっているのだ。

「志位独裁」

最近になって常任幹部会のトップは名実ともに志位和夫委員長になった。

「名実ともに」というのは、数年前までは実質上のトップは不破前委員長だったからだ。不破氏は衆議院議員を引退し、党委員長職を降りたあとも常任幹部会に居座りつづけ、党の方針決定や人事に力をふるってきた。志位氏が委員長職についたのは2000年で、以来ずっと委員長の交代がないことから「志位の独裁が21年も続いている」と非難されているが、志位委員長体制が安泰なのは、不破氏が後ろ盾になっていたからである。「志位独裁」の実態は「不破傀儡」「不破院政」と呼ぶにふさわしいものだった。

共産党が表面的にせよ天皇や自衛隊の存在を認めるように方針転換したのは不破氏の判断によるものだ。

ところがその不破氏の力もさすがに近年は衰えてきた。それは91歳という高齢によることもあるが、年齢以上に直接的な理由としては、中国共産党との関係を修復させたことの失敗が大きい。

文化大革命以来、断絶していた中国共産党と日本共産党の関係を電撃的に復活させたのは不破氏の発案と手腕によるものだった。だが「中国は市場経済を通じて社会主義建設をめざしている」との不破氏の見通しが的外れだったことが明らかになり、かえって香港での人権抑圧など中国共産党の横暴勝手な振る舞いが国際社会のなかで問題視されるようになった。

そこで志位委員長は2020年1月に党綱領から「社会主義をめざす国」という記述を削除し、「中国は社会主義とは無縁だ」と言い出した。私はこの中国への態度変更こそ不破院政が終わり、志位氏が実権を握った瞬間だと見ている。

とはいえ志位氏が不破氏から受けた影響は大きい。卑近な例かもしれないが、演説時の話し方にもそれは表れている。

志位氏の演説は一つ一つの話題の締めくくりごとに「…と思いますが、いかがですか、みなさん」とか「…ではありませんか、みなさん」などと賛同を求める表現が多用される。聴衆に(うなづけ)(拍手しろ)と暗黙のうちに「同調圧力」をかける手法である。

これは不破氏が得意としていた演説方法で、不破氏は賛同を求めるときには言葉だけではなく、カッと目を見開き歌舞伎のような一種の見得を切るのが常だった。

共産党の雑誌記者だった私はカメラのファインダー越しに、演説する不破氏の表情を見ていたが、演説で強調したい部分、写真を撮ってほしい部分がよくわかるので撮影しやすかったことをよく覚えている。

「不破さんだったらそうしているでしょ」

志位氏が故・宮本顕治氏や不破氏に抜擢されて非議員のまま党の書記局長という名目上はナンバー2の要職に就いて間もないころの志位氏の演説はひどかった。不破氏の真似をして「…ではありませんか、みなさん」とやるのだが、聴衆はキョトンとしてほとんど反応しない。会場の気まずさに気づいた側近が拍手しはじめて、ようやくパラパラと拍手がある程度だった。そんな演説でも記事にするときは語尾に「(拍手)」を書き加える……そんな仕事を私はしていた。

不破氏との実力や人気でのギャップは志位氏にとって大きなトラウマになったのではないかと思う。

あるとき雑誌に掲載する志位氏の活動を紹介する写真を編集部で選択し、志位氏に提案したことがあった。提案した写真は一緒に写っている他の人物の表情も含め写真全体の印象が一番良いものを選んだのだが、志位氏は「私の表情が一番良い写真にしてください。不破さんだったらそうしているでしょ」と編集部の提案を聞き入れなかった。結果、志位氏の隣で青年が目をつむってヘン顔で笑っているおかしな写真が雑誌に掲載されてしまった。

いま振り返ると党幹部のわがままに振り回されるばかりだった。その幹部も自分より目上の幹部には逆らえない。幹部たちが私のような末端の党員の意見など聞く耳を持たない、わがままのヒエラルヒーが共産党の体質だと思う。そのヒエラルヒーの中で目上の者に同調していれば、一定の地位は保たれる。

表現の自由、内心の自由を侵害

これは全国の地方党組織でも同じだ。しかも地方組織の人事についても常任幹部会が「承認」するなど介入できるようになっている。

これが選挙で大敗しても幹部の交代がない共産党の体質の根源である。国民の多数の願いよりも、一部の党官僚たちの生活や利権を支える組織を存続・維持することが党の最大の目的になってしまっている。

