田原俊彦「恋=Do!」インパクト満点のハンドアクションが復活!  田原俊彦「オリジナル・シングル・コレクション 1980-2021」発売間近!

仕込むほど努力して、自らの力に変えていく田原俊彦

1980年のことは以前に書いた記事『聖子チャンと良美チャン、クラスを二分した女性アイドル決選投票の夏!』で触れたことがあり、同年デビューした松田聖子と岩崎良美のマッチレースについて書いた。残念ながらその時僕らが推していた岩崎良美は、その後賞レースからは後退。やがてはトシちゃん、聖子ちゃんの一騎打ちの様相を呈していった。そして図らずもこの2人が共演したCMに使われたトシちゃんのセカンドシングル「ハッとしてGood!」が大ヒット。田原俊彦は年末のレコード大賞新人賞の栄冠に輝くことになる。

今では次々と有望な若手ユニットを賞レースのど真ん中に送り込んでくるジャニーズ事務所も、実はこの頃まで数々の音楽賞に絡むことができずにいた。田原俊彦の快挙こそが今日まで続くジャニーズ栄光の歴史の幕開けを告げたのである。

稀代のプロデューサーとうたわれたグループの創設者、ジャニー喜多川氏は、田原俊彦、近藤真彦、野村義男 “たのきんトリオ” の面々の中でも、特に先陣を切ることになった田原俊彦に目をかけ、厳しく指導していったという。それは、仕込めば仕込むほど、彼自身が努力して自らの力に変えていく能力に長けている… と見込んだ上でのことだった。

サウンドとビジュアルで大いに楽しませてくれた「恋=Do!」

1981年、田原俊彦は年明け早々に新曲「恋=DO!」のリリースでスタートを切った。英語混じりのファニーなタイトルは、いかにもジャニーさんの影響を強く感じる。

「=(イコール)」を「は」と読ませるのは、いかにも彼ならでは言語感覚であり、それは今でも難読な(最近ではSixTONESのような)グループ名のネーミングにも通じるものがある。

後にジャニーさん自ら手塩にかけたと語るほど、この教え子に対しては現場に介入していった。それは田原が成功するか否かに事務所の存亡を見据えていたからこそであろう。

作詞は洋楽のカバーであった「哀愁でいと」を直訳ではない詞を付けることで成功に導いた小林和子。田原のデビュー当時、宮下智と共に、その世界観の形成に貢献したジャニーさんの信頼も厚い作家である。

また、アメリカンポップスのオーソリティである作曲家、小田裕一郎の手による楽曲は、ロックバンドSHOGUNのメンバーでもあった大谷和夫のアレンジを得て、いかにもジャニーさん好みの作品に仕上がっていた。

そして、最大の見せ場ともいえるダンスは一層激しさを増し、歌唱中にも絶え間なく続くようになっていた。冒頭の「♪I wanna do! I wanna do!」というリフレインの部分では、デビュー曲以来のインパクト満点のハンドアクションが復活。ビジュアルでも大いに楽しませてくれた。そして僕らにとっては、このキャッチーな振付けこそが彼に注目する大きな理由にもなっていた。

田原俊彦のパフォーマンスは、体育会系運動部員も注目?

当時、歌って踊れる男性アイドルは女子たちの憧れの対象であり、ムサ苦しい男子高校生である我々とは対極にあるものだと思っていた。ましてほぼ同年代に近いとあっては、ともすれば嫉妬の対象でしかない。しかしそこは体育会系の運動部員だった筆者ならではの、刮目すべきポイントがあった。

時折、部活の先輩からお呼びかかかる「おーい1年、何か歌えよ~」の声。筋トレなど冬場の練習中にヒマを持て余した上級生のもとで、即興の演芸大会が始まることがある。日頃は怖い先輩たちとも笑顔?で語り合えるコミュニケーションの場でもある。

「何か歌え」にいかに応えるかは僕ら下級生の密かな課題であった。ここで持ちネタのひとつもないようでは情けない。まさか校歌でもあるまいし、腰に手を当てて大声でがなり立てても面白くも何ともない。“鳩ぽっぽ” や “チューリップ” などを披露する者もいたが、童謡なんてまるでセンスがない。もちろん先輩が好きな女性アイドルの曲を披露するという選択もあるが、出来が悪いと強制退場のリスクも伴う。選曲と派手な振りこそが、皆を出し抜きウケを取るコツなのである。

こんな時、我らがトシちゃんの曲は最良の選択だった。僕らはその振付を少しでも頭に叩き込もうと、テレビに映る彼のダンスパフォーマンスを、時折食い入るように見つめていた。

「恋=Do!」は、その中でも最適解となる条件を備えていたといえる。僕らが屋外で歌う時は、もちろん伴奏などないから、仲間の合いの手と手拍子と頼りである。前奏が長い曲だと、だらだらと口演奏を始めても何の曲だかさっぱり伝わらないし、かといって端折ると嘘っぽい。

その点、ほんの4小節くらいの前振りで、親指を立てたまま大きく後ろに腕を振りながら歌い出せるこの楽曲は、それだけもやんやの喝采を浴びることができた。

1981年は年明け早々から たのきん対決

僕らはそんな独特の視点で高校時代をトシちゃんの楽曲たちと過ごした。「哀愁でいと」はよかった。何より歌が格好いいし「♪バイバイ~」の振りもいい。だが「ハッとしてGood!」では、歌詞に多用されるトシちゃん節ともいえる「~さ!」の言葉づかいが何ともこっ恥ずかしいのだ……。キャラクター的には“3年B組の沢村クン”に勝手にシンパシーを感じていたから、ファンタジーよりもロックで激しいアクションを伴う楽曲ばかりを好んで追いかけていた。

一方で「恋=Do!」リリースの1か月前、“たのきんトリオ” のマッチこと近藤真彦のデビュー曲「スニーカーぶる~す」がリリースされて以降、近藤真彦は強力なライバルとして、田原俊彦と並び立つようになっていく。トシちゃんの軟化に被せてくるような、ガチ硬派路線の歌唱スタイルは体育会系の僕らにも馴染みやすく、おまけに「♪ジーグザグザグ、ジグザグジグザグ~」のハンドアクションにも、なかなかのインパクトがあった。3年B組のクラスメート星野クンが歌う歌詞の語尾には「~ぜ!」が多用された。既にその先、彼が進むキャラクター路線というものがそれとなく規定付けられていたように思う。

かくして、1981年は年明け早々からたのきん対決の様相を呈し、2週目に田原俊彦「恋=Do!」が近藤真彦「スニーカーぶる~す」から、オリコンチャートのトップの座を奪取することになる。

当時と変わらぬ動きを見せる田原俊彦

こうして80年代の音楽シーンは進み、僕らはニューミュージックにテクノ、AOR… 邦楽から洋楽に至るまで、あらゆるジャンルの音楽を浴びるように触れ続けてきた。しかし僕らは田原俊彦の楽曲に親しむことで、アイドル歌謡のリスナーであり続けた。

今はもう、あの頃真似たアクションを再現することはできないかもしれないけれど、画面の向こうには、時を止めたように当時と変わらぬ動きを見せている男がいる。僕らは彼を目の当たりにして「まだ頑張らなきゃな」と感じる。それもまた、今の僕らなりのアイドル歌謡との向き合い方なのかも知れない。

カタリベ: goo_chan

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