まさか人間魚雷とは 「回天」工場で働いた女性「乗る人はどんな気持ちだったか…」

女学校時代の写真を見つめる高光さん。空襲で亡くなった級友も写真の中にいるという。

 戦時中、日本海軍の人間魚雷「回天」の製造に関わった女性が京都府京丹波町にいる。乗組員が魚雷もろとも体当たりして、相手艦船に打撃を与える水中特攻兵器だったと後に知った。「そんなものを造っていたとは…」と絶句する。終戦間際には製造工場が空襲され、友を失った。「やけどで人相が変わっていた。なんてみじめなことをしたのか」と涙に暮れる。

■「何を造っていたかも分からなかった。乗る人はどんな気持ちだったか…」

 同町出野の高光朝子さん(93)。山口県出身で、女学校在学中の1944年ごろに同県光市の光海軍工廠(こうしょう)へ学徒動員された。

 工場では「かぶとを造れ」と指示された。魚雷の一部であることは伏され、「何を造っていたかも分からなかった」と振り返る。生産していたのは、回天の胴の部分と組み合わせる先端部だった。軍人からは「1ミリでも違ったらだめだ」と厳命され、重い部材を旋盤で慎重に削った。一日中、ほぼ立ちっぱなしだったという。

 戦局を打開するという意味が名前にこもる回天は、先端に爆薬を搭載。全長約15メートルの1人乗りで、乗組員が操縦して艦船に体当たりする。出撃は死を意味するため、「棺おけ」とも称された。

 終戦後まもなく、学校関係者から、造っていたのは人間魚雷だったと聞かされた。「人が中に入る魚雷だなんて夢にも思わなかった。不良品を出さないようにという一心で造るだけだった。偉い人は、なぜ人間魚雷を考えたのか。乗る人はどんな気持ちだったか…」と言葉を詰まらせる。

 海軍工廠は終戦前日に空襲を受けた。寮にいて難を逃れたが、工廠で働いていた約20人の同級生は亡くなった。爆撃時の記憶はあまりないというが、海の近くに並ぶ遺体を見たのは忘れられない。「仲良しの人もいて、友達と泣き崩れた。火ぶくれで人相も分からないほどだった。本当にかわいそうで…。運が良かったと言うと申し訳ない」と、おえつを漏らす。

 戦争は防げなかったのか。せめて、もう少し早く終えられなかったのか。そんな思いが消えない。「日本の偉い人たちが、何でもっと早く気づいてくれなかったのか。ものすごい数の人が命を落としてしまった」と唇をかむ。戦後、山口県での慰霊祭に足を運んだ。今も終戦記念日には仏壇に線香を上げ、級友の名を唱える。

 戦後、縁あって嫁いだ京丹波町の長源寺で作法をたたき込まれながら寺を支えた。90歳を超えても書をたしなみ、運動も欠かさず、毎日を過ごす。「日々の幸せを忘れてはいけない。何があろうと明るく、自分が観音様になった心持ちで暮らしたらよい」という言葉に、争いのない世を願う思いがにじむ。

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