ビキニ拒否、短パンは罰金なのか 少数者の自己決定支えるスタートに 東京五輪の課題

By 江刺昭子

東京五輪の閉会式で国立競技場から打ち上げられたフィナーレの花火を路上で見上げる大勢の人たち=8月8日夜

 熱戦が続いた東京五輪が閉幕した。テレビで観戦しながら、しきりに思い出されたのは、1964年の東京五輪のことである。高度成長時代のとば口で、人々の暮らしは、まだつつましかった。今回は開会式や各競技会場で大量の弁当が余って廃棄されたと伝えられたが、64年大会のころなら、そんな無駄はあり得なかった。

 わたしは64年春、東京・新宿の甲州街道沿いの出版社に入社したので、男子マラソンのアベベ選手が後続をはるかに引き離して軽快に走り去るのを間近で見た。女子マラソンはまだ種目になかった。当時に比べ、女性のスポーツ参加の機会は着実に広がった。だが、問題が解決したとはいえない。この間のスポーツにおける性差の問題を考えたい。(女性史研究者=江刺昭子)

 ▽種目や選手数の平等は実現

マラソンで最後のコーナーを走るアベベ(エチオピア)=1964(昭和39)年10月21日、国立競技場

 64年大会の頃は、スポーツは主として男性のものだった。女性は「弱い性」、保護されるべき存在とみなされ、競技種目も男性に比べ大きく制限されていた。マラソンのような過酷なレースは論外だった。

 内閣府の男女共同参画局によると、1896年のギリシャにおける第1回大会は男性のみ、女性には門戸を閉ざしていた。女性が選手として初めてオリンピックに参加できるようになったのは、1900年のパリ大会からだが、女子種目はテニスとゴルフだけ、997人の参加選手のうち女性は22人にすぎなかった。

 1904年セントルイス大会でアーチェリー、08年ロンドン大会でフィギュアスケート、12年ストックホルム大会で水泳に女子種目が加わった。IOCが「女性らしい」とみなした競技が、オリンピックの女子種目として認められてきたのだ。

 夏季大会で女性が参加可能な競技の割合は、76年モントリオール大会で初めて5割を超え、2012年ロンドン大会でボクシングに初めて女子種目が加わって、全競技で女性の参加が可能となった。

 日本からの女性の五輪参加は28年の第9回アムステルダム大会が最初で、人見絹枝選手が女子800メートルで銀メダルを獲得した。日本の女性のスポーツ参加を広げる契機となったのは、やはり64年東京五輪だろう。菅首相も感動したという女子バレーボールチームは、大松博文監督による猛トレーニングで知られた。誰かがミスをすると、全員が頰を平手打ちされたり、ほうきで尻をたたかれたりした。今なら虐待である。

1964年東京五輪のバレーボール女子最終戦、日本―ソ連

 だが、金メダルを獲得し「東洋の魔女」ともてはやされたことで、学校の部活動でバレーボールが盛んになり、「ママさんバレー」を始める人も多かった。

 五輪に参加する日本人の女性選手は、64年は61人で全体の17%に過ぎなかったが、96年のアトランタ大会で310人中150人と半数に近づく。2004年のアテネ大会では313人中171人となり、女性が上回った。ソフトボールやサッカーといった団体種目で出場権を獲得した結果だった。今大会は583人中277人(47・5%)で、種目と選手の人数で見る限り、男女平等はほぼ達成されたといえる。

 ▽女性のリーダーシップは不在

 しかし、大会組織委員会会長だった森喜朗氏の女性差別発言は、組織委員会だけでなく、日本のほとんどの競技団体が男性優位であることをさらけ出した。団体の役員は圧倒的に男性が多く、組織の財政や運営、意思決定権を握っている。

 JOCは2017年、スポーツにおける女性の地位向上を求めた国際的な提言「ブライトン・プラス・ヘルシンキ2014宣言」に署名している。宣言の「基本方針6」に掲げる「スポーツにおけるリーダーシップ」の全文を引く。

 「女性はいまだ、あらゆるスポーツおよびスポーツに関連した組織のリーダーシップや意思決定の立場において少数派である。これらの領域に責任のある人たちは、女性リーダーの採用、メンタリング、エンパワメント、報酬、そして彼女たちが働き続けられることを特に考慮しながら、あらゆるレベルのコーチ、アドバイザー、意思決定者、審判、管理者、スポーツをする女性の数を増やすための政策、プログラム、設計構造をつくらなければならない」

今大会は女性審判が増えたように見えた。柔道男子で主審を務める天野安喜子さん=7月30日、日本武道館

 現在、クローズアップされているのは、女性アスリートに対する盗撮や性的画像の拡散である。競技とは無関係に、性的な意図で画像や動画を無断で撮影され、あるいは編集されて、SNSなどで拡散される。その被害を体操や水泳の元選手たちが訴えている。現役のときには、嫌だと思っても言えなかったことをようやく訴え始めたのだ。

 体操は64年東京五輪でも注目された。個人総合で優勝したチェコのベラ・チャスラフスカ選手の優美な演技が評判になったが、日本の女子チームも団体で銅メダルを獲得、池田敬子、小野清子らが活躍した。

東京五輪の女子体操競技で3つの金メダルを獲得したチェコスロバキアのベラ・チャスラフスカ。プラハでの練習中の写真=1964年

 当時のウエアは長袖で紺や赤など無地がほとんどで地味だった。いまのレオタードに比べると、肌の露出は少ない。それでも取材した男性新聞記者は「肌にピッタリで体の線がくっきり出るほど裸に近い水着姿?の女性が、大胆にも飛びはね、両足を開く姿は、なんとも悩ましくまぶしかった」と回想している(『朝日ジャーナル』1983年10月7日)

 ▽残された課題に取り組め

 今回の五輪でドイツの体操選手が、胴から足首までを覆う「ユニタード」で演技をした。抑制された美しさが感じられて、安心してテレビ観戦できた。

 ところが7月に行われたビーチハンドボールの欧州選手権では、ビキニ着用を拒否して短パンで出場したノルウェー女子代表が、欧州ハンドボール連盟から服装違反として1500ユーロ(約19万円)の罰金を科されたという。

 女性選手たちが自らの競技ウエアすら選択できず、男性主導の競技団体が男性の目線で強制しているとすれば、それこそが女性のリーダーシップの必要性を、如実に示す事態といえる。女性のリーダーシップが目指すのは、他者を支配することではなく、選手たちの、女性たちの自己決定を支えることなのだ。

 女性アスリートは摂食障害に陥りやすいとされる。そこまで追い込まれない人でも、生理や結婚、出産といったさまざまなライフイベントが立ちはだかる。スポーツを続ける上で、これらの出来事が障害とならないような仕組みや支援を考え、実行していくことは、女性だけでなく、さまざまなマイノリティーの参加の機会も広げるはずだ。

 国別メダルの多寡などに惑わされることなく、五輪が残したこれらの課題に日本が今後、本気で取り組むなら、日本のスポーツ界におけるジェンダー平等元年として記憶に残る「2020東京」になろう。スポーツ界に限らず、ジェンダー平等が世界水準からはるかに取り残されている政治や経済の分野にも良い影響を及ぼすのではないだろうか。

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