現役最後の被爆者漫画家、反戦描き連載500回

漫画を描く西山進さん=2018年7月、福岡市(片山文博さん撮影)

 「なんとしても、核兵器がなくなる日は見たい」。長崎で被爆し「現役最後の被爆者漫画家」といわれる西山進さん(93)=福岡市=が、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の月刊機関紙「被団協」(毎月6日発行)に連載してきた4こま漫画「おり鶴さん」が、このほど500回目を迎えた。ほのぼのとしたタッチで描いてきたのは、西山さんが出会った被爆者たち。あの日、原爆がもたらした壮絶な光景を目の当たりにし、語り継ぐ活動にも力を入れ、反戦・反核を訴え続けてきた。(共同通信=小川美沙)

「被団協」で連載されている4こま漫画「おり鶴さん」

 ▽原爆さえなければ

 4月の500回目の作品は、被爆者がお互いの歩みをたたえあうような内容だ。「よくがんばってきたね」「原爆さえなかったら そう思うことはしばしばでした」。特集が組まれ、漫画とは別にコメントも寄せた。「気がついたら500回。多くの被爆者に支えられて、『おり鶴さん』はとび続けてきました。でも、93歳ですから…。なんとしても、核兵器がなくなる日は見たいものです」

 今年1月の核兵器禁止条約発効後、被団協宛てに送った「漫画しんぶん号外」の一部も掲載。亡くなった被爆者らを描き、悲願だった核兵器廃絶への第一歩が開かれたとして「先輩たち よろこんでください」と呼び掛ける様子を表現している。

「おり鶴さん」500回を記念し、「被団協」の特集に掲載された「西山すすむの漫画しんぶん 号外」

 「おり鶴さん」の連載は1979年11月にスタート。40年以上にわたり、被爆者の日常を描いてきた。2004年6月の300回目では沖縄戦の継承に連帯を示した。今年5月の501回目は長崎での護衛艦進水を取り上げ、登場人物がひっくり返って怒った様子で「憲法守れ 戦争はやだ」と訴えている。

 西山さんが病気療養のため、連載は6月に初の休載に。電話取材に「(500回を迎え)ほっとした。前向きに構えて、面白い漫画を描きためたい」と話した。

 ▽「原子爆弾は悪魔の兵器」

 1945年8月9日、西山さんは17歳で被爆した。爆心地から約3・5キロの三菱重工業長崎造船所で少年工として働いていた。火の海と化した街、目を手で覆うように黒焦げで亡くなっていた5人の少年たち―。

被爆直後を描いた「記憶をたどって」 長崎駅以東、対岸を見る(西山進さん作)

 著書「あの日のこと」では、当時目にした光景を「人間の大量虐殺の現場」とふり返り、「どんなに苦しかったか、悲痛な死者の魂は私の心の中に焼きついたままです」と記している。45年末までに広島で約14万人、長崎で約7万4千人の命を奪った原子爆弾を「まさに悪魔の兵器、人類と共存はできません」と断罪した。

 戦後は炭鉱で働いた。小さな頃から絵が得意で、炭鉱の労働組合機関紙などに漫画を描くようになった。やがて漫画家を志して上京。被爆者として紙芝居やイラストを用いた証言活動にも力を入れ、体験に基づく被爆の実相を告発してきた。1980年代以降、米国や欧州など世界各国を訪問して核兵器廃絶を訴えた。

 「ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ヒバクシャ」。82年、西山さんは国連軍縮特別総会に被爆者代表の1人として参加した。シュプレヒコールがこだまする中、ニューヨークの街で平和行進に加わった時の感動を、報告書の草案にこう書き留めている。「核兵器の廃絶と軍縮に向かっての歴史的な巨歩がいま踏み出されようとしている」。自作の「絵巻物」も持参し、現地で出会った人に被爆体験を語ったという。

1982年、米ニューヨークでの平和行進(西山進さん作)

 ▽戦争への怒り

 西山さんと親交のある福岡市の写真家片山文博さん(64)は「ふだんは穏やかだが、作品には戦争や核兵器への怒りが表れている」と話す。2人が知り合ったのは2011年、東京電力福島第1原発事故の直後に、西山さんが福岡市の九州電力前で脱原発を訴えていた時だ。

写真家の片山文博さん=6月、福岡市

 いつもユーモアを忘れない人柄にもひかれ、西山さんの日常にもカメラを向け始めた。片山さんの母(92)も、広島市で入市被爆しているが、当時のことを語ることはほとんどなかった。西山さんの活動を通じて、核が被爆者の人生に大きな影を落としていることを知った。

 片山さんが西山さんの自宅を訪れると、所狭しと画材や資料が並ぶ部屋で、西山さんは時に携帯電話で知人の被爆者らと連絡を取り、パソコンでニュースをチェックしながら絵筆を握っていた。作品のテーマは反戦・反核、沖縄の基地問題、憲法改正問題…。社会や政治を鋭く風刺するものもあった。

 「本当なら、もっと楽しい漫画を描きたかったけどね」。片山さんはある日、西山さんがそうつぶやいたのを聞き逃さなかった。後遺症に悩まされ、原爆に翻弄(ほんろう)される人生でなければ、違う漫画を描いていたかもしれない。「怒りのエネルギーを持ち続けることは、容易ではない。それでも被爆者として伝え続ける責任を感じているのだろう」と察している。

被爆体験を描いた紙芝居を読む西山進さん=2017年8月、福岡市(片山文博さん撮影)

 数年前、西山さんは胃がんで入院し、現在は車椅子を使っている。以前ほど自由な活動は難しいが、片山さんは「創作意欲にあふれ、描きたいこと、伝えたいことはまだまだあると思う」と話した。

 ▽「つたえてください、あしたへ」

 西山さんの被爆体験を受け継ぎ、語り始めた人もいる。平和学習を支援する市民団体「ピースバトン・ナガサキ」の代表調仁美さん(59)は、今春「家族・交流証言者」としての活動をスタートした。証言者事業は、被爆者が高齢化する中で、体験を引き継いだ家族や交流のある人が学校や地域に出向いて講話をするもので、長崎市から委託を受けた長崎平和推進協会が実施している。

長崎県佐世保市の小学校で「家族・交流証言者」として西山進さんの被爆体験を語り継ぐ調仁美さん=7月(調さん提供)

 調さんは、西山さんが被爆当時の様子を描いた紙芝居「つたえてください あしたへ」を使い、長崎県佐世保市の小学校などで講話。言葉だけで原爆を説明すると怖がる子どももいるが、西山さんの紙芝居を使って話すとじっとしたまま聞き入るという。「西山さんの温かな絵が大きな力を発揮している」と調さん。今後は県外での講話も考えている。「平和のため、93歳の西山さんは漫画を描き続けている。自分たちは何ができるのか、問い掛けていきたい」と意気込みを語った。

 ▽広島・長崎を忘れてもらっちゃ困る

 8月3日、福岡市の介護施設で暮らす西山さんは、電話取材に「何とか核兵器のない世の中を、と思っていますが、テレビをつけても東京五輪の話ばかり。広島・長崎のことを忘れてもらっちゃ困るな」と話した。

 原爆の日に向けて若い世代へのメッセージを尋ねると、声に力強さが増した。「若い人たち、少し騒いでくださいよ。(核兵器をなくすため)広島・長崎をもう一度考える雰囲気をつくらないといけない。原爆の、あの時の状況を考えると、核実験とか、核につながるものは遮断する気持ちじゃないといけません」

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