「長崎から逃げよう」 父に救われた命 旧姓・猪口房子さん(90) 広島で被爆 長崎なら爆心地から600mで死んでいた #あちこちのすずさん 特別企画

両親の写真を見詰め「今日も元気だよ」と語りかける旧姓・猪口さん=長崎市内

 あの日、父が「長崎から逃げよう」と言ってくれなかったら-。長崎市内で暮らす旧姓・猪口房子さん(90)は1945年8月、長崎市から広島市に引っ越して原爆に遭った。爆心地から約1.7キロで光線を浴びてやけどを負ったが、そのまま長崎にいたら爆心地から約600メートルの動員先の工場で同級生とともに死んでいただろうと振り返る。

 被爆当時、14歳。長崎市立高等女学校(現桜馬場中の地)の3年生だった。稲佐町で生まれ育ち、男4人女4人の8人きょうだい。下から2番目だった。
 1945年7月、司法書士だった父が言った。「長崎は(日本の端で)敵が来たとき逃げられない。早いうちに本土に逃げよう」
 8月初め、広島市で暮らす長男夫婦の元に両親と姉、弟と4人で引っ越した。6日朝早く家を出て、兄の家に遊びに行く途中だった。広島電鉄の「的場町電停」で電車を待っていると、キーンと飛行機の金属音がして、上を向いた。
 「ピカー」と光り、光線が左半身を照らした後、真っ暗になった。「ここで死ぬとかな。長崎の友達ともお別れできてないのに」
 気が付いて目を開けると、光線を受けた顔の左半分や左腕が真っ赤にただれ、やけどしていた。引っ越したばかりで道が分からず、人の流れのまま歩くことしかできなかった。
 道中、弟と姉に会った。弟は全身にひどいやけどをしていた。兄宅近くの防空壕(ごう)に逃げ込むと、夜遅くになって父が駆けつけた。父は娘が道端で死んでいると思って女性の遺体を確認しながら捜し回ってきたという。
 防空壕の中で兄の同僚が「広島と同じものが長崎にも落ちたらしい」と教えてくれた。家族や同級生が心配でたまらなかった。
 11月ごろ、長崎に戻ると、家族は無事だった。しかし、同級生は動員先の三菱長崎造船所浜口町三菱工業青年学校工場で10人ほど亡くなったと聞いた。猪口さんも引っ越していなければそこに動員されていただろう。
 幸い、やけどの跡は残らなかった。ただ、被爆から10年以上は、左腕と顔の左半分は、夏になって日の光に当たると真っ赤になった。母は「女の子なのでお顔だけは」と、やけどの跡が残らないように祈ってくれていた。夏でも長袖を着て、左側は人に見られないよう立ち振る舞った。21歳で結婚。子どもも授かった。
 広島で被爆しながらも「父のおかげで救われた。戦争だけはしないでほしい」と願う。6日は自宅のテレビで広島の平和記念式典を見た。午前8時15分に鳴り響いたサイレンに合わせて黙とう。原爆死没者に祈りをささげた。


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