共産党は組織維持のために同志の間の「同調圧力」を最大限に利用しているといえる。だがそれだけではない。

「同調圧力」とは本来「暗黙のうちに強制すること」なのだが、共産党の場合、規約に明文化されている。同調することが義務なのだ。

「第十七条 全党の行動の統一をはかるために、国際的・全国的な性質の問題については、個々の党組織と党員は、党の全国方針に反する意見を、勝手に発表することをしない」。

これでは世界平和、消費税、福祉制度といった社会の誰もが関心を持っている問題についても、共産党員は党中央の見解以外の意見を自由に述べることが出来ない。表現の自由、内心の自由を侵害する明文による圧力だ。

この第十七条は、インターネットが普及していなかった時代にできた条項だが、いまでは誰もがSNS等で自分の意見を全世界にむけて発表できるようになっている。その矛盾は共産党員たちのツイッター投稿をみるとよくわかる。多くの党員、党議員のツイートは党のホームページからの引用か、志位委員長のツイートの引用だ。

志位委員長が「#五輪やめて命まもれ」のタグをつけて発信すると、他の党員たちがそれに続く。志位委員長に反する意見をツイートすることは十七条違反になってしまうから、志位氏の言うとおりことを繰り返すのが一番安全なのだ。SNS上の志位氏による同調圧力といってよい。

しかも「党の全国方針」は、前述したように党員でさえ、どんな人物なのかわからない常任幹部会員によって密室で決定されている。志位氏がツイッターで発表するような新方針はほとんど志位氏の独断の思いつきだろう。その思いつきに全党が振り回される。結果として、東京五輪が開催された後も、閉会される直前まで党員や党議員がそろって「五輪中止」を叫ぶという珍妙なことが実際におきている。

まさに「判例なき裁判所」

私のこの指摘に対して、同じ党規約の中に「党の意思決定は、民主的な議論をつくし、最終的には多数決で決める」や「意見がちがうことによって、組織的な排除をおこなってはならない」という条項があることをもって反論する党員もいる。

だが「民主的な議論」の実態は党中央から降りてきた「議案」を読んで感想を述べ合う「学習会」に過ぎない。

もし党の方針とは異なる意見を持ったとしても、その意見への賛同者を募ることは「党内に派閥・分派はつくらない」(第三条四項)と規定している規約に違反する行為とされてしまう。党内で多数意見を形成しようとすることはすべて反党活動なのだ。

これは党規約第三条五項の「意見がちがうことによって、組織的な排除をおこなってはならない」と矛盾している。この矛盾は党中央と異なる意見を持つ者は別の理由をつけて排除しようとする動機を生む。

共産党議員の除名や除籍の理由のほとんどが規約の「市民道徳と社会的道義をまもり、社会にたいする責任をはたす」(第五条一項)に対する違反行為であるのはそのためである。

実際に反社会的行為を犯した党議員が多いのも事実だが、党の方針と異なる言動がほんとうの理由であることも少なくない。

共産党は排除しようとする党議員、党員の行動を調べ上げ、処分理由を探そうとする。

不倫問題、飲酒でのトラブル、借金、夫婦げんか…あらゆることが「市民道徳と社会的道義」に反することとして処分対象にされる。

私自身も自民党議員と冗談を言い合ったことが、「党内の秘密を他党に漏らした」として処分対象になったことがある。自民党区議が「うちは党費が高くてたいへん」と愚痴をこぼしたのに対し、私が「うちは収入の1パーセントが党費だけど、その代りカンパをたくさん収めなきゃならない」と返したのを、背後で聞いていた別の共産党議員が党組織に報告したのである。

これだけでは除籍理由にはならなかったが、「話し合い」と称する査問の呼び出しは何度もあった。査問は私一人対党幹部二人以上で行われる。私が「弁護士か付添人を同席させたい」と要求すると、不当な要求で「話し合いを拒否した」ことにされ、これが直接の除籍理由になった。

私以外の除籍された元党議員の話を聞くと「自民党議員と酒席を共にした」というのが除籍理由になったという。その議員の事務所退去を手伝った党員も「反党分子」に協力したという理由で処分されたという。

まさしく恣意的な処分だが、排除理由の是非を検証するにも「党の内部問題は、党内で解決する」の規定があるため公表されることはない。そもそも共産党では規約にもとづく決定や処分が下す際にも会議録その他の記録は一切とらないので、規約の解釈はそのときどきの党幹部の自由裁量に任されている。

裁判所で裁判官が下す判決は、法律の条文だけではなく、過去に同じ法律の同じ条文によってどんな判決が下されたのかが記録された判例が根拠とされる。「前例主義」などと批判されることもあるが、判例を省みない判断は、裁判官の勝手な法解釈を生み、独断による法権力の行使につながる。

ところが共産党内の「法律」と言える党規約では「判例」にあたる記録がない。判例なき裁判所になっているのだ。

全体主義的な恐怖政治

こんな実態がある党が政権についたときにどんなことがおこるだろうか?

