被爆体験者救済 募る焦り “ゼロ回答”に怒りと落胆

自宅のテレビで平和祈念式典の様子を見守った今里さん。式典でも、その後の記者会見でも被爆体験者の救済に前向きな言葉はなく、落胆した。「期待外れでしたね」=長崎市三重町

 長崎原爆が投下されて76回目の8月9日、被爆地長崎では鎮魂の祈りをささげる光景が各地で見られた。被爆の実相を知る人の高齢化は避けようのない現実として横たわり、世界の核情勢は不透明さを増している。それでも、新たに原爆の記憶を語り始めた人がいれば、その思いを継ごうとする若い世代もいる。新型コロナウイルス禍の最中、今年1月には核兵器禁止条約も発効した。核兵器廃絶と世界平和-。被爆地長崎の思い、願いを、世界はどう受け止めるだろうか。
 淡い期待は、落胆に変わった。国が定めた境界の外で長崎原爆に遭い、被爆者認定を求め続ける「被爆体験者」たち。9日、長崎市を訪れた菅義偉首相は、救済への積極的な言葉を避けた。事実上のゼロ回答。広島の「黒い雨」訴訟判決で差した一筋の“光”は、長崎に届かないのか-。戸惑い、怒り、そして焦り。さまざまな思いを抱える高齢の体験者たちを訪ねた。
 「被爆者と認めて。絶対に望みます」。9日午前。同市三重町の今里寅見さん(83)は、平和祈念式典に臨む菅首相をテレビ越しに見詰めた。10日余り前、広島高裁が国の指定地域外で放射性物質を含む黒い雨を浴びた人を、被爆者と認めた判決が確定。首相談話は、原告と「同じような事情」にあった人の救済も検討するとした。
 だが、式典の数時間後、期待は裏切られた。会見した菅首相は被爆体験者救済について「長崎では訴訟が継続中。その行方を注視する」とだけ述べた。
 今里さんは7歳の頃、旧西彼三重村(爆心地から約12キロ)の理容室で原爆に遭った。散髪中、爆風で窓ガラスが割れた。店の床下に20分ほどかくまわれ、帰宅する途中に長崎の方角に「ものすごく大きな黒い煙」を見た。
 1957年施行の原爆医療法(被爆者援護法の前身)は被爆地域を当時の長崎市などに限った。市内なら爆心地から12キロ地点で被爆者と認めたが、行政区が異なる三重村は同じ12キロで除外。2002年、半径12キロ内の人を対象に体験者支援事業を始めたが、被爆者より援護内容は劣った。
 今里さんは毎年の健診で白血球数が基準を大きく超過。07年以降にぼうこうや大腸、前立腺のがんが見つかった。「原爆と関係があると考えてしまう」が、がんは体験者への医療費助成の対象外だ。今里さんは「被爆者と同列に扱ってほしかった。(首相は)わざわざ長崎まで来たのに、期待外れ」と肩を落とした。
 失望は同市船石町の体験者、松下明則さん(82)も同じ。当時は爆心地から約9.7キロの旧北高古賀村で強い閃光(せんこう)を感じ、爆心地方面から「燃えかすがパラパラ降ってきた」。屋外の水くみ場の水を飲み、畑の野菜も食べた。放射性降下物による内部被ばくへの不安がある。「国は被爆者認定に科学的根拠を求めるが、行政区による線引きこそ一番非科学的だ」と憤る。
 爆心地から約11.2キロの伊王島で原爆に遭った佐藤郁雄さん(86)。自宅前で爆風に突き飛ばされた。防空壕(ごう)へ逃げる途中に「今にも化け物が出てきそうな赤黒い原子雲」を目撃した。
 菅首相の“ゼロ回答”に「でたらめだ。体験者を差別するのか。国民を救済する意識がない」と怒りをあらわにする一方、急に声を落とした。「私たちも片足を棺おけに突っ込んでいる。あと、どのくらい生きるか分からん…」。被爆地域の拡大運動を長年続ける佐藤さんに、「生きているうちに(被爆者健康)手帳をもらえるよう頼む」と言いながら、亡くなった体験者は少なくない。
 県内の被爆体験者は6309人(7月末現在)。平均年齢は82歳を超えるとみられる。今なお不可解な線引きが残る被爆76年。“被爆体験者なき時代”も迫っている。

「赤みがかった黒。今にも化け物が出てきそうだった」。76年前に原子雲を見た方角を背に語る佐藤さん。5、6年前には記憶を頼りに原子雲を描いた=長崎市伊王島町1丁目

© 株式会社長崎新聞社