合唱曲「あの子」や「子らのみ魂よ」作曲の木野普見雄 記者が足跡たどり“追体験” 核の惨禍「繰り返すな」

1945年9月ごろ、原爆で焼失した自宅跡に座り込む木野普見雄(叔父提供)

 原爆の犠牲になった子どもらをしのび、被爆地長崎で歌い継がれる合唱曲「あの子」や「子らのみ魂(たま)よ」。作曲した木野普見雄(ふみお)(1970年に62歳で死去)は被爆者で、記者の母方の祖父に当たる。長男で記者の叔父、隆博(71)と足跡をたどり、祖父の人生を“追体験”すると、亡くなった家族への思いを胸に秘め、核の惨禍に遭った人たちの怒りや願いを「五線譜」に託した姿が心に浮かんだ。

 7月下旬、夏休みを迎えた長崎市城山町の市立城山小。子どもたちの澄んだ歌声が室内に響く。5、6年生の代表26人が長崎原爆の日の平和祈念式典に向け「子らのみ魂よ」の合唱に励んでいた。
 同校では児童ら1400人以上が犠牲となった。毎月9日に平和祈念式を開き、全児童で同曲を歌う。6年の陶山広太郎さん(11)は「原爆で亡くなった方々、平和を祈る人たちの思いが詰まった曲。卒業しても忘れない」と話した。
 原爆投下時、祖父は37歳で、同校近くの城山町1丁目(現在の城栄町)に妻と幼い娘、息子と暮らしていた。新聞記者を経て44年に市議会事務局に入り、戦後は事務局長を長く務めた。
 45年8月9日、市役所で原爆に遭い、消火作業に追われた後、一晩掛けて自宅付近にたどり着いたが、焦土と化した地にぼうぜんと立ち尽くした。
 「妻や子を探そうにもどこをどう探せばよいのか」
 56年に発行した手記「原子野のうた声」に当時の心情をつづっている。原爆投下から3日目。3人の遺骨を見つけ、箱に収めた。その箱を抱き締め「さあこれから起上るぞッ」と心に誓ったという。

 「歌曲を通じて原爆の悲惨苦を憶(おも)い、かつ呪うべき戦争を再び繰り返すことのないよう訴えたい/原爆の犠牲となった七万五千人の尊いみ魂に捧(ささ)げる哀悼のしるしでありたい」
 祖父は原爆や平和にちなんだ歌曲を手掛けた理由をそう手記に記している。
 被爆医師、永井隆博士の詞に哀愁を帯びたメロディーを付け、市立山里小で歌い継がれる「あの子」が49年に完成。51年には「子らのみ魂よ」の作曲を手掛けた。この二つの曲は平和祈念式典で毎年交互に歌われている。独学で覚えた作曲や音楽の知識を生かし、原爆や平和にちなんだ歌曲を20曲以上生み出した。
 一方で46年には被爆資料の収集を始めている。49年に発足した市原爆資料保存委員会の委員となり、変形したインク瓶やステンドグラスの枠などを寄贈。同市平野町の長崎原爆資料館には9件が祖父の名で寄贈されており、うち7件が展示されている。
 叔父は展示資料を眺めながら「まずは歌で、それから目に見える形で残すことが必要と感じたのだろう」と語った。

 祖父は46年9月に祖母と再婚。48年に母が、50年に叔父が生まれた。記者が生まれる3年前に原爆症で亡くなり、直接会ったことはない。だが、祖父が残した音楽や手記、被爆資料を通じて、曲に込められた思いをより深く理解できた。
 「二度と繰り返すな」-。記者として受け継いでいく決意を新たにした。

児童の合唱に聞き入る(左奥から)叔父と記者=長崎市立城山小

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