共産党は「党内のルールを党外に押しつけない」旨のことを言っているが、共産党が権力の一端でも握れば、共産党内で「常識」となっていた考え方が政権内に反映していくことは当然だろう。

党内では、暗黙のうちの「同調圧力」とともに、規約の恣意的解釈による言論統制がすでに行われている。それが国家レベルになれば全体主義的な恐怖政治になるだろう。

こうした予測にはすでに警戒の声が上がっている。

国民民主党、立憲民主党がそれぞれ連合と締結した政策協定には「左右の全体主義を排し」との文言が盛り込まれ、国民民主党の玉木雄一郎代表が左の全体主主義とは「共産主義、共産党のことだ」と発言した。

共産党はこれに反発し、「わが党は、戦前から軍国主義とファシズムとたたかい続け、いまも綱領に明記しているように、自由と民主主義を何よりも大切にしている政党であり、全体主義とは対極にある政党だ」(2021年7月19日、小池晃書記局長の会見)と発言撤回を求めた。玉木氏は「反論は受け止める」としながらも撤回には応じなかった。

批判に反論するのは当然だが、批判的な意見そのものの撤回を要求するのは、民主主義をわきまえない傲慢な態度だ。

そもそも「全体主義である」と自称する者はいない。全体主義の典型例とされるヒトラーやスターリンでさえ「われは全体主義者なり」と公言したことはないのだ。小池氏の反論は、ヒトラーのナチスドイツと死闘を繰り広げたスターリンが言ってもおかしくない内容だ。全体主義であるかないかは他者からの視点での批判であり、他者からそう認識されている共産党こそ、その批判を重く受け止めるべきだろう。批判に対して「発言を撤回しろ」というほうが全体主義的発想そのものだ。

共産党に忖度する立憲民主党の枝野代表

玉木氏の発言とは逆に、立憲民主党の枝野幸男代表は全体主義とはどこを指すのかについて「何か具体的な解釈を加えることは控えておきたい」と明言を避けている。

立憲は選挙での共産党との共闘をあてにしているのだろう。共産党に忖度した態度といえる。

だが前述したように同党の長妻議員や逢坂議員は同調圧力が全体主義を生むと警告している。

枝野氏自身も「安心して暮らすには、多様性を認め合うことも不可欠です。なぜなら、画一的で同調圧力の強い社会では、全ての人が、差別や偏見を受け、排斥される可能性にさらされるからです」(2019年1月30日 衆議院 本会議)と発言している。

自分たちが気に入らない発言の撤回を要求するような、意見の多様性を認めない共産党と仲間になれば、仲間内の同調圧力も強まるだろう。

違法スレスレの行為

いま共産党内ではさまざまな違法行為、あるいは違法スレスレの行為がまかり通っている。選挙告示前の事前活動である違法な候補者名入りタスキの掲示、「赤旗購読のお勧め」と称しての違法な戸別訪問、民青という共産党の青年下部組織を名乗って公選法が禁じる寄付行為を「食料支援」「フードバンク」と称して全国で展開する…。

これらは刑事事件として警察の捜査対象になっているわけではない。だからといって違法性が阻却されたわけでも、合法性が証明されたわけでもない。

立件・起訴までの立証事項が多く、捜査には不向きな事案であるにすぎない。警察力の行使ではなく、民主主義を守る世論の監視こそが封じ込めに有効な犯罪形体であるともいえる。捕まらなければ何をしてもいいわけではないのだ。

共産党が政権に近づけば近づくほど、小さな不正が大きな犯罪行為になっていくだろう。警察ももう黙ってはいない。

そのとき、仲間である立憲民主党はどうするのか。

枝野氏には国会ではじめて「同調圧力」の用語が紹介されたときのことを思い出してほしい。純真無垢な少女たちでさえ「仲間集団からの圧力というものが非常に重要な動機の要素になって」犯罪行為にもはしることがあるのだ。そうなっては欲しくはない者の警告に耳を傾けてほしい。

悪い奴とはつきあうな!

松崎いたる

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