大願の金メダル叶えた“一体感” 侍J・稲葉篤紀監督が実践した最強チームの作り方

侍ジャパン・稲葉篤紀監督【写真:AP】

北京の悔しさ忘れず生かした…何より重視したのはチームの一体感

侍ジャパンを2017年夏から率い、大目標の東京五輪で見事、金メダルを獲得した稲葉篤紀監督は、「五輪の借りは五輪で返す」と言い続け“有言実行”で頂点に立った。プロ選手が五輪に参加するようになって20年強、日本球界の大願をついに果たせた理由はどこにあったのか。涙と笑顔に彩られた野球人生を紐解き、探ってみた。【羽鳥慶太】

8月7日に横浜スタジアムで行われた決勝戦の9回、米国最後の打者が二ゴロに倒れると、侍ジャパンの選手たちはマウンド付近に集まり、喜びを分かち合った。そしてチームを率いてきた稲葉監督はベンチで目頭を抑え、コーチ、スタッフと抱擁を繰り返す。侍を率いたこの4年強、いや、メダルを逃した北京後の13年間、背負ってきた重荷からようやく解放された瞬間だった。感激屋で、涙もろい指揮官は誰からも愛される。今回は紛れもない嬉し涙がこみ上げた。

「五輪の借りは五輪でしか返せない」。そう言い続けたのは自身の経験からだ、現役時代の稲葉監督にとっては2007年冬の北京五輪予選が、実に大学生以来の日本代表。当時35歳という遅咲きの華だった。「5番・右翼」が定位置。「あんなの初めてだよ。体が動かないって、本当にあるんだな……」という重圧を乗り越え、本大会行きをつかんだ。

そして迎えた北京五輪。臀部に痛みを抱えながらも、星野仙一監督からの「出たいのか出たくないのか、どっちや」という直電に「出たいです!」と応えた。運命の準決勝・韓国戦、8回に韓国の主砲イ・スンヨプ(当時巨人)が放った決勝2ランは、自身の遥か頭上を飛んで行った。「入るな、って、祈ることしかできなかったな」。3位決定戦にも敗れメダルなし。試合後は、帽子で顔を覆い、静かに泣いていた。大会後は新千歳空港に深夜、ひそかに帰ってきた。出迎えは、送迎を頼んだ知人1人だけ。セレモニーまであった出国時と、あまりに大きな落差だった。結果が全てなのだと思い知らされた。

北京後には「もうこれで終わりだろ」としていた代表でのプレーはしばらく続いた。2009年のWBC日本代表にも選ばれると、こう口にした。「俺は、裏方の勉強をしに行くんだよ」。頭にあったのは、五輪予選での矢野輝弘捕手(現阪神監督)の姿だった。試合に出場しないときもチームをまとめようと、献身的に動いていた。実際には右投手との対戦を中心に4番を任されることになるのだが、次の黒子役は自分だという思いがあった。勝敗を左右するのは、グラウンドに立つ選手の技量だけではない。ベンチとの一体感を作りたかった。

金メダルを“至上命題”と言われるのがどれほど重いか、稲葉監督は星野ジャパンの経験で知っていた。まして今回は地元開催。五輪でともに戦うメンバーは「心中できること」が条件だった。2019年のプレミア12で優勝したメンバーが骨格となったのはそのためだ。現在の調子を優先して選考すべしとの外野の声は関係なかった。チームの一体感と、継続性を最優先。選手との和を重視し、信じるスタイルで活路を開いた。

恩師はバルセロナ五輪代表監督、小久保の姿勢学び努力の人に

五輪のコーチ陣にはメダルがない。記念撮影では菊池涼介内野手(広島)が稲葉監督の首に、自身のメダルをかけに来てくれた。ついに手にした金メダルを両手で大事そうに支えると、満面の笑顔を見せた。試合後のテレビインタビューに立つと「サポートしてくださった方々もいますし、本当にみんなでつかんだ金メダルだと思います」とハイテンションでまくし立てた。支えられた1人が、稲葉監督にとっては恩師にあたる山中正竹・侍ジャパン強化本部長だ。そもそも指揮官と“国際野球”の出会いは、この人なくてはあり得なかった。

野球が正式種目となった1992年バルセロナ五輪の代表監督が山中氏だった。まだ青学大の学生だった小久保裕紀・前日本代表監督や伊藤智仁投手(当時三菱自動車京都、現ヤクルト1軍投手コーチ)らを擁し、銅メダルを獲得した。まだプロ選手が五輪に参加できない時代、どうやって当時世界最強のキューバを倒そうかと知恵を絞り、戦っていた。4年間をかけてチームを作り上げ、個性あふれる選手一人ひとりに役割を自覚させていくという方法論は、稲葉が率いた東京五輪代表と酷似する。

山中氏が五輪代表監督という大役を終えた1994年、母校・法大の監督に就任すると、そこには主軸で起用され続けながら、今一つ殻を破り切れない稲葉がいた。山中氏は当時の稲葉を「今もそうだけどとにかく謙虚でね、自分が凄い選手だということに気づいていなかったんです。だから本気で野球にも取り組んでいなかった」と振り返る。覚醒を促そうと「俺は世界の野球を見てきたけど、その中でもお前はこれだけ凄いんだよ」と説き続けた。東京六大学のリーグ戦で、4番から外すショック療法を試みたこともある。さらにバルセロナに至る過程で、向上心の塊だった小久保の姿を伝えていった。

気が付けば稲葉は、夜に合宿を抜け出し、ひたすらバットを振るようになっていた。豊かな素質に恵まれた男が、努力という武器を手に入れた。翌年ヤクルト入りし、2005年には日本ハム移籍。いつしかスランプからの脱出法を「振ること。俺にはそれしかできないから」とまで言うようになった。太く長い活躍は、42歳で引退するまでに通算2167安打という数字が物語る。

五輪のベンチで共に戦った金子誠、建山義紀の両コーチは、現役時代から行動を共にし、野球観をすり合わせてきた仲。清水雅治三塁ベースコーチは、現役時代の日本ハムで出会い、走者や外野手を的確に動かす能力に驚かされた存在だ。自身の野球人生を形作ってきた出会いを「チーム稲葉」として最高の舞台で生かした。野球人・稲葉篤紀の経験値はすべて、この金メダルのためにあったと言っても、決して大げさではないだろう。(羽鳥慶太 / Keita Hatori)

© 株式会社Creative2